お題(チェス)
ぺい太様


蛟竜




   開ける者もない門が微かな唸りを上げて開き、通過を許して再び閉じるのを、幼い弟が不思議そうに車窓に額をつけて眺めている。兄弟を乗せたリムジンは敷地に入って木立の径を更に走った。迎えに来た義父となる男に連れられて彼らが施設を後にしてから、もう相当の時間が経っている。童美野町という地名にも聞き覚えはなく、施設入所以前に親類宅を転々とした、いずれの住み替えより長い移動だった。やがて正面に目指す海馬邸が全容を現して、同乗していた屋敷の主ある海馬剛三郎は彼らに告げた。
   「ようこそ我が家へ、息子達」
   その肚に響く太い声は、眼前に拡がる壮麗な白亜の建物と共に静かに瀬人を威圧した。考えてみればこの男のことを何も知らない、と少年は思う。勿論顔と名前、会社を経営する資産家であること、それを継ぐ実子のないこと、チェスを愛し自ら大会を催して優勝する腕前であること──それら表層的な知識ならある。この男が兄弟の身を寄せていた施設に養子を求めて現れた時、千載一遇の好機、そう瀬人は考えた。これを逃せば次はいつになるか、いや次などないかも知れない、その焦りが少年を思い切った賭けに出させた。チェスで勝てたら自分と弟を養子にしろという、十歳の子供の不遜な申し入れを資産家の男は興がって受け、そして瀬人は賭けに勝ってここにいる。だが今になって、彼は漠たる不安を覚えていた。無一物の孤児から這い上がるという自らの目的を果たすことのみ拘って、この男の思惑など全く忖度しなかった、そのことが何か重大な積み残しのように感じられた。
   「スゲー! お城みたい」
    弟が無邪気な歓声を上げ、それで漸く瀬人の心も和んだ。亡き両親の遺産を後見の名の許に遣い果たした親類に、施設の前で置き去りにされ泣いていたモクバ。望み通りの生活がこれから始まるというのに、自分は何を神経質になっているのだろう。
   「気に入ったかね」
    義父も機嫌よさそうに太い声で笑った。
「荷物を置いたら、まずは瀬人に学力の程度を見せてもらうとしよう。海馬を名乗るにふさわしいだけのものを期待しているが」
    「はい。お世話になります」
    気後れを払いのけ、瀬人は顔を上げて真っ向から剛三郎を見返した。義父は軽く頷き、止まった車のドアが外側から開かれるのを待って降り立つと、先に立って歩き出した。その後を瀬人とモクバが続いた、その時。
   遙か離れた庭園の奥から一個の黒い塊が瞬く間に転げ寄って来て、それが漸く革の首輪を巻いた大型犬だと知れる頃には、悲鳴を上げる間も与えずモクバめがけて襲いかかるところだった。間に飛び込んだ瀬人が諸共に倒され、咄嗟に弟に体を覆い被せた少年の項に獣の息が触れた。背にのしかかる犬の鋭い歯牙の並んだ凶暴な顎が、涎を撒いて開き切るのをまざまざと感じて、彼は思わず瞼を閉じた。
   空き缶を蹴るのに似た音が聞こえ、不意に背に受けていた重みが消えると同時に、それが今にも自分に喰らいつこうとしていた口吻から出た鳴き声だと瀬人は理解した。震えの止まらないモクバを抱えて身を起こせば、黒い獣は不自然に下肢を引き摺って来し方へ逃げようとしている。しかし来た時の疾駆には程遠く、再び飼い主に蹴られて犬は甲高い声で鳴いた。
    「見境のない畜生め。主人のものと己の獲物も区別が付かんか」
    兄弟の目には猛獣のようにさえ映った黒い犬は全身を激しく震わせ、どこか砕けたらしく立つことも能わず、艶やかな毛並みを自らの小便で汚した。その様子は主人の憐れみを買うどころか激昂を誘ったらしく、何だ、そのザマは――罵声と共にまた一撃を浴びた。
   「猛々しい気性がいいと思っていたが、所詮は犬だな。失望させてくれるわ」
    呵責なく蹴られ空き缶を転がすように鳴き続ける犬の声が、次第に弱々しくなっていく。異様な光景に呑 まれていた兄弟だったが、耐えきれなくなったようにモクバが兄の胸に顔を伏せた。瀬人も進んで見物しようなどとは到底思えなかったが、心の裡に目を開いておけと警告するものが在る。この男が何を考え、どういう時にどんな行動をとるのか見定めなければならない。盤上を点と面で捉え戦局の先を読もうとする時のように、少年は密やかに感覚を研いだ。
    漸く現れた訓練士らしい男に、義父は苦々しく犬の処分を命じた。側近が手を貸して二人がかりで犬を運ぶのを、わざわざ呼び止めて首輪を外しておくよう付け加えた義父の意は、その時の瀬人には量り知れなかったが。   
   「怪我はないか」
    そう問いながら、義父は兄弟に歩み寄った。びくっとモクバが顔を上げ、近付いてくる義父を避けるように兄から離れて後退る。それには目もくれず義父は、瀬人、と呼び掛けた。
