「すみませんねぇ、瀬人様」
下卑た笑いが背後でいくつもした。 「これもあの方の命令ですから」 あの方が誰をさしているかは、考えるまでもない。
命令されたことをおとなしく聞くことでしか生きていけない弱者に、いちいち何かを言うつもりもなかった。
両手を後ろにまわされ、鎖でつながれる。慣れた手つきで男たちは瀬人をまるで囚人のように拘束する。
(こんなことをしなくても逃げるわけがないというのに・・・)
恐怖は感じなかった。無駄なことをしていると思っただけだ。
両手を頭上より高く吊り上げられ、きしむ体の痛みにわずかに目を細めたが、何か言おうとも助けを求めようとも思わなかった。
初めから無駄だとわかっていることは、しないにかぎる。
そう思う瀬人の瞳は自分でも気づかないうちに、荒んだ色を滲ませていた。
「泣きもわめきもしないとはな、見上げた態度だな」
「見上げた?冗談言うな。ただの気持ち悪ぃガキなだけだろ?」
「おいおい、仮にも『瀬人様』にガキはないだろう?」
間近で交わされる会話は、俯いたままの瀬人の耳に全て記憶されている。これから五年後に、男たちはこの日のことを一生後悔することになるのだ。
おそらくは誰も考えてみなかっただろう。
こんな、たかが10歳の子供が、その身のうちにどれほど凶暴な獣を隠していたか、なんて。
「明日になれば多分、社長のお怒りもとけると思いますから・・。今夜はここでゆっくりお過ごしくださいませ、瀬人様」
「それでは、失礼しますよ」
慇懃無礼な口調と、耳に響く嫌な音とともに、扉は閉ざされた。
そして暗闇だけが、辺りを支配する。
男達の足音がゆっくりと遠ざかっていく。それが完全に途絶えた時、ちいさな声が聞こえた。
「兄サマ・・・。生きてる?」
おそるおそる聞いてくるモクバの声に、瀬人は思わず笑ってしまった。
さっきまでの荒んだ瞳が今はもう穏やかなそれに変わっている。
やっぱりきたんだな、と半ば呆れながらも、瀬人は優しい声をだしていた。
「生きてるよ。それより、モクバ。だめだよ、ここにいては・・・」
「だって、兄サマ・・・。」
「いいから、早く部屋に帰るんだ。オレは大丈夫だから」
白い息を吐きながら、瀬人は言う。冬の地下室は凍えてしまいそうなほどに寒いけれど、騒ぎを聞きつけて飛び出してきてくれたモクバの声を聞くだけで、暖かい気持ちになれた。
「兄サマ、何でいつも兄サマだけが・・・こんな酷い目にあうの?」
固く閉ざされた扉の向こうの、モクバの声が震えている。
(泣いているのか?)
「モクバ・・・」
近寄りたくても、そうはさせない両手の鎖を瀬人は今は憎んだ。
「気にしなくていいから、オレは平気だ。こんなこと、本当に何でもないんだ。」
「でも・・・」
「それよりモクバ、ちゃんと服は着てるのか?まさかパジャマのまま来たのか?」
「だって、兄サマが心配だったから・・・」
ふう、と瀬人は溜息をついた。
おそらくモクバは靴下さえ履いてはいないだろう。扉の前の冷たい石畳の上で、震えながら立っているに違いない。
「・・・・・モクバ」
意外に頑固な弟が、ここを簡単には立ち去らないだろうことは、瀬人でもわかる。
だからあえて瀬人は言った。感情を消し去った低い声で。
「お前がここにいると、オレがまた罰を受けることになるんだよ」
しん、とした。
扉の向こうでモクバがどんな顔をしているのか、想像するだけで胸が痛んだけれど、あえて無視して瀬人は冷たささえ感じさせる声で言いきった。
「だから、早くここからいってくれ。自分の部屋に帰るんだ」
「オレのせいで、兄サマが・・?」
「そうだよ、だから・・・」
「じゃあオレなんていない方がいいってこと?」
この馬鹿、と叫びそうになるのをぐっとこらえた。
そうじゃないだろうと思った。
お前がいなければ、今自分に与えられている苦しみも何もかも全てが無意味になるじゃないか。
そんなこともわからないのか、と思ったが、これ以上怒鳴って泣かしてしまうのも後味が悪いから。
「良い子だから、モクバ。言うことを聞いて」
自分でもびっくりするくらい、優しい声がでた。まだこんな声がだせるんだと、誰よりも自分が驚いていた。
「・・・わかったぜぃ。兄サマ・・・」
しゅんとしたモクバの声がする。
「でも絶対に、風邪・・ひかないでね。」
「ああ。」
「絶対に絶対に絶対に絶対に、だよ!」
「・・・・・・」
あまりのモクバの強引さに、瀬人は思わず苦笑する。
「わかったよ」
遠ざかっていくモクバの気配を感じながら、閉ざされた世界で一人、瞳を閉じた。
「ごめん、モクバ。オレは変わってしまうかもしれない」
誰に言うまでもなく、そう呟く。
重い扉に閉ざされたこの部屋で、ひそやかに、でも確実に憎しみだけが育っていくのを感じる。
痛い独白。
苦い予感。
二人の間に訪れる未来が決して幸せなものにはならないだろうと、この頃から自分は知っていた気がした。
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