お題(銭湯)
ひさぎ様


銭湯ごっこ




 その日海馬瀬人は珍しく7時前に帰宅することができたため、モクバと一緒の食卓で夕食をとった。
 食後のコーヒーを飲みながら、経済新聞の記事につらつら目を通していたが、そのまったりとした時間にいきなり爆弾が投げ込まれた。

「ねえ、兄サマ、一緒に銭湯に入りに行こうよ!」

 飲んだばかりのコーヒーが本日の夕食、牛フィレ肉フォアグラソースと共に、逆流しそうになった。新聞に隠れてその様子はモクバには見えなかったようだが。

「ねえ、ねえ、行こうよ〜〜」
「……銭湯というものは、凡骨のような賤民が行くところだ。なぜ俺たちが行かねばならん」
「だって泳げるくらい大きいお風呂があるんだぜ〜〜。面白ェじゃん!」
「邸の風呂に入ればいい。あそこでも泳げるぞ」
「う〜〜ん、あっちのお風呂かあ」

 海馬邸には当然のように大浴場があるが、ほとんど使われていない。二人は自分達の私室に敷設してあるバスで、それぞれ済ませているからだ。私室のバスといっても狭いユニットバスではなく、一般家庭の倍はある大きさで不自由はないため、わざわざ大浴場に入りたいとまでは思わない。

「う〜〜ん。大きいお風呂のほうかあ」
「銭湯など許さんぞ。何十人の人間が入ったかわからんような湯にお前を入れられるか」
「じゃあ、兄サマ。今日は一緒に大きいお風呂に入って、銭湯ごっこしようよ」

 一瞬にして瀬人の頭に不埒な妄想が駆け巡った。血圧急上昇、脈拍数増加、心悸亢進、過呼吸の症状を自分自身で診断する。

『ぬぬうっ、確か頭部に血液が集まりすぎると脳梗塞の恐れが……ッ! 落ち着け!!』
 脳梗塞より鼻血の心配をしたほうがいいが、唾で咽喉を湿して平静を装う。

「ひ、一人で入ればよかろう。お前ももう小六ではないか」
「え〜〜! あんなデカイ風呂に一人で入るってムナシイじゃん! 一緒に入ろうよ〜〜!」
「俺は仕事を持ち帰っている。忙しいのだ!」
「ちぇ〜〜」
 仕事を盾にとれば、諦めることを経験上知っている。しかしモクバの次の言葉は予想外だった。

「仕方ないや! じゃあ、磯野、河豚田。一緒に入ろうぜぃ!」
「は? わ、わたくしたちでございますか?」
 側に控えていた二人は一瞬よろめいたが、危険を察知し、思わず瀬人から距離をとった。

「な、何を言っている! モクバ!!」
「だって、一人で入るのってやだもん」
「だからって何故この二人を! 許さんぞ、こやつらは俺の付き人だ!」
「え〜。わかったよ。じゃあ、遊戯と城之内呼ぶ」

 …………。

「……俺と一緒に入ろう……」
「えっ、いいの? 兄サマ!」
「ああ……」
 コイツ確信犯ではなかろうかと疑いながら、瀬人はメイドに風呂の準備を命じた。


「お金を払う番台が無いよ〜〜」
「ここは家の風呂だ。何故金を払わねばならん」
「だって今日は銭湯ごっこだもん!」
「……磯野」
「はっ、かしこまりました」
 磯野は適当な机と椅子を脱衣所の前の廊下に置いて座った。

「お一人400円です」
「兄サマの分もオレが払うよ!」
 本当に金を払っている。瀬人は呆れてしまった。

「ちぇっ、やっぱり銭湯って感じじゃないな」
「どう違うと言うのだ?」
「ホラ、脱衣所には体重計があって、扇風機が回っていて、コーヒー牛乳が売っているんだぜぃ!」
「…………磯野……」
「はっ、おまかせください」

 風呂から上がる頃には、このローマ風大浴場の脱衣所は完全に様変わりしていることであろう。

「兄サマ、背中流してあげるよ」
「……ああ……」

 モクバの肢体からなるべく眼をそむけているが、横目ではチラチラと白いモノが動くのを見てしまう。無駄に広い浴室だが熱気は立ち込めており、瀬人は頭にどんどん血が上ってくるのがわかった。

『落ち着けッ、風呂場で鼻血を出したら悲惨だぞッ!何より営々と築き上げてきたモクバからの尊敬の眼差しがッ! 今日の株価のことでも考えるのだッ! 終値で10円高、TOPIX東証株価指数は……』

「はい、終わり〜〜。兄サマ、今度はオレの背中流してよ」
「……!!!」

 ……モクバ、俺の忍耐力を試しているのか?

