「兄サマ、催眠術かけてあげるよ」 「・・・催眠術?」
訝しげな顔で瀬人が訊くと、モクバはにかっと笑って頷いた。
「どうしたんだモクバ、怪しい新興宗教にでも捕まったのか」
「さすがのオレでもそこまでバカじゃないぜぃ・・・」
「それならどうして突然そんな事を」 「いいからいいから!ホラ、そこに座ってさ」 モクバに促されて瀬人はソファにすとん、と落ちた。
彼が何を企んでいるのか全く見当もつかない。 しかし、所詮モクバは小学生。
催眠術と言っても振り子を見せて『あなたは段々眠くなる』程度のものだろう。 たまには遊びに付き合ってやってもいいか―――。 「それじゃ兄サマ、目瞑って」
「瞑っていいのか?」
完全に瀬人は振り子が登場すると思っていたので、質問してしまった。
実際「催眠術」というものはそれしか知らないのだ。 「瞑ってくれないと意味ないんだよ・・・多分」 モクバは少し困った顔をして言った。
よく調べてから実践に至った訳ではないようだ。
最後の三文字で瀬人もそれを察したが、敢えて問い詰めない事にした。
どうしてもやりたいんだというモクバの意志が伝わってきたのと、これから仕事が忙しくなればこうして相手をしてやる事もできないだろうという見通しからだ。
厳しい言葉を浴びせなければならなくなったりもするのだろう。
無論、憎しみ等という汚い感情で怒鳴ったりした事など一度も無いのだが。 色々思考を巡らせながら、目を瞑った。
「それじゃ、始めるぜぃ!」 モクバは意気込んだ。
「っても兄サマは今からオレが言うことを頭の中で繰り返すだけなんだけどね」 「ほう」 「あっ、それと関係ない事考えちゃダメだぜぃ」 「?」
「オレの言った事だけに集中しないと効かないからさ」 「・・・ああ、解った」
正直、瀬人は何処まで本気でやればいいのか困った。
子供の遊びとして付き合ってやるべきか、愛する弟の為だと思って割り切るか。
モクバはただの「子供」ではない。
かけがえのない、たった一人の弟である事に間違いない。
それに、二人一緒に辛くて苦しい境遇を何度も乗り越えてきたのだ。 たかが催眠術。 やはりここは兄として―――
「じゃあ、いくぜぃ〜!」 ゲームスタートだ。 「兄サマの疲れよ、エジプトの砂漠に埋まれ〜!」
ごつっ、という音で、瀬人はテーブルに頭をぶつけた。 「兄サマ!だっ、大丈夫!?」
何処から突っ込むべきなのか。いや、ここはモクバの為にリピートだ。 俺の疲れよエジプトの砂漠に・・・ 「よし、続けろ」
「いいの?それじゃあいくぜぃ」 モクバは息を大きく吸いこんで、 「兄サマのストレスよ、死海に沈め〜!」 ごつっ。
瀬人の頭とテーブルが再度こんにちは。 モクバよ、死海は・・・いかん、リピートせねば。 俺の・・・
・・・・・・ 「兄サマの―――」 「モクバ」 瀬人は耐え切れなくなって、次を遮った。
正しい知識を教えてやるのが最優先だろうと判断したからだ。 「死海に沈むのは無理だ」 「えっ?」
ここだけはどうしても言っておきたかった。
「知らないのか、死海は通常の海の約10倍もの塩化化合物を溶解しているために――」
「あっ、死海だっけ!?体が浮く海って」 「そうだ。もう少し勉強しておいた方がいいぞ」 「・・・うん」
モクバは少し悲しげに俯いた。 こんなつもりじゃなかったのに。 オレはただ、兄サマを・・・。
「いつかそれが仕事に影響を与える可能性も、無きにしも非ずだ」 「分かったよ、兄サマ・・・」
瀬人も仕事仕事と追い立てたい訳ではないのだが、一般常識くらいは身につけておいて欲しいものだと思う。
これも愛情の一つなのだ。
しかし、その愛情でモクバを傷付けてしまったかもしれない。
それは「愛情」と呼ぶのに値するのか? もっと、こう――― 「モクバ、こっちへ来い」
瀬人はモクバを隣に座らせてから彼の華奢な肩を強く掴んで、鼻の頭が触れるかというくらい顔を近付けて言った。
「確かに俺は疲れだのストレスだの鬱憤だの、色々溜まっている」 モクバは瀬人の勢いに押されて頷くのもやっとだ。
別に怯えている訳ではない。 「だがな、モクバ」
モクバに呼びかけてはいるが、特に気遣いもせず先を続ける。
「そんなもの、お前さえ居ればどうでもいいのだ」 えっ。 と、モクバの口が言った。 声は出ていないのだ。
「それに」 瀬人は意地悪な笑みを浮かべつつ更に継ぎ足す。
「もし今の俺の疲れが砂漠に埋まってもまたすぐに別の疲れが襲ってくるだろうしな」
「それじゃあオレは無駄な事をしようとしてたって事なんだね」
寂しそうにそう言うモクバがやたら愛おしく思えて、瀬人はそのままモクバを抱きしめた。
「無駄なものか。お前は何をしてもいい―――俺の傍にさえいれば、な」
モクバはくすっと笑って、それは兄サマの催眠術?と尋ねた。
すると何の返事も返ってこなかった代わりに、彼の体に絡みつく腕がきつくなり、息が止まるかと思った。
END
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