その夜はなんとなく眠れなかった。
何度も寝返りを打ったけど、到底眠気はやって来ない。時計を見ると遅い時刻だけど、まだ暫くは眠れそうもない。だから兄サマの所に行って、話でもしようと思ったんだ。この時間なら仕事を終えて、ベッドに向かう頃だから。オレはそっとベッドから降りた。兄サマの部屋に行こう。
廊下に出てドアを閉めるとき、バタンと大きな音がして焦った。使用人に見つかるとまずいよな。オレが遅くまで起きてると心配するから。そう思ったオレは気付かれないように、なるべく静かに歩き出した。
夜の屋敷はすごく静かだ。昼間の賑やかさが嘘みたいだ。オレしかいない薄暗い廊下が、何だかやたらに広く感じる。ぼんやりとした月明かりが、窓から差し込んで廊下を照らす。窓の外には木々が見える。ざわざわ風に揺れる音に、少し心細くなってきた。
オレは心持ち急いで歩いた。早く兄サマの所に行こう。
兄サマの部屋の前まで来ると、何だか急に安心した。
もう仕事は終わっただろうな。そろそろベッドで休むのかな。突然現れたオレを見たら、何故こんなに遅くまで起きているんだって怒るかな。でも眠れなかったって説明すれば、直ぐに許してくれると思う。もともと本気で怒ってないんだ。本当は兄サマは怖くないよ、実は結構優しいんだぜ。そうだ、一緒に寝かせてもらおう。オレは寝相が良くはないけど、兄サマのふかふかのベッドは広いし、二人で寝ても落ちないと思う。今は何となく甘えたいんだ。
大きなドアを細く開けて、とりあえず中を覗いてみた。 「兄サマ」
ドアの隙間から見える部屋はとても静かで薄暗い。部屋の電気は消されているけど、長いカーテンの開いた窓から弱い月光が差し込んでるので、部屋の様子は少し見える。兄サマはもう眠っちゃったのかな。
そう思ったとき、デスクに誰かが伏しているのに気が付いた。
「・・・兄サマ?」
デスクの上に腕と頭を乗せて、じっと静かに伏している。薄暗いからよく見えないけど、あれは兄サマに間違いない。デスクに伏したまま眠っちゃったのかな。 「兄サマ」
眠るならベッドで、と言おうとしたとき、雲が晴れて月明かりが強くなった。青白い月の光が部屋に入ってくる。オレは兄サマを見てどきっとした。
静かに眠っている兄サマは、ぞくりとするほど綺麗だった。
こんな兄サマは見たことない。この人、本当にオレの知ってる兄サマなの?
オレは兄サマに近付くことも、声を掛けることも出来ずに立ち尽くした。
静かな呼吸を繰り返す兄サマが、吐息と一緒に小さな声を出したとき、オレは走って逃げ出した。
もと来た廊下を走って走って、自分の部屋に駆け込んだ。急いでベッドにもぐりこんで、忙しい呼吸を整え
る。見てはいけないものを見ちゃったみたいで、心臓がドキドキとやたらに煩い。しばらく深呼吸をしていても、なかなか静かにならなかった。
朝御飯の目玉焼きの匂い。オレはジュースを飲みながら、こっそり兄サマの方を見た。
カンパーニュを食べる兄サマは、いつもと全く変わらない。
あれからよく眠れなかったオレは、少しぼんやりしながらパンを齧った。
「瀬人様。応接室の使用ですが、午後2時からで変更はありませんでしょうか」
「ああ、変更は無い。予定通り接客の準備をしておけ」 「畏まりました」
その会話で一気に目が覚めた。そうだった、今日はあの人が来る。あの写真で見た女の人が、午後に兄サマに会いに来るんだ。何しろ凄く急な話で、初めてオレ
が聞いたのが、昨日の夕食のときだった。オレは何だか気に入らなかった。何かわからないけどモヤモヤする。寝付きが悪かったのはそのせいかもしれない。
「一応2時以降はオフにしておいたが、それ程長くはかからないだろう。先方も乗り気ではないだろうからな」
