17 東山道の駅制はいつまで続いたか?

 東山道の駅の制度がなくなった時期については記録がなくてわかりませんが、「下伊那史四巻」では、
「十世紀後半の頃になると地方制度が乱れ、国司・郡司が治政をかえりみず、財政の窮乏によって駅子の逃亡するもの絶えず、駅戸は離散し、群盗が出没して都へ送る荷物を奪い取り、旅人をおびやかし、一方においては旅行日時の吉凶、物のけがれ等の迷信による交通の障害も手伝って、承平・天慶(931〜946)以後駅家の維持が困難となり、駅馬に乗る飛駅使も官吏の姿も見られなくなり、駅制しだいに頽廃し、交通も新しい制度にきりかえられてゆくことになった」と述べています。

 しかし、駅制による駅馬の往来がなくなっても、この東山道が利用されなくなったわけではないことは、神坂峠の出土品に中世の陶器が鎌倉時代を経て室町時代まで数多く続いていて、ここで峠神の祭りをして通った人が多かったことを証明しています。
 そして、神坂越えの旅人が行き来するためには、阿智の駒場はその人たちにとって何よりの休息の場所であり宿泊の場所であったことと思われます。