古代東山道の研究については、市村咸人先生が「下伊那史第四巻」にまとめられた成果を一限界として、その後は特に大きな資料や学説は発表されていません。私たち、阿知駅(あちのうまや)の地に住む者としては、「延喜式」に記された駅の実態がどんなものであったか、その遺構をさぐりあてて往時をしのびたい心しきりですが、残念ながらその願いに応える物的資料はまだ見つかっておりません。

 長野県文化財保護協会では、昭和61年から3年間の計画で、県内の東山道について調査研究をすすめるという計画をたてました。まずその手がかりとして地名からさぐってみよう、との方針で同協会の会長黒坂周平先生は、昨年3月当村へ来られ網掛峠東麓とその以東の実地踏査をされたが、さらに岐阜県に行かれ東山道の通過地と推定される地点に残る「センドウ」という地名を拾い出し調査されました。(郷土史誌「信濃」36巻10号所載「東山道の実証的研究−美濃国東山道を中心として−」)

 それによると、岐阜市の北部からその西方の真正町にかけて、8ケ所に及ぶ「センドウ」という地名をさがし出し、現地を見てその地が東山道の経過地であるという確信を得られた上、近江(滋賀県)にも「千堂」という地名が残っていました。このことから黒坂先生は、「わが信濃および以東にもこの地名があるかどうか」と呼びかけられました。

 岐阜県における「センドウ」の表記は、「信濃38巻第2号・美濃平野における東山道補遺・吉岡勲」によると、「せんとう」1、「仙道」8(仙道上・仙道下を含む)、「先道(先道下を含む)」2、「せんと」1、となっていて、「千道」「セント」「先度下」と書かれたものもあるようで、これは地名を考えるときの常識ですが、現在表記の漢字にこだわらず、その発音を重視して考察する「はじめにことばありき」でなければ研究は進まないと思います。

 なお、近江・美濃は、東山道とからみ合うように江戸時代の中仙(山)道が通っていたので、「センドウ」というのは江戸期五街道のうちの「ナカセンドウ」の名残りではないかという疑いが湧くのですが、前記吉岡氏の研究によれば、美濃の「せんと」「せんどう」は中山道以前の天正検地帳にまでさかのぼることができ、東山道に添う地名と認められるということで、この疑いは一応解消してよいと思われます。

 前おきが長くなりましたが、それではわが阿智村に「センドウ」という地名はあるのでしょうか。東山道が通っていたことがまぎれもないとすれば、1ケ所ぐらいはそれにかかわる地名が残っていてもよさそうです。現在土地の小字が使われなくなってしまってこうした調査をするのは誠に不都合ですが、幸いに「阿智村誌」の編集に際し村中の小字名を拾い出して現在の地番を付した「字名表」を村誌別冊として調製しましたので、これによって調べたところ、ありました。場所は網掛峠の西麓、矢平という二戸ほどの住宅のあった付近で、字名表には「大山洞」「大山洞日向」「大山洞日影」となっています。岐阜の場合とは表記が違いますが、「オオサンドウ」という呼び方は「センドウ」に類似し、その語源を同一にするものと考えられます。

 あるいは「洞」は谷合いを意味していて(当地方の方言的な呼び名)「道」とは違うのではないかという疑念をもたれる向きもあるかと思いますが、阿智村には「杉ケ洞」「網掛洞」「漆沢洞」「割石洞」等、末尾に「洞」のつく小字名がおよそ50か所ありますが、そのすべてが「ホラ」という読み方で、「ドウ」と読むのは「大山洞」だけです。これは、多分江戸時代の「宛字まかり通る」が道を洞に書き替えてしまったものと思われます。

 この大山洞日向または日影といわれる場所は、駒場付近から西方を見て形よく丸味をもつ逆丼鉢形の網掛山の向う側にあたるところで、「大山洞日向」が150町歩、「大山洞日影」が250町歩(いずれも明治7年の官有地調査報告書による)という広大な山地で、西方から神坂峠を越えてきた東山道が園原の里を通り抜けて、もう一つの険しい山道が網掛峠に登るその山腹と山麓のすべてを含む地域です。

 なおこのあたりの谷水を集めて本谷川(阿知川の上流)にそそぐ渓流があり、今から30年ほど前に作られた阿智村全図の川筋には「大山道川」と表記されていますが、最近の地図には何故かその川名を載せていません。余談ですがこの大山道川の清水を水源とする阿智村上水道の工事が目下施行中で、今年(S61)12月には古代ゆかりの名水が阿智の村民の飲用水として配水される予定です。

 村誌別冊の「字名表」で見ると、もう一個所これはそのものずばりの「大山道上ノ口」という地名があります。これは園原川の流末に近い右岸で、現在の園原から本谷に通ずる村道の道下にあたります。従来古代の東山道は園原の月見堂のあたりから中央道恵那山トンネル東口の真上にある長者屋敷付近を通り、そのまま横川川と本谷川の合流点付近に下っていたと考えられていましたが、この地名が東山道の経路の遺称であるとすれば、
月見堂から園原川の川岸に下り、園原川を渡って農協園原支所前のあたりへ降り、そのまま本谷川を渡ったものと解釈され、江戸時代末期の絵図には母村である小野川村からの連絡主要路であったことが明瞭に描かれています。

 以上のように、阿智村には2個所にわたって東山道の経過地を伝えると思わせる地名がみつかっています。阿智村以東の経過地については、現在多くの支持を得ている中通り説のほかに、下手説上手説とあって決定をみないままです。山本、三穂、伊賀良、など各地区の小字名について、いま一度検討すべきであると思われます。
1 「センドウ」という地名