園原から阿知駅があったと推定される駒場までの古代の経路は、オオサンドウのところで述べた網掛峠越しのほかには全くなかった、と考えられていました。
 「小野川・本谷・園原・共有山史」にもその理由を
 「本谷・園原から外界に通じる自然の道筋としては、本谷川の流れに沿って下り、昼神部落を経て駒場の町へ出るのが最も望ましい。従来ここに道がなかったのは、川の両岸が五キロの長さにわたって、断崖絶壁の多い急斜面であったからである
としていますが、まさにその説を肯定して疑わない険しい地形です。

 ところが、ここに道の描かれた絵図がありました。駒場の矢沢廣行氏蔵の絵図で、「宮崎太郎左衛門知行山」と駒場や横川のところに書かれてあるのを見ると、延宝年間(たぶん四年・一六七六)の山論の折に作製された古絵図であろうと推定されます。

 写真では不鮮明で充分な説明にならないので、主要部の略図をのせておきます。右下が駒場の市ノ沢から曽山に渡るカラハシです。問題の道路は昼神の集落を通り阿知川の左岸を(図では右側)さかのぼって、川を渡る。これは現在の湯の瀬つまりホテル阿智川のあるあたりで、そこから北方に突き出た小さな尾根「湯の根」を越えて「つるまき」と書かれた鶴巻淵のほとりを経て、そのまま黒川との合流点を過ぎ、「昼神発電所」のあたりまでさかのぼってここで左岸にうつっており、その前に清内路方面に通ずる道が「山王(式内阿智神社)」の前を通るように分岐して描かれています。

 こうして本谷川(阿知川の本流であるが黒川との合流点から上流を本谷川という。この絵図では「野熊川」と書かれている。)の左岸に出た道は、あの険しい渓谷をどう通ったのかわからないが、先述の大山道川の合流点付近で再び渡河し、ここで網掛峠を越してきた道と合して「まきだち」「とのしま」の浅い谷間を通って、農協園原支所の下手あたりで本谷川を渡るように描かれています。

 この絵図では、伊那街道が最も太い朱線で描かれ、次いで網掛峠を越す古代東山道の経路とされる道が少し細く、最も細く描かれたのがこの園原〜昼神道です。この道が実際にはどの程度の「道」であったのか、これだけではわかりませんが、少なくともけもの道といわれるものより良好な状態であったものと想像されます。

 なお、この絵図には小野川の関が描かれていませんが、関所を通らずに美濃〜信濃を結ぶ抜け道となっていたことも考えられ、あるいは古く古代・中世からの道形があったのかもしれません。しかしこのあたりでも本谷川の水量は決して少なくないのに、昼神〜園原間で四回も川を渡らなければならないとは、古代東山道の脇道とするには少し無理がありそうに思えますが、険しい坂道と桟のある網掛峠西側の道すじが長雨によって崩壊したような場合には、駅馬が通ったこともあったかもしれません。

 この道の存在した事実は、当時十石の朱印状を下付されていた山王権現(阿智神社)への参詣を考察する上にも好都合ですし、作為の多い炭焼吉次の鶴巻淵の伝説を話す折にも、「道のない所を吉次が通ったのか」と疑う必要がなくなったことです。
3 まぼろしの園原〜昼神古道