   「大の男も逃げ出す犬に身を投じた勇気は認めよう」
    何と返事していいものか、一瞬逡巡した瀬人に向かって、義父が片手を差し伸べた。「だが」男の大きな手は少年の胸倉を掴み易々と吊り上げていた。
   忽ち息が詰まって苦しさのあまり、瀬人は僅かに届く爪先で地を掻いた。
    「弟を庇って嗣子たる身を危険に晒すとは何事だ。世間の馬鹿どもには評価されるだろうが、ここでは下らない情など無用と知れ。当家にとって今、些かなりとも価値があるのは、お前だけだ。判るか、先刻お前は海馬に不利益な選択をしたのだぞ」
    「兄サマ! どうして――やめて…やめてよぉ! 」
    恐れも忘れたのか必死に取り縋るモクバに煩げな一瞥をくれると、義父は無造作にその手を振り払った。
  意図した訳もないだろうが、小さな体がひとたまりもなく勢いに負けて倒れる。固定された顔から視線のみ巡らせて、その様子を狂おしく見て取った瀬人は締め付けられた喉から必死に声を振り絞った。
    「駄目だ…はなれ…てろ…海――父さんが、正し…」
    少なくとも、ここでは。速やかに瀬人は理解した――この男がルールだ。
    更に吊り上げられて少年の靴底は完全に接地を失い、負荷に耐えかねた襟元の布地が音を立て始めた。
  それは瀬人の計算の内ではあったが、それまで意識を保てるか自信はなかった。果たして目の前が昏くなりかけた時。唐突に解放されて瀬人は地面に膝を折って崩れた。そのまま激しく咳き込む彼を、弟がおろおろと屈んで窺う。傲然と見下ろした義父の面持ちには、 どこか興がるような風情があった。
    「呑み込みが早いな。状況判断も悪くない、褒めてやろう――また庇ったにしてもだ」
    見透かされていた。思わず見上げる瀬人と、義父の視線が絡む。
    「まあ、いい。十年の垢だ、削ぎ落とすに少々時間を要すも止むを得まい。それに、若干の傷も」  
   そして海馬剛三郎は顎を退き、二人の養い子をしげしげと眺めた。頬に一条の甘さを残した蒼眸の少年と、長毛種の仔猫を連想させる幼い弟。
「…美しいな。まるで御伽話の挿絵だが、いつまでそうして寄り添っていられることか――所詮は夢物語に過ぎん」
   三十分後に書斎だ、そう云い放って踵を返した義父 が側近を従えて屋敷に向かうのを、膝をついたまま見送る瀬人は幾つかの疑問を反芻する。あれほど獰猛な犬が敷地内とは云え、普段から放し飼いにされている訳がない。偶然にしてはタイミングが良すぎ、彼らの到着を知って犬は放たれた、そう考える方が自然だった。だが、何の為に。そして犬は何故、真っ直ぐにモクバを狙ったのだろう。もしも瀬人が間に入らなければ…あの男は犬を止めただろうか。安住の地と信じた場所が実は蛇蝎の棲処であり、その危険な中に守るべ き弟を伴ってしまったことを、今や瀬人は完全に悟って戦慄した。 
   「兄サマ…」
   心細げな声に呼ばれても返事をしてやることができず、覗き込んでいる小さな顔を見返すのが精一杯だっ た。いかに怜悧とは云え、また相次ぐ不遇に心を鎧ったとしても彼はまだ十歳の子供に過ぎず、成人の男の力の前に抗う術などない。このまま二度と立ち上がれないかのような無力感に打ちのめされている少年に、漸く兄の視線を引くことができて睫涙を湛えた瞳を輝かせた弟は笑いかけた。母の顔を知らず父の記憶も朧なモクバ、その大きな瞳が無言の内に語っていた。たとえ無力な子供でしかないとしても、彼の慕い頼れる対象は瀬人その人だけなのだと。
   そうだ、あの日その涙に胸の裡で誓った。搾取されたものを必ず奪い返し、本来持つべきだった幸福を自分の手で与えてやる。その為なら全方位が敵で構わない。このいとしい存在を背に守る限り、どんな向かい風に倒れることも己には許されなかった。萎えた脚に力が戻るのが感じられ、瀬人は立ち上がって膝をはたいた。
   あの男がどんなに強大でも、それを上回る力を身につけてみせる。
   「行くぞ」
   越えねば進めぬ試練の許に、少年は決然と歩を踏み出した。今はまだ頼りない、その脚で。
   どこまでも共に在ろうとする手を曳いて。
  


 

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 コメント

 はじめましてでこんにちわ、へ゜い太と申します。
  単なる兄弟モノやん!とがっかりされた方、えらいベタやな〜と呆れられた方…返す言葉もございません。
  拙い作品を読んで頂いた方、機会を下さいました管理人のタカツキ様、どうもありがとうございました。


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