お題(逃亡者)
はるひん様



逃亡者




  それは影である。
  忌まわしき過去と弱者としての己の象徴である。
  それは愚者である。
  為す術もなく睨み付けるしか出来なかった無能者である。
  恐れるに足りない。
  ならば、何故。
 
 
 
  「あの頃の話はもうやめろ」
  そう言い放つと、この先聞く耳は持たないと言わんばかりに瀬人は端末に向かった。
  この沈黙をどう繕えばいいものだろう。
  所在なさげにいているモクバをよそに、忙しい瀬人は次へ次へと時間を進めて行く。
  こんな場合、モクバはいつも自分が悪いのだと思ってしまう癖があるようだ。兄の機嫌を損ねてしまうと訳の分からぬ罪悪感でいっぱいになってしまうのだ。
  モクバは決して瀬人を不快がらせようとしたわけでは無い。ただ海馬邸に引き取られる前の孤児院での思い出をふと懐かしくて話しただけだった。
  自分は無神経なのだろう。自分の何の気のない一言が、兄のどこか、きっと触れては欲しくない部分に接触してしまったのだ。モクバはまだ幼い。なので同じ過去を共有していてもその記憶の持つイメージまでもは同じと限らないという事までは考えが及ばないのだ。モクバの中の最も美しい記憶が瀬人にとっては屈辱の歴史であることがまだよくわかっていない。
  「ごめん兄サマ」
  と、言えばよかったのだろう。だけどこの時は言葉が出なかった。そう言ってしまえば瀬人に優しく守られていた幸福の時間を否定するような気分になるからだろう。
  そうこうしている内に心にわだかまった物がなし崩しに終わったことにさせられる。いつもの事だ。
 
  多分、これはこの兄弟の持つ「歪み」の部分なのだろう。
 
 
  瀬人は他者を信用しない。そういう風には出来ていない。
  それは資質故か経験故かはわからないが「信頼」などと言うものは彼にとって全くのナンセンスなのである。ただ一人の例外を除いては。唯一の肉親であるモクバに瀬人は絶対的な信用を置いている。が、恐らく瀬人にはそうであるという意識はないだろう。モクバが自分の隣にいるのはごく当たり前の事であり、彼に心を預けるのもごく自然な事だ。他者への過度とも言える厳しい態度と一転した弟への思い入れと対応は、彼をアンバランスに見せている要因のひとつであるのだろうが本人には全く自覚が無い。
  瀬人はモクバを幸福にすることは自分の果たすべき義務だと思っている。保護対象へのそういった思いはずば抜けているのだ。
  モクバは孤児院での惨めな過去を楽しげに語る。物好きだと言わざるを得ない。そんな記憶さえも大事に取っておくのは大変物持ちのいいことだ、とも半ば呆れて思いもする
  がそこまでとやかく言う気はない。ただ一点気に入らないのはその過去を語るときのモクバにある。
  このオレが与えた何よりもそんな過去が幸福だと言うのか。
  愛おしむような目で遠い日を語るモクバの表情は、海馬邸にやってきてから見たことのないものだった。
  モクバの幸福はオレが与えなければならないのだ。
  モクバが手にする物の中で、一番に素晴らしい物は自分が与えた物でなければならないのだ。
  薄汚い連中に蔑ろにされ、惨めであったそんな時代がモクバの宝石であるなどあってはならない。
  怒りとはまた別の激情を押し殺して、なるべく感情の色が出ないようにモクバの言葉を中断させた。それが精一杯だった。
  ならばこれから自分がモクバに宝石を与えたらいい。あんな過去とは比べものにならないような宝石を。
  過去を愛するモクバを諫めることは無意味だという事も瀬人はわかっているのだ。
 
