授業が終わって帰り支度をしていると、複数の視線が飛んできたが、モクバは気にせず挨拶に返事をして教室を後にした。
どこからその話しになったのかは、寝不足もあったが、それよりも企画書の事が気になっていたモクバは覚えていない。世界にある挨拶の話しをしていたのは知っていた。 キスなぁ……。
心で呟くだけで声にはせず校舎を出たモクバは、飛んできた視線が聞きたがっている内容はわかっていた。
クラスの中で、海外経験が豊富なのはモクバぐらいだろう。そのモクバは、そういう挨拶をしているのか、二次成長が始まった彼等はとても興味があったようだ。
それでも、直球で聞ける者などいない。大分親しくしてきているとは言え、彼等とモクバの間には、目に見えない線がはっきりと引かれていた。
しかし、いつまでもそれに頭が捕らわれる事はなかった。幼いとは言え、会社の重責を一部とはいえ任されているモクバの脳裏は、既に企画の事でいっぱいだ。出張に出かけている瀬人から、出発する前日に渡された仕事は、戻っていれば今日報告する事になっていた。
鞄の中に入れてあるノート型パソコンは、給食を摂りながら最後のチェックをした。完璧、と言い切れないのが辛いが、それでもモクバなりに纏めていた。 兄サマ、誉めてくれるかな。
仕事を任される度に、いつもドキドキしながら答え待つモクバは、寝不足も手伝い、かなりぼんやりとしていたようだ。傍らを見慣れたベンツが通り過ぎた事にも気付いていなかった。
ベンツが止まり、ドアが開けられる音に視線を向けたモクバの表情が一変する。それまでの、どこか小難しい顔が、満面の笑みに変わっていた。 「兄サマッ!!」 自然と弾む声は、駆け足の体から遠ざかっていった。
警戒する必要はなく、見間違えるはずのないベンツに乗り込むモクバは、乗る事を前提に移動してくれた瀬人の隣に座る事はせず飛びついていた。
出張から戻った瀬人には、仕事が多量に待っていた。その一部を、移動車の中で決済していたのか、手に書類の束はあったが、飛び付いてくるモクバを邪険にしなない瀬人は、飛び付いてきた小さな体を片手で抱き止めていた。 後部ドアが閉められた。 「お帰りなさい、兄サマッ」
それは当たり前の事だったが、スモーク硝子で隠された車内を見る事ができた同級生がいれば、質問したかった事の答えを得る事ができただろう。 瀬人の首にしがみ付いたモクバが頬にキスをしていた。
それは、親愛の情を示す挨拶であり、毎日そうしている訳ではないが、しばらく顔を合わせなかったりすると、良くそうしてきた。
「ああ」
仕事やデュエルになれば多弁な瀬人は、こういう時に伝える言葉をあまりもたない。たった一人の、心を許している弟に対しても言葉数は少なかった。 「いつ出張から帰ってきたの?」 「今朝だ」
しかし、屋敷には戻っていないようだ。きっと会社の仮眠室でシャワーだけ使い、安みなく仕事を続けているのだろう。
離れようとしないモクバを離れさせる瀬人が隣に座らせると、素直にモクバは座った。そして、真っ直ぐな眼差しで、ずっと瀬人を見詰めていた。
こうして見詰めているだけでも幸せなのか、モクバは笑みを浮かべている。幸せを隠せない、そんな笑顔だった。 「兄サマ、企画なんだけど……」 「戻ってから聞こう」 「うんッ」
素っ気無い言葉にも、モクバの笑みは変わらなかった。
表情を変えない瀬人だが、モクバが傍らにいるのは嬉しいのだろう。書類を見詰める眼差しも厳しいままだが、何故か包む空気は柔らかくなっていた。
そうしていると、KC本社前にベンツは滑りついた。
ドアが開けられ、モクバが降りる。続いて瀬人も降りた。
出迎えのために社員は出てこないが、ちょうど出ていた社員は会釈して先を急ぐ。トロトロ遊んでいる社員は、ここには存在しなかった。
社長室に戻れば、ますます瀬人は多忙になる。出かけている間にも決済書類は増えていた。
多忙な瀬人の姿に、まだ企画の話しはできないと判断したモクバは、瀬人のデスクの前にあるソファーに座っていた。商談も行われるここは、モクバのデスクにもなっていた。