「では、その間至急な御連絡以外は取次ぎをお控え致します。お美しいお嬢様ですね」 「余計なことはいい」
オレも写真を見せてもらったけど、確かに綺麗な女の人だった。先方の親の申し込みだし、直接会ったことも無い人だから、兄サマは乗り気じゃないみたいだ。
その女の人の方だって兄サマを怖がっていると聞いた。それはオレがこっそり聞いた使用人達の噂だけど。結局会社の義理で会うことになって、それが今日の午後というわけだ。
でも昨日の兄サマを見たら、きっとその人だって兄サマを好きになってしまうと思った。
何だか急にパンがまずくなった。もういいや、とパンを置くと、カチャリと小さな音がした。兄サマがフォークを置いた音だった。
「モクバ、どうかしたのか」 「・・・え」 「具合でも悪いのか?」
兄サマは心配そうにオレを見ていた。そして立ち上がってオレの前まで来ると、片手で自分の前髪を上げて、オレに顔を近付けて額を当てた。オレは思わず声を出しそうになった。 「・・・熱は無いみたいだな」
息がかかってどきっとした。兄サマが少し眼を伏せた瞬間、急に昨日の兄サマを思い出して、オレは慌てて額を離した。
「別に、具合が悪いわけじゃないよ」 「そうか?食欲が無い様に見えたのだが」
兄サマはまだ少し心配そうな顔をしていたけど、熱が無いことには安心したみたいだった。
「もし何かあるのなら、無理をしないでオレに言え」 兄サマはそう言ってオレの頭を撫でた。
もし兄サマがあの人を好きになってしまったら、やっぱりあの人にも優しい言葉をかけるんだろうか。兄サマの優しいところを見てしまったら、きっとその人も
兄サマを好きになってしまう。オレは悲しくなって兄サマにしがみ付いた。それは突然だったので、兄サマは少し驚いたみたいだった。 「モクバ?」 「・・・兄サマ」
「ん?どうしたんだ、言ってみろ」
兄サマはそう言ってくれたけど、オレはとても言えるわけなかった。兄サマを取られたくないだなんて、そんなの子供っぽい我侭なんだ。ただ黙ってしがみ付いているオレに、兄サマは少し困った様な顔をして、そっとオレの頭を撫でてくれた。
直ぐに帰るだろう、と兄サマは言っていた。でもそれにしては長いと思う。だって随分時間が経つのに、まだあの人は応接室にいる。オレはやっぱり気になって、こっそり応接室の前にいる。
応接室まで来てはみたけど、中に入ることは出来なかった。来る途中で会った使用人に、瀬人様の邪魔をしては駄目ですよ、と言われただけじゃない。入り辛い空気だったんだ。ほら、よくあるだろ?大人同士で難しい会話をしていて、子供が入って行けない雰囲気ってさ。別に会話に入るなと言われたわけじゃないけど、子供には話題が難しすぎて入れない雰囲気。オレ、そんな子供みたいだ。いや、実際子供なんだけど。
この扉の向こうに兄サマ達がいる。どうしても中の様子が知りたくて、誰も見てないか周りを見てから、オレは扉に耳を当てた。これじゃ思いっ切り怪しいヤツだ。何だか悪いことしてるみたいだ。
会話をしている声が聞こえる。内容までは判らないけど、どうやら穏やかな雰囲気だ。接客をしている兄サマの声は、静かでとても丁寧だ。会社では遣り手の若社長として、屋敷でもやっぱり館主として、時に厳しい声で指示を出すけど、部下でも使用人でもない女の人にはとても丁重に接するあたり、兄サマは紳士なんだなと思った。
兄サマが穏やかに何か話すと、それに女の人の声が続いた。静かだけど楽しそうな響きがある。そしてお互いに笑う声。
もっと耳を押し付けたとき、扉の向こうの部屋の中から、こっちに近付いてくる足音が聞こえて、オレは慌てて隅に隠れた。応接室の扉が開く。