 精神力と忍耐力を総動員してモクバの背中を流すと、やっと湯船に浸かることができた。湯はぬるくし、入浴剤で濁らせるよう、メイドに言っておいたのは正解だったと、ようやく瀬人はほっとする。
 風呂とは疲れを取るためにあるはずなのに、精神的には疲労困ばいさせられてしまった。せっかく今日は早くに仕事が上がったのに……。

「う〜ん。広くってもやっぱり銭湯とは違うんだな〜」
「またか。今度は何が違うというのだ」
「ホラ、壁に富士山の絵がないじゃん!」
「ああ、なるほど」
 確かに銭湯になくてはならないものであろう。

「お前がそうしたいなら、ここの壁に富士山を描いてやるぞ」
「……やめてよ兄サマ。この壁、タイルじゃなくて大理石なんだぜぃ」
 それも南部ノルウェー産、最高級ラルビカイトだ。富士山は似合わない。

「それにしても、いやに銭湯の様子を知っているな。行ったことなんかないだろう?」
「先週、遊戯と城之内とで行ったんだ。子供の日だから菖蒲湯になってるって言われてさ! 一番風呂だったから三人で独占だったんだぜぃ!」
「!!!!!」

 ………………遊戯に凡骨め……。モクバと一緒に風呂に入った罪は、マリアナ海溝よりも深いぞ。いずれ制裁を加えてやる……。

「俺以外と風呂に入るのは許さんぞ! モクバ!」
「そんなのムリに決まってんじゃん」
「何イッ!! 何故だ!?」
 モクバは呆れたように兄を見上げた。

「オレ、来月修学旅行だぜ。忘れちゃったの?」
「!」

 そうだった。京都奈良に二泊三日。先日モクバのSPを、護衛の下見のために派遣したのは自分だ。

「オレ、奈良の大仏見るの楽しみにしているんだ〜
〜。兄サマ、お土産は何がいい?」
「…………何でもいい……」

 思わずそんな旅行は許さん!と言いそうになったが、モクバのウキウキした様子に賢明にも言葉を飲み込んだ。
 確かモクバの小学校の六年生は140名余り、半数が男児として70名ほど。
 70名……。モクバの裸を見るチャンスがある物が70名……。

 …………許せん……!

「やっぱり八橋かなあ。それからおたべに……」
 楽しそうに土産を考えているモクバを横目に、瀬人は風呂の後、真っ先に出す指令を考えていた。


「ただいま兄サマ、これお土産」
「お帰り、修学旅行は楽しかったか?」
「それがさー、泊まるはずだった旅館が直前にキャンセルされてて、二泊とも全員駅前のホテルに変更だぜ! おまけにオレ、ダブルの部屋に一人だったんだ。ちぇっ、枕投げしたかったのに……」
「そうか、残念だったな」

 瀬人は密かに手を回した結果に大いに満足した。

「風呂は部屋に付いてたんだけど、トイレと一緒で狭かった〜〜」
 大浴場の無いホテルを手配するように命じておいた。フッ、抜かりは無い。

「仕方ないからクラスの連中とこっそり非常階段から抜け出して、近くの銭湯に入りに行ったんだ。ジイサン達の背中、流してやったぜぃ」
「…………!」

「京都の銭湯は壁が嵐山だった! 奈良のほうは……アレ、兄サマ……?」

 瀬人の手の内で、京都上賀茂銘菓『やきもち』の箱が無残に砕かれていた。





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コメント

 旅行中、モクバのSPは何をしていたのかというツッコミは無しにしてください。海馬が情けなくてすみません。


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