終わるまで待つしかなく、先に宿題を片付けるモクバは、ある部分、とても瀬人に似ていた。時間を無駄にしない合理主義だった。
静かな室内に、ペンが走る音がする。方や万年筆。方やシャープペンシル。
秘書の一人が、二人に飲み物を運んでいたが、それを飲む間も惜しむように瀬人は書類に目を通していた。
宿題は終わり、他にする事がないのか、広げていた教科書やノートは姿を消し、モクバの前にノート型パソコンが開かれていた。
音声が切られているのか。それとも、元々そう設定しているのか、あまり音はしなかった。
どれだけ周りが五月蝿くても、瀬人の集中が乱れることはない。あまりにも集中し過ぎて、モクバの声でも聞こえない時もあった。
それでモクバが腹を立てた事はない。しかたがない、というように諦めの笑みを浮かべる事はあっても。
今も瀬人は真剣に書類を見ているようだ。書類で顔が隠され、表情は見えないが、熱読しているのだろう。 いつ終わるのかなぁ。
まだ決済書類は箱の中にある。もう数枚だけだが、それらは社運を決める書類もあるのだろう。その一つが、今手に取っているものかもしれない。
待っているのが退屈ならば、何かをしていればいいのだが、何もする気分がないのか、モクバはずっと瀬人を見ていた。 その表情が変わった。
それは、ジッと見ていたからわかったのだろう。そうでなければ、気付く者はいなかったはずだ。
先ほどから、瀬人は微動だにしていなかった。持っている書類は何枚かに綴られており、それを捲る動さもなければ、頭も動いていなかった。 読むにしても、目だけ動かして読むのは疲れるはずだ。
自然と頭も動いているだろう。
違和感を覚えたモクバが、そっとソファーから滑り降りた。足音をさせないように注意しながら瀬人の元へ向かった。
「………」
キョトン、とした顔になったモクバは、笑いを堪えるのに必死だった。
瀬人は眠っていた。社長椅子に座り、書類を持ったままうたたねをしていた。
瀬人の背は強化硝子があり、それを通して午後の陽気が降り注いでいる。暖かい日差しに照らされていた。
その中で眠る瀬人の表情に恐いものはない。寝顔だけは、誰でも優しいものになる。悪夢を見ない限り。 なんだか、カワイーぜぃ。
そんな事を口にすれば、瀬人は怒るだろう。それでも、時折ベッドの中で見る瀬人の寝顔は、モクバだけが知る、とても安らいだ優しい顔だった。
気付かれるかもしれないと思いながら、机に乗ったモクバは、まだ起きない瀬人に、本当に疲れているのがわかり、一瞬表情をかげらせた。しかし、次には笑顔に戻り、書類を取り上げてしまうや、瀬人が意識を取り戻す前に抱き締めていた。
直ぐ傍でおこった、自分以外の動きに目を覚ました瀬人は、瞬く間に鮮明な思考を取り戻していた。先までしていた仕事を思い出し、その手に書類がないのがわかり、それと同時に目の前にあるものに気が付いた。 「おはよう、兄サマ」
優しい声が、そこから聞こえる。
フッ、と瀬人が笑うのがわかり、モクバは抱きしめていた瀬人の頭を離した。寝起きとは思えないほど意識が覚醒した瀬人がそこにいた。
「兄サマ、疲れているんだから、ちゃんとベッドで寝なきゃ駄目だって。せっかく仮眠室があるんだからさ」 「そうだな」 「大体兄サマは……」
ここぞとばかりに注意しようとしたモクバだったが、それ以上はできなかった。
机に座っていた体は、瀬人の膝に移っていた。そして、眠る時のように包まれていた。
瞬く間に顔を赤らめるモクバが、恥ずかしそうに俯いていた。 「10分休む」
本当は、僅かな時間も暇はないはずだ。それでも、包まれる暖かさに、モクバが何も言い返せないでいる間に、瀬人は眠ってしまった。
傍にある瀬人の寝顔を見詰めるモクバも、一つ欠伸をしていた。瀬人が出張に出かけると、つい眠れなくなり、企画の事もあってあまり眠っていなかった。
数分後、社長室にノックをしてから入って来た磯野は、眠るモクバを膝に抱いたまま書類に目を通す、優しい表情の瀬人に自然と足を後退させてしまったが、それでも中に入り、次の指示を仰いでいた。
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