いくらなんでも今回のはちょっとやりすぎだったと己の行動を反省しながら、瀬人は傍らのモクバを見やった。リムジンのシートに身を沈めたモクバは、必死に意識を保とうと努力しているものの、今にも意識が飛んでしまいそうなほど疲労困憊している。 「ホテルに着いたら起こしてやる。少し寝ろ」
そう声をかけると、 「うん。でも大丈夫だから」
と弟は必死に微笑を浮かべながら答えを返すが、その視線の焦点は虚ろだ。ホテルまではあと10分もかからないだろうが、兄のあまりに無謀な行動のとばっちりをモロに受けながらも文句一つ言わない弟がいじらしくて、瀬人はモクバの肩を抱き寄せ、先ほどより強い口調で言った。 「寝ろ」
「・・・・じゃ、着いたら起こしてね」
そう言い終わるやいなや、モクバは眠りに落ちてゆく。モクバの髪をそっと撫でながら、瀬人は心の中でモクバに詫びた。
『すまない、モクバ。戦闘機でのアメリカ入国はオレの選択ミスだった』
そう。2人はいま、日本とアメリカの中間、ハワイにいるのだ。
アルカトラズからアメリカに向け飛び立ったはいいが、戦闘機では流石にアメリカ本国の領空に入れず、また長時間の継続飛行は年少のモクバの身体への負担が大きいため、ハワイで一旦体を休めて、その先はチャーター機で行くことにしたのだ。
しかし、今回の旅行はもともと計画されていたものではなかったため事前の準備・連絡が十分でなく、飛行場への着陸許可でも着陸後の入国審査でも手間取ってしまったのだ。なんとか入国審査をパスして、定宿のホテルが2人のために空港に差し向けたリムジンに腰を落ち着けると、さしもの瀬人もホッと気が緩んだが、モクバに到っては完全に限界オーバーだった。
モクバが寝息を立て始めてから約10分後、2人の乗ったリムジンはホテルのエントランスに静かに滑り込んだ。
運転手から無線で事前に乗客の様子を知らされていたドアマンは、極力音を立てないように気を配りながらリムジンのドアを開ける。降り立った瀬人の腕の中には、ぐっすりと熟睡したモクバが抱きかかえられていたことは言うまでもない。そのままホテルの中に入った瀬人を、申し訳なさそうな表情を浮かべた支配人が出迎えた。
「海馬様、申し訳ございません。なにぶん急なお越しだったもので、ダブルのお部屋しかご準備できなかったのですが・・」
普段使っているツインは準備できなかったのかと瀬人が軽く眉を顰めると、支配人はあわてたように付け加えた。
「いえ、もちろんスイートラグジュアリーでございますが」
「・・・ならば良い。とにかく休ませてやりたい」
そう言いながら腕の中の弟を見つめる瀬人の視線は、蕩けそうに甘い。支配人は我が意を得たりと言わんばかりに頷いて、傍らのベルボーイに向かい 「ご案内を」
と指示を出し、続いて瀬人に向かって 「お夜食などは」
と伺いを立てる。ベルボーイを従えるようにエレベーターホールに向かいながら、瀬人は短く答えた。 「今日はもういい」
「かしこまりました。ではごゆっくりおやすみなさいませ」
部屋では客室係がお茶の仕度を整えていたが、入ってきた瀬人が大事そうにモクバを抱えているのを見るなり、急いで寝室のドアを開けに動く。キングサイズのダブルベッドを見て、これなら2人で寝ても窮屈なことはないだろうと納得しながら瀬人はモクバをそっとベッドに横たえ、靴とダウンジャケットを脱がせたところでハタとその手を止めた。
他人の目など普段の生活ではまるで気にしない瀬人だが、モクバの裸を他人に見られるのは瀬人の独占欲が許さない。
「お茶の仕度が済んだらもう下がって良い」
そう指示すると、モクバの靴とジャケットをクローゼットにしまった客室係は黙礼して寝室から出て行った。2人だけになったことを確認すると、瀬人はモクバの服を脱がせ、ホテル備え付けのナイトウェアをすっぽりと頭から被せた。普段よりも少し体温が高い、細く柔らかな弟の体。
瀬人はほとんど無意識のうちに弟の額に唇を押し当てていた。 「・・ん・・兄サマ・・?」
夢うつつで呟くモクバを瀬人はそっと抱き締め、耳元で囁いた。 「おやすみ」
うふ、と幸せそうに表情を緩ませ再び眠りに落ちた弟を確認し、瀬人はバスルームへと向かった。
闇のなか目覚めたモクバは、一瞬自分がどこにいるのかわからなくて必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
