岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる

 
 京都女子大学の創始者、甲斐和理子が詠んだ歌です。明治時代、女子大学を作り上げていく中で、私には想像もつかないほどのいろんな問題が起こったに違いありません。その上で詠んだ歌でありますが、甲斐和理子は足利義山和上(浄土真宗の教学を極めた大学者)から育てられた実娘でありますので「人生には、いろいろ障害があるが、執着せずに上手にかわしながら生きていきなさい」という普通(禅宗)の意味に捉えてしまうと、おもしろくありません。

 
法爾の道理と云事あり。ほのほ(炎)は空にのぼり、水はくだり(下り)さまにながる。(法然上人)


という、浄土真宗の教えの根幹である「自然法爾」の心を意識して詠んでみては如何でしょうか?


 意味は、お念仏を称える者が、お覚りを開かせて頂くのは、炎が空に昇り、水が下る事と同じ自然の道理であるという事です。
もっと具体的に言うと、水=お念仏を称える者(この場合は、甲斐真理子さん) 水を下らせる働き(万有引力)=阿弥陀様の働き。


 
つまり「仏教者として、ものをあわれみ・はぐくみながら生きていこうと歩みだしました。しかし、いざ歩みだすと岩もあり、木の根もあって、理想通りに歩めません。対立もしました。争いもしました。念仏者とは思えない酷い言葉が、私の口から出てきたこともありました。者をあわれみ・育んで歩んで行こうなどと自惚れていました。私の中には醜い心が渦巻いています。その事に気づいたとき、阿弥陀様の悪人こそ救うというお働きは、正に私のためであったのだと、感謝の心が湧きおこってきました。すると、今まで対立してきた人も、争ってきた人も、実はその事に気付かせる善知識様であったと思うと、ありがたい気持ちでいっぱいになりました。それ
からというもの、対立しては南無阿弥陀仏・争っては、かかる者を阿弥陀様はおたすけとはかたじけないと受け止める事ができるようになりました。」という事でしょうか。


甲斐和理子さんのこの詩を思い出すたびに、ある先生のお言葉を思い出します。この度は、そのお言葉を紹介して終わります。


 この世を無事なもの、平穏なものとかねて思っているから、たまたま苦しい事に出会うと、自分だけかと思い僻んで、そんなスネ言葉を口にするのだろうが、苦しいことや悲しいことは誰にもある。珍しい事は少しもない。耐え難い苦しみ、忍び難い悲しみの一つづつが、人間学校の進級試験である。


 いかなる難問題に出くわしても、狼狽せず、じっと落ち着いて工夫していると、良い答案を考え出すものである。一級ずつ進んで行くうち、ついには一本縄や二本縄ではピリッとも動かぬ境地に達し得て、ニコニコ笑いながら、もの慣れぬ下級生を導いてあげる身分になれたら、随分面白いことであろう。
 人生の面白味も、仏教の有り難味も、本当は老境に達してから初めて分かるのである。何にも分からぬ若いうちに人生を終わるのは惜しいことである。
 皆様どうぞ御身を大切にして、八十・九十まで生きて下さい。