ところで、この直線道約1qを東山道の経路と仮定したとき、これに接続する路線の有無が問題になるのですが、飯田市の山本・伊賀良両地区に目を向けると、さらに適応する路線が浮上してきました。
まず、七久里に接続する山本地区では、江戸時代の旗本近藤氏の領地であった山本村と、尾張の高須藩松平氏領であった竹佐村の村境が、七久里の進路方向を引きついで、これもほぼ直線的に約2qにわたって北東方向に続いており、二つ山という山のふもとでやや蛇行しますが、現地の人に聞いてみると多少路線の変更があったり、住民の移転等で現在では厳密には住民の所属を道路で区分することはできないが、古道が村境であったことは充分裏付けることができるとのことでした。
次に二つ山の北西部で国道が鞍部を越えるところでは、中央自動車道と国道が近接して平行にまっすぐに坂を下り、古道は道路敷となりましたが、江戸時代には山本村と飯田領の中村の境界が伊那街道で、明治22年町村制の施行後は山本村と伊賀良村の行政界でした。
3 山本地区の境界道