お題(人形師)
小林くん様



深淵




   暗い会場の華々しい舞台、続いているエキシビジョン。
  くだらない取引先のくだらない接待。ただそれも複数一度にとなると中々に厄介で、オレと兄サマは先刻からただひたすら時が過ぎるのを待っている。
   これは今流行りのイリュージョン・ショウ。先方の一社が是非にとゴリ押ししてきた舞台だ。イリュージョンと言えば聞こえがいいが、要はマジックショウだ。兄サマもオレも手品の類は好きじゃない。兄弟揃って、あれを「こけおどし」と捉えてしまうのだ。トリックとタネをよすがに人を騙す。胡散臭い詐欺師。企業経営の立場に立てば詐欺やらスパイの輩は願い下げたいものの筆頭だ。ここの所はやっぱりオレ達は血の繋がった兄弟なのだなあと妙に感に浸ってしまう。
   一社の社長が兄サマに何か耳打ちした。兄サマの表情を見る限り、きっとお子様のオレには聞かせられない類の囁きなのだろう。そしてもう一社の秘書がオレに向ける怪訝な顔。そうだろう、今は深夜十一時。舞台が跳ねるのは日付が変わってからだ。こんな時間に… そう、しかもこんな場所に小学生のオレがいる事が、彼には理解し難いらしい。
   知った事か。オレはれっきとした海馬コーポレーション副社長だ。
 
   オレの思いはおまえらの知る所ではない。オレがお前達との取引は大反対だろうが、この取引が成功する事によって海馬コーポレーションの利益が年数十億上がろうが。その是非を決めるのは兄サマだ。
 
   オレの思いは兄サマの知る所でもない。この下賎の輩がかつてのビッグファイブを彷彿とさせるからといって。実は各社一斉に産業スパイを社内に潜り込ませていたからといって。それを報告した十日前にはその全てを兄サマが知っていたからといって。
 
   オレがどれだけ兄サマの身を案じているのかなんて。
 
   兄サマは知らない。
 
 
   会場内がしんとなった。闇の中に蠢くものも何ひとつなく、司会の男がひとりのマジシャンを紹介した。会場が一斉に沸く。オレも兄サマも知らないが、どうやら男はこの世界では有名らしい。男は舞台の中央で深々とお辞儀をし、にやりと笑った。
 
   兄サマの眉が顰んだ。
 
   男は長いながいマントを振り、漆黒の色と言葉を垂れ流した。オレはそれに心底驚いた。男は人形を使うと言う。
   更に会場が沸いた。どうやらこの演目はこの男の十八番(おはこ)らしい。冗談じゃない。オレはすっくと立ち上がり、マネージャーに事の次第を確かめるべく進もうとし
  た。だがその腕を誰かが掴んだ。怒りに任せた瞳で睨んだ
  相手は先刻の秘書だった。
 
   「兄上も承知ですよ。」
 
  オレの表情はどんなだったんだろう。驚愕か。怒りのままか。それとも絶望か?
 
   「…兄サマ。」
   「座れ、モクバ。」
 
  オレは無言でソファにもう一度座った。それ以外の何が出来る。男のショウが、始まっていた。
 
 
 
   男の腕は相当のものだった。それどころじゃない、神がかっている。そうとしか言いようがない。だってどうやったらあんな事が出来る?実物大のヒト形を、操りの糸なし
  に操れる者などこの世にいるのか?そう、人形師が人形を操る為の繰り糸。それを人形は自ら鋏で斬り捨てたのだ。
  人間になりたいと。
   最初はオレも『きっと糸が見えないように張り巡らされているんだ』と高を括っていた。けれど上からも横からもそんなものは見えない。いや、ないのだ。だって糸があっ
  たら縄跳びなんて出来ないだろう?二重跳びにかけ跳び、果ては自転車まで乗ってやがる。やがて駄目押しとばかりにぴょんと跳ねた人形が、ばらばらとそのボディを舞台の上にぶちまけたのだ。
 「あ、あれ?なんだか全部さかさまに見えるよう。」
  慌てて拾い上げた己の生首を肩の上にすげたはいいがさかさまだ。どっと会場が笑いに包まれる。
   『…悪趣味。』
  うえ、とオレは内心えずきそうだった。人形の表情も男のナレーションもコミカルだけれど、オレには全然楽しくない。そして男の声は『ああ、疲れた、やっぱり人間になるなんてボクには無理なんだあ』と続き、人形は失意の面持ちで椅子に腰掛けた。へえ、笑わせるだけでなくカタルシスで締めるってか?と、オレは感心すればいいのか気味悪がればいいのかわからず兄サマを見た。
   兄は固まっていた。ただ前を見据えたままソファの肘掛を掴み、顔中に脂汗を流していた。
 