 
  「に…兄サマが入院!?」
  「はい、命に別状は無いのですが最近随分と無理をなさっておりましたのでとうとうドクターストップが掛かってしまいました」
  「でもわざわざ入院なんて…屋敷で療養じゃダメなのか?」
  「屋敷におられましたら療養にならないのではと思いまして…」
  「…そうだね…」
  肉体に蓄積した疲労がとうとう内臓器官にまで影響を及ぼしはじめ、今の内に快復をしておかなければこの先どんな病気になるか知れないとの医師の判断だった。入院に関し
  ては海馬Coが所有する病院の超が付くほどの特別病棟なので何の心配もない。モクバはまずそこまで無理をさせてしまっているのに気づかなかった自分を恥じた。モクバは瀬人が頑張るとそれに付いて行くのに夢中になり、つい瀬人の限界まで気が付けなかったのだ。
  「じゃあ今日から兄サマは病院だね」
  「はい、一週間ほどで復帰されると思います。その間…」
  「わかってるぜい!海馬コーポレーションのことはオレに任せておけ!」
  自分よりもずっと大きな磯野に胸を張ってモクバはそう言った。
  とりあえず屋敷に帰って必要な物があったら届けなくてはいけないので、それらを見繕わなければならない。モクバは部下に予定変更の指示を出して海馬邸に向かった。
  そして屋敷の居間で出くわしたのはいつも見慣れた人物であった。
  「モクバ、お前も帰ったか」
  病院でいつまで大人しくしているだろうと心配をしていた矢先の兄との対面である。
  「に、兄サマ、病院で必要な物はオレが持っていくよ!」
  「フン、あんな所でくすぶっていられるか」
  「お願いだから病院に戻ってよ!過労で兄サマが死んじゃったらどうすんだよ!」
  「オレはそんなにヤワに出来ていない」
  「そーゆー自信が一番怖いんだって医者も言ってるよ!」
  「あの医者め、オレの知らん所でそんな事をぬかして…」
  「そうじゃなくて一般的に!」
  基本的に瀬人は「困った人」なのである。そうと決めたら良いことでもそうじゃないことでも決して曲げないのが海馬瀬人という人間だ。
  「お願い…病院に戻って。オレがどれだけ心配してると思うんだよ」
  「大丈夫だ」
  「だからそうじゃないんだよ!」
  瀬人は訳が分からないという顔でモクバの様子を見ていた。
  「どうした?何をそんなに心配している。自分の体のことは自分が一番わかっている。くだらん事で時間を無駄にしたくはないのだ」
  「だって兄サマ、本当に顔色が悪いよ…そうだよ、…最近ずっとそうだったね…オレどうして気が回らなかったんだろう…」
  「モクバ、そんな事を気に病む必要は」
  「あるよ。兄サマのことはオレが一番よくわかってないといけないはずなのに」
  「……そうか」
  瀬人は気持ちがほころんでいくのを感じた。この小さな弟の気持ちが思いがけないときにとても暖かいのだ。思わず瀬人はモクバを引き寄せ腕の中にしまい込んだ。
  「本当に大丈夫だ。…最近夢見が悪いのだ。ただそれだけの事だ」
  「兄サマ寝不足?」
  「そういう事だろう」
  「だったらいい機会だからゆっくり休みなよ」
  「そういう訳にはいかない」
  「どうして兄サマ」
  追いつかれるから。
  とは口には出さなかった。
 
 
  夢の中でその姿を見るやいなやオレは逃げるのだ。目が覚めて自分に絶望するのだ。
  そして夢の中の不様な自分を否定するためにもオレは走り続けなければならないのだ。
  夢の中、人の誰もいないモノクロームの街角で立っているのは幼いオレだ。
 
  見たくもない無力な自分がどうしてモクバの幸福の中に存在するのだろう。
  どうしてオレはあの時以上の幸福をモクバに与えてやることはできないのだろう。
  どこまで走ればあの影は見えなくなるのか。
  オレはもう、無力じゃないはずなのに。
 