『えっと、アルカトラズから兄サマと一緒に戦闘機で・・そうだ、一旦ハワイに寄ることにしたんだ。で、オレは・・・』
ホテルに向かうリムジンに乗ったところまで思い出したモクバは、たぶんここはいつものホテルだと納得し、そこで突然自分が誰かに抱き締められていることに気付いた。 『・・・って、兄サマ!?』
遮光カーテンのせいで室内は文字通り漆黒の闇に包まれているが、匂いでわかる。 『ええっ?? なんで!?』
確かに海馬邸にいる時は、時々一緒に寝ることはある。だがそれはつまり、そういうコトをする夜だけで、普段は一緒に寝ていない。ましてやホテルに泊まる時は今までずっとツインだったと記憶している。 『・・部屋がいっぱいだったのかな・・』
他に理由は思いつかず、至極もっともな結論に辿り着いたモクバは、闇のなか手探りで瀬人の頬に触れる。
『兄サマ、お疲れさま。ゴメンね』
なんとか起きていようと頑張ったのだが見事沈没してしまった自分を、多分兄が部屋まで運んでくれたのだろう。体格差だけを考えればそれほど大仕事ではないが、兄はアルカトラズでのバトルと戦闘機の操縦をこなしてきたのだ。 さしもの兄も疲れているはずで。それに・・・。
『決闘塔を海に沈めるのは、憎しみを消し去ることだって約束して!!』
自分の叫びを聞いて凍りついた瀬人の表情が、脳裏に蘇る。その言葉に兄は何も返事を返してくれなかったが、モクバの気持ちは確実に兄の心に届いていて。全ての憎しみを捨て去るには少し時間がかかるだろうが、兄は間違いなく新たな道を歩み出してくれたとモクバは確信していた。
『兄サマ、オレにできることなら何でもするから、お願い、憎しみを捨てて自由になって』
モクバは心の中で兄に語りかけ、再び目を閉じた。
バトルシティが始まる少し前のことだが、兄の過去への憎しみを捨てさせようとしたモクバは、常に過去を思い起こさせる自分という存在を、兄の前から消そうとしたことがあった。
『兄サマ、オレ、中学から全寮制の学校に行こうと思うんだけど』 『・・・なんだと?』
互いを何より大切に思っているはずなのに、言葉はいつも心に足りなくて。結局モクバのその言葉を誤解した瀬人によって、モクバは1週間家から出してもらえなかった。はっきり言って監禁されたのである。 『・・オレの側から離れるなど、許さん』
自分を見据える瀬人の昏い目が怖くて、でも心のどこかでは兄がこれほどまで自分に執着していることに悦びを感じていた。暴力的に自分を抱く兄に、モクバは泣きながら告げた。 『好き・・兄サマが大好き・・』
あぁ、そうだ。憎しみを消し去ってくれとアルカトラズで叫んだときの兄の表情は、あのとき自分が泣きながら好きだと告げたときの表情と、なんと似ていることか。モクバの言葉を聞いた瞬間、瀬人は凍りつきしばらく絶句していた。だがうわ言のように告白を繰り返すモクバを、結局瀬人は自分自身も泣きながらそのあと1晩中抱き続けたのだ。そうして始まった瀬人とモクバの肉体関係はその後順調に継続されているが、一緒のベッドでただ眠るだけという経験は初めてだった。
『兄サマ、淡白なんだか激しいんだか・・』
一眠りしてスッキリしたのか今度はなかなか寝付けなくて、モクバは水が欲しくなった。兄を起こさないようにその腕から抜け出そうとするが、いかんせん真っ暗な室内では兄がどういう体勢なのかわからなくて手間取っているうち、どうやら瀬人を起こしてしまったらしい。 「・・モクバ・・?」
掠れた声で呼ばれ、モクバはとっさに固まってしまった。 「モクバ・・?」 再び呼ばれてモクバは小声で答える。
「ごめんなさい、起こしちゃって。水が飲みたくて・・」 「あぁ、いいんだ・・」 そう言いながら兄が起き上がる気配を感じる。
今何時だ、と独り言を呟きながら瀬人はベッドサイドのコンソールに手を伸ばし、テーブルライトを点けた。柔らかな光だが寝起きの目には十分に眩しすぎて、瀬人は不機嫌にうめく。 「ごめんね、兄サマ」 「いや、オレも喉が渇いた」
「じゃ、兄サマの分も持ってくるね」
ベッドから身軽に降りたモクバは、隣のリビングの冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルとグラスを取って寝室に戻った。 「はい、兄サマ」
グラスの一つに並々と水を注いで兄に渡し、自分用にもう一つのグラスを満たす。 「・・お腹は空かないか」