二人使用人が出てきた後に、兄サマにエスコートされてその人が出てきた。兄サマの腕にそっと自分の腕を絡めて、その人は少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑んでいる。
社交界ではエスコートは当たり前なんだけど、何だかもう兄サマを取られたみたいで悔しいと思った。その人が嬉しそうに兄サマを見上げる。
何だよ、会う前は兄サマのこと怖いって言ってたんだろ。オレ、使用人がそう話していたのを聞いたんだぜ。なのに何でそんな風に兄サマを見るんだよ。
時々その人が兄サマによりかかると、兄サマはさり気無くその人を支えた。その人はエスコートされてるんだし、兄サマも振り払うのは失礼になるから、二人の行動は当たり前なんだけど、何だか無性にムカムカする。
ねえ、兄サマを取らないでよ。兄サマはずっとオレの為に頑張ってくれたの。オレの方がずっと兄サマと一緒いたんだ。だから兄サマを取らないで。
優しそうに微笑む女の人は、兄サマの腕を大事そうに抱え込んだまま、嬉しそうに頬を赤くした。
どうしてそんな嬉しそうに微笑むの、兄サマがあなたを好きになってしまう。
廊下の角を曲がるとき、淡い色のスカートがふわっと揺れた。オレしかいなくなった廊下には、あの女の人の香水の甘い香りが残っていた。
その人が帰ってしばらくして、兄サマの仕事が終わる頃、オレは兄サマの部屋に向かった。丁度昨日兄サマの部屋にオレが向かったのも今くらいの時間だ。 「・・・兄サマ」
兄サマは起きていた。カーテンを開けた窓辺に腰掛けて、ぼんやり外を眺めていた。
昨日は兄サマを見た途端、どきっとして逃げ帰りたく なったけど、今はそういう気持ちじゃない。悲しいような怒りたいような。どうして、大好きな兄サマなのに。 「モクバ?」
振り返った兄サマは、やっぱりとても綺麗だと思った。 「どうした?何か用事でもあるのか?」
兄サマは優しく聞いてくれたけど、オレは咄嗟に返事 に詰まった。特に用事があるわけでもない。ただ兄サマの所に来たかっただけだ。
オレが何も言えずに黙り込んでいると、兄サマは苦笑した様だった。 「ああ、まあ何でも構わん。それよりこっちに来い」
オレがふらふら近付くと、兄サマは自分の上掛けを脱いだ。そしてぼんやり見ているオレに、その上掛けを着せてくれた。
「そんな格好で歩き回ったら、冬でなくても冷えてしまうだろう?」
確かにオレはパジャマだけど、そう言う兄サマこそ寝着だけになった。でもそれを指摘する前に、オレは大丈夫だからいいのだ、と言われてしまった。
ボタンを留めてくれる兄サマの後ろの、大きな窓に星が見える。
「・・・きれい」 「ん?」 「ううん、えっと、星が。ほら、あれ見ようよ」
綺麗だと思ったのは星じゃない。突然のオレの関係無い話に、きょとんとした兄サマを引っ張って、大きな窓際まで歩いていった。何を突然脈絡の無いことを、と言いながらも兄サマの声は優しかった。
星を見たいなんて言い訳に過ぎない。本当は星なんてどうでも良かった。何か理由を付けてでも、ただ兄サマの傍にいたかったんだ。
広い窓の前まで来て、空を見上げると星が見えた。もし都会でなかったならば、もっと沢山見えるんだろう。見える数は少ないけれど、オレ達は並んで星を見上げた。
もともと兄サマは静かな人だ。人前では威厳を保つ為か、威圧的な言動を取っているけど、本来はとても静かな人だ。だからオレといるときとか、リラックスしているときは穏やかだ。そしてこうしている今も。
兄サマは黙って星を見ている。オレは星を見る振りをして、星を見ている兄サマを見ている。 「兄サマ」 「何だ?」 「・・・ううん」
そのまま黙り込んだオレを見て、兄サマはまた苦笑した。 「何なんだ、今日は一体どうしたんだ?」
