ここで、今まで最も優位とされてきた「中通り線」と比較してみると、この上手線は、

@目的地に向かって指向性と直進性を兼ね備えていること。(東山道の基本的要件)
A古い村落(郷村)の境界を連続して5か所も経由していること。(境界道の現存
B阿知と育良の駅間距離が約3q短縮されること。(通行時間の短縮
C経路が平坦で、小河川を渡るにも坂道を上下することがない。(人馬の体力保持

等の利点があげられます。

 さらに中通り線の最大の難点は、箱川の大須を過ぎた水晶山の北の麓から、三穂伊豆木の小字「観音寺」のある谷間を下る急斜面で、「貝沢」「梨洞」の地名が国土地理院の地図にも記されている場所です。
  この斜面を下る細道はありますが、県道から見下ろした多くの見学者が「ここを東山道が通ったのか」と疑念をもらします。これは「三代実録」という古典に「元慶5年(881)信濃国伊那郡観音寺を天台別院となす」という記事があり、現在寺はありませんがその付近に「観音寺・大門・堂入」というような地名があって、そのためにこの急斜面の道を選んだものと思われます。

 ところで、松川を渡って上飯田の台地へ上がった東山道はどう進んだかですが、この段丘へ上がるには切り通しを作って直線的に登ったとはどうも考えられないので、くの字形に屈折して台地上に登り、現在羽場四丁目にある「信濃駅路の址」の石碑の付近を通り、大宮神社の前を過ぎて野底橋付近で再び伊那街道に沿って、中央自動車道とあまり離れない山つけのコースを北進したものと思われます。

 このコースでは、座光寺の恒河(伊那郡衙の推定地)を経由しないのかという意見もありますが、郡衙へは支道によって結ばれていたと思います。東山道は国衙へは必ず経由しましたが、伊那に限らず各地の郡衙に立ち寄ったとすればどうしても迂回したコースになり、目的地への距離は遠くなるばかりです。信濃各郡についてみても、東山道が郡衙を経由したのは一例もないと思います。

  また、松尾〜川路の大型古墳のある地域や馬の古墳のある産馬地域へも、同様にしかるべき支道があったものと想像されます。これは地形や東山道との接続などを考慮に入れて推定すべきものですが、もし阿知駅の近くから分岐していたとすれば山本から久米街道を経由して行くのが最適のように考えられます。
  (H13・9・東山道サミット資料)
5 おわりに