 
  深夜1時25分になったばかりの刻である。額に感じた心地よい冷たさで瀬人はふと目覚めた。
  …モクバ?
  「あ、兄サマ起きちゃった?ちゃんと寝てるか見に来たら熱っぽかったから。苦しくない?」
  「…大丈夫だ」
  「兄サマの大丈夫は信用できないよ」
  モクバはそう言って軽く微笑んだ。そのモクバの顔がいつもより少し大人に見えた。
  「お前に看病されるとはな」
  「それどーゆー意味?」
  「…弱くて情けない兄に見えるだろう…」
  もううんざりだ。夢の中で逃げまどい、そんな物に影響を受け自分の体のリズムを崩しモクバにこんな不様な姿をさらすことになるなんて。モクバはもう昔ほどオレのことを頼りにしていないのかもしれん。頼りにならないと見限っているのかもしれん。モクバが憧れるほどの強さをオレは持てなかったのだろうか。
  瀬人の体からゆるゆると力が抜けてゆく。
  …ああ、随分オレは疲れていたのだな。
  「兄サマ、たまに弱くてもいいんだよ。そうじゃないとオレ、兄サマに何もしてあげられることないじゃんか」
  医師から預かった薬を数種類とそれを飲むための水を用意しながらモクバは言った。瀬人の額に載せられたタオルは故意にか少々ずれ落ちて瀬人の目元も覆い隠すようになっているため瀬人の表情は伺えない。瀬人はじっとモクバの言葉を聞いていた。
  「兄サマは」
  「………」
  「いつも、オレのためなんだね」
  濡れたタオルを手で受け止め瀬人は起きあがる。手渡された薬を飲み干し、水の残るコップをモクバに返そうと彼を見やったのだった。
  「兄サマ、ごめんね」
  涙を瞳に溜めたモクバが瀬人の目に飛び込んできた。
  「モクバ…!?」
  心臓が強く鳴った。
  モクバは瀬人の言葉と態度から自分なりに瀬人を理解したのだ。
  他に目もくれずに瀬人が爆走を続けるのも、口癖のように大丈夫だと言うのも、ひょっとしたらふたりで居るときの沈黙さえも、自分のためにあるのかもしれない。
  それを当たり前に己に強いる、それがこの兄なのだ。
  世界で一番愛してやまない兄サマなのだ。
  「オレね、兄サマが大好きだよ」
  「モクバ…」
  モクバの目から大粒の水滴がするりと流れた。
  瀬人はモクバの感情にとても弱いのだ。サイドテーブルにコップを置くと、どう言っていいかもわからずモクバを抱きしめた。
  「どうしたのだ…」
  「兄サマ、好きだよ」
  「そうか」
  「強くても弱くても兄サマが好きだよ」
  「………」
  「本当だよ」
  「もっと強くなる」
  「…一緒に寝てもいい?」
  「…ああ」
  腕の中のモクバはやはり暖かかった。
  遠い過去を慈しむような瞳で見つめたモクバ。その瞳が愛しかった。現在の自分に心が無いというのにそんなモクバの目が好きだったのだ。
  だけども、こんなにも胸が締め付けられたのは今夜が初めてだった。
  郷愁の色を帯びた瞳よりも、訳も分からず泣き出した困ったモクバをオレは愛しているのだと思った。
  今ここに瀬人がいるからこそ過去が愛おしいとモクバは感じているなどと、瀬人はきっといつまでもわからないのだ。
  その夜の睡眠に夢は無かった。腕のぬくもりだけを確かに深く眠ったのだった。
 
 
 
  「兄サマ、今日は病院まで送っていくからね」
  朝食のスクランブルエッグをもぐもぐ言わせながらモクバは言った。瀬人はため息をひとつついただけで何も言わなかったが、どうやら観念したらしい。
  「帰りにも寄るからね、大人しくしててよね」
  「…チッ」
  「舌打ちしないの!」
 
 
  さて今夜はどんな夢を見るだろう。またあの姿を見ることになるのだろうか。
  だが今度は逃げずに済むのではないだろうか。
  あの頃のオレも今のオレも強さも弱さも全てモクバはオレだと言うのだから。







back

 コメント

 えー…病的にまで仲の良い兄弟模様が書けておりますでしょうか。

★この作品の感想は掲示板にどうぞです!