   「…兄サマ。」
 
   ぎゅうとその手を掴んだ。無意識にしたそれが兄を連れ戻すと信じて。
 
   やがて男の舞台は終わった。人形を使うその男は、裏の世界のショウで名を馳せた屈指のマジシャンだと誰かが言った。
 
 
   兄サマが、接待相手との商談に入った。きっと契約は締結されるだろう。いつもの兄に戻った彼は隙もなく、海馬コーポレーションは利益拡大が為にそれと知りながら狼を家中に飼う事となるのだ。オレにそれをどうこう言う権利もない。オレにとって兄こそが全て、世界そのものだからだ。あの不遜の輩は兄には敵う筈もないし、簡単にあしらわれる様も容易に目に浮かぶ。だからオレにとってこれからの時間は兄サマと共に在る必要もない。オレはオレがオレ自身に課した責務を果たすだけだ。
 
 
   舞台の裏、出演者の楽屋が並ぶ廊下。その一番奥、一番上等の部屋。オレはその前に立っていた。
   男の名前が記されていた。見るともなくそれを見上げ、一応のノックをした。返事がなくても開けるつもりで。だが意外というか、すぐに返答があった。‘どうぞ’と。
 
   「…これはこれは。可愛いお客様ですね。」
 
   男の生の声がオレを揶揄する。本人にはそのつもりはないのだろうが、その単語は男にはいちばん言ってはならないものだ。いまだ小学生の身分を持て余すオレにも。ムッとした感情を悟られないようポーカーフェイスを創った…
  兄サマのように。
 
   「どうやら、私の舞台を気に入って頂けた…というわけではないようですね。」
 
  オレは手ぶらだ。花束もプレゼントの箱も持っていない。
  男はその事実とポーカーフェイスの意味を取り違え、やんわりと微笑み、言った。オレは無視した。
   「聞きたい事があるんです。」
   「ほう?」
   「あなたに、人形を使うように指示したのは誰ですか?」
  その問いに、男は瞳を見開き笑った。瞳が‘面白い’と言っていた。
   「…私は、今日の統括マネージャーに‘舞台で一切人形を使うな’と言っていたんです。」
  一週間前、この舞台が取引の場に決まった時に。オレは全てのプログラムをチェックし演目を徹底的に調べ、ほんの小さなものでも人形を使う可能性があれば一切やめさせ変
  更しろと、厳重に命令を下しそれを守らせたのだ。だからこそオレはあの演目が信じられない。あんな大きな実物大のヒト形。しかもタイトルが… 「生きた人形」。
   ぎり、と唇を噛んだ。オレのミスだ。ここに来た時点で最終的に確かめなければならなかったのだ。今日の午前中に電話で確認しただけだった自分を迂闊とどれだけ罵っても、兄サマがさっき受けた衝撃はもう消せない。だから。
 「…だから教えて下さい。あなたにあの人形を使えと指示してきたのは、どこの誰ですか。」
  相手は容易に推測できる。今日の接待相手の四社だ。商談直前の舞台、あそこであんな人形劇をやれば兄サマが動揺すると思ったのだろう。事実それは図に当たりそうだっ
  た。取り乱してくれるならまだしも、思考の深みに沈んでしまった兄サマはあの男たちにいいように扱われ、契約も海馬に不利なようにどんどん勝手に取り決められていた事だろう。オレがいなければ兄サマはどうなっていたかわからない。兄サマが何よりも嫌っていたもの、それが人形なのだから。
 
   遊戯にマインドクラッシュを受ける前から兄は人形を嫌っていた。ただ人間に操られ愛玩されるだけのヒトに似たもの、人形。その存在自体が兄サマの嫌悪を呼んでいた。
  それはきっと彼の資質もさることながら、剛三郎にただ全てを強要され自由を奪われた兄サマの、移し身のように見えるからだとオレは思う。やがて兄は本当の人形になってしまった。兄サマの瞳はガラスに、四肢は動かないただの肉塊になった。
   マインドクラッシュから戻っても、兄サマは人形を目にする度にふいに自身の奥底に潜ってしまうようになった。
  さっきみたいに。オレを置いて、兄サマだけの心の深みに沈んでしまうのだ。…やめてくれ。オレの大事な兄サマをこれ以上傷つけるのは。兄サマをこれ以上オレから遠ざけるのは。
 
