素盞鳴尊は
建速須佐之男命とも神速素盞鳴尊とも申し奉り、伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子で、天照大神、月読命に次ぎて生まれませる
三貴神の一柱である。
古事記には、伊邪那岐大神が黄泉国(よみのくに)の穢を祓い給わんとて筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)にて禊し給う時、左の御目を洗い給ふて天照大神、右の御目を洗い給いて月読命を生みまし、次ぎに御鼻を洗い給いし時に須佐之男命生まれましたと記す。
日本書紀には諾册(イザナギ、イザナミ)二神共に相議りて大八洲の国々及び山川草木を生み給いて後、天下の主(きみ)たる者を生みなんとして日の神・月の神を生み給い、次ぎに素盞鳴尊を生み給われたとする。一書には(中略)、性(うまれつき)そこない破る事を好み給うと説いてある。
御名義、スサは進むの意味で、この神が御心御行為共に他の諸神と異なり何事にも進み給う所おわしまししに依る御名で、ノは助詞、ヲは鳴より男と書く方が本義で男性の美称である。また、神速・建速は何れもこの神の烈しく、猛く、敏活(はや)く、勇ましき御性質を表す美称の接頭語である。
(以下概略)「滄海原を知らせ」という父大神(伊弉諾神)の命に従わず、「母の国根の堅洲国に罷り行かん」と、青山を泣き枯らし海河を泣き乾したため、悪神が湧き起こり萬の妖(わざわい)が發(おこ)った。父大神は忿怒し尊(素盞鳴尊)を根の国に移すことにした。
尊は天照大神に決別の情を述べようと高天原に上ったが、却って国を奪いに来たかと疑われた。この時、天の安河を中にして、疑いを解き赤き心を明かそうと
誓約(うけい)をした。「もし誓約の中に吾が生める子が女ならば即ち濁き心ありとし、男なりせば清き心と思召されたし」と。その際、天照大神が素盞鳴尊の剣から生んだのが3柱の女神で、素盞鳴尊が天照大神の勾瓊(まがたま)から生んだのが5柱の男神だった。清き心の証が得られたので、素盞鳴尊は「吾れ勝ちぬ」と種々の暴状に及んだ。このため天照大神は遂に耐えかねて
天石窟にお隠れになった。八百萬の神は天石窟の前で舞楽を奏し、再び大神を誘い出したが、素盞鳴尊には多くの贖罪の品物を背負わせ、髪と手足の爪を切って、高天原から追放した。
素盞鳴尊は
出雲の国に至り、
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、その時救った櫛那田姫(くしなだひめ)と宮居するために、清地(すが)に宮を建てた。この時詠んだ、「八雲たつ出雲八重垣つまこみに八重垣つくる其の八重垣を」は、我が国で最も古い短歌といわれる。尚、八岐大蛇の尾から出た
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献上したが、これは後の三種の神器の一つ
草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。
高天原を追放され給いし後の素盞鳴尊は、先の慄悍暴状に反し、神徳愈々広大なる御神と化(な)られ、専ら国土経営に御力を注ぎ、又多くの御子孫皆顕著なる御神徳を発揚せられ共に一向に国利民福の事を図られ為に国内皆其の徳になつき従い、かくて豊葦原瑞穂国の主と成り坐し、天孫降臨の基礎を固め給われたのである。
官幣大社
八坂神社、国幣小社
津島神社は共に尊を斎き祀る。京都の
祇園祭其の他一般に行われる祇園会は尊を祀る神事である。尊を
牛頭天王と言うは、尊新羅の曽尸茂梨(ソシモリ:後の長春)に到り、牛頭山に居たまいしに依り、土地の民が其の御徳を称えた御名であろう。また、曽尸は朝鮮の古語で牛の意、茂梨は頭を言う事で、今の江原道の牛頭山であろうという。
津島祭は尾張国国幣小社津島神社の祭礼にして祭神は素盞鳴尊である。其の他全国に尊を祀る神社は極めて多い。
(『伊那の御祭神(小笠原 賢太郎 著)』より抜粋)
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