とても優しい声だったから、オレは黙って兄サマにしがみ付いた。兄サマは抱きしめ返してくれた。甘えたがっているんだと思ったらしい。母サマのいないオレが甘えたがる度に、兄サマはよくこうしてくれていた。
兄サマからシャンプーみたいな良い香りがする。あの香水の香りがしなくて良かった。兄サマはあの甘い香りを好きなのかな。多分嫌いじゃないだろうな。あんなに柔らかくて甘い香りだったもの、優しそうなあの女の人にぴったりだった。オレにはあんな香りとか無い。
「ホットミルクか何か持ってきてやろう。ほら、放せ」
「・・・やだ」 「モクバ?」 「嫌だ。行かないでよ」 なんで何処かに行こうとするの。
つい怒った様な声になった。兄サマの首にぎゅっとしがみつくと、小さな子供をあやすかの様に、ぽんぽんと背中を敲かれた。
「わかったわかった。では、行くのはやめるとしよう」
宥める様な声だった。そして頷いたオレに向かって、兄サマも小さく頷いてみせた。
オレが腕の力を緩めると、兄サマは頭を撫でてくれた。
その微笑も、声も、手も、全部あの人のものになってしまうの。嫌だよ。そんなの嫌だ。あの人を好きになんかならないで。ずっとオレだけの兄サマでいてよ。
オレの頭から手を離して、兄サマはまた星を見上げた。
「兄サマ、星なんて・・・そんなに見えないだろ?」
ねえ、だからこっちを見てよ。遠くのものなんて見てないで。星を見ようと言ったのはオレだけど。
「そうだな。この環境ではそれほど見えないのも無理は無いな」
「だろ?少ないよね」
「ああ。しかし、此処からは見えないだけで、実際は数え切れないほど沢山の星があるのだぞ」
「うん。・・・知ってる」
だって、前に兄サマが教えてくれたんだ。だから忘れるはずがない。
あの頃オレ達は施設にいて、大部屋の窓から星を見て いた。そのとき兄サマは言っていた。あの星の数だけの選択肢の中から、凄い確率で選ばれてオレ達は今この状態でいる。だが落胆する必要は無い、何故なら未来にはあの星の数だけの可能性を導く選択肢があるからだ、と。
星を見ながらうとうとしたオレを、そっと布団に運んでくれた後も、兄サマはまだ星を見ていた。
あの星の数だけの選択肢の中から、凄い確率で選ばれてオレ達は。
ねえ兄サマ、オレ思うんだ。オレ達が兄弟になれたのも、あの星の数だけの選択肢の中から、凄い確率で選ばれたんだと思う。だって世界中には数え切れないほど沢山の人がいるんだよ。その中でオレ達が兄弟になれたのは、奇跡的な確率なんだと思う。 オレ、兄サマと兄弟になれて本当に良かった。
だって兄弟だからオレは、すごく早く兄サマに会えたんだ。沢山一緒にいられる様に、そのために早く出会える様に、それで兄弟で産まれてきたんだよ。
兄弟はずっと兄弟だ。上司とか部下とか恋人と違って、兄弟はずっと兄弟なんだ。それは誰にも変えられない。そういう絆で繋がれているんだ。ずっと変わることの無い、切れることも無い絆で。
「兄サマ、兄サマはオレの兄サマだよね」 「何を言っている、そうに決まっているだろう」
兄サマは振り向いて微笑した。そしてオレが兄サマをじっと見ていることに気が付くと、ちょっとオレの髪を梳かして、また広い星空を見上げた。 「ずっとオレの兄サマでいてくれる?」 「当たり前だ」
オレだけの、とまでは言えなかった。オレは俯いて目を伏せた。気付かれない様に気を配った僅かな仕草だったのに、眠くなったのか、と言う声が聞こえて、そっと頭に手を置かれた。
その手はとても優しくて、オレは泣きそうになった。
END
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