海馬瀬人にとって、弟モクバが、“特別な存在” あることは言うまでもない。彼らのような境遇で育っ
た兄弟が、血の絆を過剰なほど大切にするのは、当然のことと言える。しかし、兄・瀬人の“特別”という眼は、血族の繋がりというだけではない熱情をも内包していた。そして、瀬人自身が、その“特別な感情”に気付いてからも、すでに久しかった。
「兄さま・・・まだ、起きてる?・・」
遠慮がちなノックの後に、細くドアが開けられた。
モクバが、不安そうな顔を覗かせる。
「モクバ・・どうした?眠れないのか。」
瀬人は、すでにベットにいたが、未だ、書類を手に していた。明日の会議の資料に、眼を通しているところであった。
「うん・・・ねぇ・・兄さま・・兄さまと、一緒に寝てもいい・・?」
モクバが、枕を胸でぎゅっと抱えて、おずおずとドアをすり抜けた。
モクバは、兄に対して、極端に気を遣う。いつでも、第一に瀬人を思い、彼自身のことは、二の次だった。兄の負担になるまいとし、逆に、兄を助けなければならないと、幼いながらも、心に決めているようだった。
そのモクバが、深夜、瀬人の寝室に現れるのは、か なり、切羽詰ったときだけである。どうしようもない
不安と孤独。それを癒せるのは、兄の温もりだけだ。普段、兄に甘えることを抑える分、理由のない孤独感がモクバを苛む夜は、どうしても、兄の寝室へ足が向いてしまうのだった。
そして、そういう夜は、周期的に訪れた。
「おいで・・モクバ・・」
瀬人は、モクバの乞いを、退けたことは一度もない。嬉しそうにベットへ駆け寄るモクバに、瀬人は、
優しく微笑みかけた。彼のこんな表情は、モクバだけ に向けられる顔だった。
「ここのところ、忙しくてな・・」
瀬人は、言い訳するように言った。
「・・うん・・ごめん、兄さま・・・僕、邪魔しない から・・」
モクバは、広いベットの端の方に枕を置いて、瀬人 を見つめた。本当は、兄に、もっと近づきたいのを、
我慢しているのだ。
瀬人は、そんなモクバが、愛しくてたまらなかった。
「・・・俺も、もう、寝るか・・」
彼は、書類を重ねると、モクバを引き寄せた。小さな身体は、軽々と、兄の胸に寄り添った。
「・・・兄さま、大好き・・」
まるで、恋人に囁くような声が、瀬人の耳元で聞こえた。
瀬人は、モクバの健やかな寝息を聞きながら、自身 の熱を持て余していた。モクバの長い髪が、絹糸のよ
うに、腕枕に広がっていた。ちょっと上を向いた、可 愛らしい鼻から洩れる息が、瀬人の首筋に当たる。そ
の刺激にざわめく肌が、どうしようもなく熱かった。
「・・モクバ・・・」
瀬人は、小さく、弟の名を呟いた。密やかに、何か を告白するように、唇が震えていた。
――朝になれば・・・・。
モクバが、枕を持って現れる夜、瀬人は、いつも、一睡もできなかった。己の中に燻る感情を、抑えるだけで精一杯なまま、朝を迎えるのが常だった。
――いったい、いつからだろう・・・。
と、瀬人は、考える。モクバの大きな瞳や、細く華 奢な首。小さく白い肉体に、欲を感じるようになった
のは。思うさまに抱き締めて、口づけたい。そして、 それだけでなく・・ひとつに・・・・なりたい・・と。
そして、その感情が、兄弟に対するものとは、異質 な感情であり、また、すべてを凌駕する激情に近いこ
とを、瀬人は認識した。そして、自身のそれに、恐れ慄いた。瀬人は、モクバを押し広げて、貫くことを欲
していたのだった。だが、瀬人には、それを実行にうつすことはできなかった。最愛の弟を、自身の性欲の生贄には、到底できるものではない。
そして、瀬人は、もうずっと前から、その熱情を抑え続けていた。
夜は、長い。だが、必ず、朝はやってくるものだ。
瀬人は、砂時計の砂が、落としこまれるように、少しずつ少しずつ堪っていく“欲”の熱を、受け止め続けるしかなかった。解放されることのないそれは、息が
詰まるほどの責苦に思えた。体内の疼きは、耐え難いほどであったが、瀬人は、ただ、モクバの寝顔を見ていた。
「う・・・ん・・・」
目覚まし時計のアラームに、モクバが、身じろぎす る。
「・・・おはよう、モクバ・・・」
瀬人は、ゆっくりとモクバを離して、起き上がる。
溜息とともに洩れる微笑は、一晩中耐えた自身への自 嘲でもあった。
彼は、窓辺に立ち、太陽の光を確認するように外を 見た。
瀬人は、朝の訪れとともに、抑制し続けた感情がリセットされて、ゼロになるのを感じた。まるで、砂時計を、引っくり返して、新たなカウントが始まったようだった。
「兄さま・・・おはよう。」
モクバの腕が、瀬人の身体にかかり、高い場所にあ る彼の顔を降ろさせた。モクバは、無邪気な瞳を、瀬人のそれに、真正面から合わせてくる。そして、柔らかい唇が、彼の頬を、掠めていった。
瀬人は、また、溜まり始める熱に、耐えるしかなかった。
END
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