「うん、あんまり。いま何時頃?」 「・・夜中の2時過ぎ、だな」 「じゃあ、もう一眠りできるね」
グラスの水を飲み干したモクバは、兄が水の入ったグラスを見つめたまま、口を付けていないことに気付く。 「どうしたの、兄サマ?」
呼びかけにようやく瀬人は水に口を付けたが、一口飲んだだけでグラスをモクバに返してしまう。兄から受け取った
グラスをサイドテーブルに置くと、モクバは兄の顔を下から覗き込んだ。 「兄サマ?」
「・・・今のオレには、もう何も残されていない・・」 「!?」 兄の蒼の瞳が、信じられないほど不安気に揺れている。
「オレは決闘王の称号を手に入れられなかった。そして、今までのように憎しみを糧に生きてゆくことは、お前やアイツが許さないだろう」
アイツ。兄を負かし決闘王の称号を手に入れた少年。彼も兄に向かって憎しみを捨てろと説いた1人だ。
「称号も憎しみも持たないオレが、この先どうやって戦ってゆけるだろうか・・・」 「兄サマの心の中にはもうオレはいないの?」
言い終わらないうちに兄に強く両腕を掴まれ、モクバは小さく笑いながら続けた。
「憎しみを捨ててしまったら、もうオレの存在も残らないの?」 「バカな!!」
喘ぐように瀬人は叫んだ。何を言っているのだと続けようとした瀬人の唇は、だがモクバによって塞がれてしまった。 「んっ・・・」
普段モクバからキスしてくることは滅多になくて、それは瀬人が落ち込んでいるときぐらいに限られている。自分が落ち込んでいることがなぜモクバに判るのか、瀬人には不思議でならなかったが、不快ではなかった。 「ふ・・・」
舌を絡めてくるモクバの仕草は驚くほど官能的で、瀬人の本能が一瞬にして目覚める。 「モク・バ・・」
初めてモクバを抱いたときの状況を考えれば、モクバが2度と自分を側に寄せつけないことだって有り得たし、肉体だけの関係になっていた可能性だってあった。だがモクバは自分を許し受け入れてくれた。弟は決して自分を裏切らない。いや、違う。自分がどれほど裏切ろうと弟は必ず自分を許す。
『・・最低の兄だな・・』
自嘲に顔が歪む。それをどう受け取ったのか、モクバが小さな手で瀬人の顔を優しく包んだ。
「兄サマ?」
「・・第一、憎しみを捨て去れるかどうか、オレには自信がない」 「兄サマ、いいんだよ、すぐじゃなくても」
「何年もかかるかもしれん」
「たとえそうなっても、オレは兄サマの全てを受け入れるよ。もし憎しみを捨てるために生け贄が必要なら、オレを・・」 「バカを言うなっ!!」
瀬人の怒声に、しかしモクバはわずかな怯みも見せずに応じた。
「オレは兄サマに幸せになってほしい。そのためなら何でもするよ」
たとえそれがあなたの意に添わなくても。正しいと思えばどんなことでも。
モクバの黒い瞳が、静かに決意を語りかけてくる。 「オレを1人にしても平気なのか」
瀬人の脳裏に蘇る、古代のビジョン。そして胸を刺す悲しみ。 「何も残されていないなんて言うからだよ」
モクバの言葉に、瀬人の全身から力が抜けた。 「・・・オレが悪かった」 「わかってくれればいいよ。兄サマ大好き」
にっこり笑って抱きついてくる弟の顔を見て、もしかしたら本当は自分は幸せな人間なんじゃないかと瀬人は自問した。自分には弟が必要で、その弟はこんな自分を好きだと言ってくれる。
『モクバ、お前がいてくれたから、オレは今日まで闘い続けることができた』
ノアに操られ正気を失っていたあの時も、お前の耳にはオレの言葉が届いていたというのだろうか。
「兄サマ?」
放心したような兄の様子を心配したモクバが呼びかけると、瀬人はフッと鼻で笑うような仕草を返し、いきなり手を伸ばしてテーブルライトを消した。 「え、ちょ、ちょっと兄サマ!?」
突然の暗転に慌てるモクバの体を瀬人は力一杯抱き締め、唇を奪う。 「んん〜〜」
ジタバタと瀬人の腕の中で暴れていたモクバも、瀬人の巧みな舌と指使いにアッという間に陥落する。
「まだ朝までは時間がある。言っとくがお前が先に誘ったんだからな。」
「・・兄サマ・・部屋の中は真っ暗だけど、外はもうじき朝だよ・・」 「残念だがまだ真夜中だ。諦めろ」
この分なら、自分の心の闇が明けるのはそう遠いことではないかもしれないと、瀬人は心の中でモクバに感謝しながら快楽に身を委ねる。完全な闇に戻った室内に、モクバの甘くせつない吐息が満ちた。
|