   またオレにあんな兄サマを見せた奴……  許さない。
 
   「私がそれを、あなたに教えるとでも?」
 
   男の静かな声が降ってきた。反射的に顔を上げたオレを、男が見ていた。その瞳が妖しく煌く。黒髪なのに金色の瞳。
   猫みたいだ。
  大型の猫科動物。そう、豹みたいだ。
   「依頼者の名前をこの私が簡単に明かすとでも?あなたはそう思っているのですか?お坊ちゃま。」
  カアと、頬が燃えた。こいつバカにしてやがる。
   「オレがこのステージの依頼者だ!!」
   「ほう?」
   「オレが今日の舞台全てを依頼し、出演者側事務所と交渉をし!ギャラも払う!!オレがあんたの雇い主だ!!」
  激高したせいで息が上がった。ぜい、と息を繋ぐ間に男はクスクスと笑い出した。
   「貴様…!オレを誰だと…!!」
   「知っていますよ。」
  え、と言葉が止まった。
   「日本屈指のゲームアミューズメント企業、海馬コーポレーション副社長…海馬モクバ様。」
  オレの瞳が見開いた。
 
 
 
   「あなたはご自分の立場をわきまえておられない。」
 
  カツンと、男の靴が鳴った。
 
   「こんな人気のない場所に、SPもつけずに。」
 
  もう一度カツンと靴が鳴る。
 
   「たったひとりで。私の許にいらっしゃった。」
 
  動けない。オレの足。オレの指。
   
   「…あなたも、私のお人形にしてあげましょうか?」
 
  にいと、男の口が裂けた。笑ったのだと気付くのに時間がかかった。酷薄なそれが笑いだと、定義したくもないようなうすら寒い笑顔。
 
   認めたくない。そんな弱いオレを、自認したくなんかない。けれど…
 
     オレはこの男が、こわい。
 
   「そ…外に、オレ付きのSPがいる。」
 
  ちらりと背後の扉を伺った。逃げたい。一刻も早くここから。
 
   「嘘はいけません。」
 
  また、笑顔。かたりとオレの膝が音をたてた。
 
   「私を誰だと思っているのです…?」
   「し、知らな… 」
   「…でしょうね。私は本来、招かれざる出演者ですから。」
   「な…!?」
  男の顔が間近に迫った。無意識にびくりと後じさる。オレは今怯えた顔をしているのだろうか。くそ。さらりと揺れる男の髪は黒い。漆黒。それなのに瞳が光る。金色に。眩みそうだ。
   「私がこちらのマネージャーに無理にお願いしたのですよ。あなた方にご挨拶したくて、ね。」
   「どういう… 」
   「あなた方のお父上、海馬剛三郎氏と、以前仕事をした事がありましてね。…その跡を継いだあなたの兄上に、是非お会いしたかった。」
   「……。」
  オレは悪寒を感じながらただ黙った。剛三郎だと?あの軍需産業のトップにいた男と、仕事だと?
   「おまえ…何者だ。」
   「ふふふ。私はただのマジシャンです。」
  そう言って、男は屈んでいた体を起こした。
   「だから、依頼者などいません。純然に今夜の私は興味だけで舞台に立った。ですから… ノーギャラです。」
  プロにあるまじき事ですがねと肩を竦めて笑う。オレはますますわけがわからない。
   「きょ…興味って…。」
  男は自らの道具箱から、小さなマリオネットを持ち出した。そういった人形には珍しいのだろう、何故か背広姿の人形だった。オレの眉が顰んだ。
   「…あなた方の義理のお父上は、冷酷な方でしたよ。」
  カタカタと音をたてる人形。くるりとこちらを向いたそれは、剛三郎だった。
   「……!!」
  ただの黒い点なのに、その人形の目は確かに剛三郎の目だった。
   「私がお会いした時、正直、この方は…芸術的な方ではないと思いました。」
  カタカタと揺れる。左手一本で器用に人形を操り、もう一本の手が箱の中を探った。
   「ですから、仕事の依頼も本当は断ろうと、出向いて行ったのですよ。ですが… 」
  そして右手が目当ての物を探り当て、
   「…彼は面白い事を言いましてね。」
  男は笑った。
   「自分は自宅に人形を一人、飼っていると言ったのです。」
  右手が人形を出現させた。
   「……兄サマ。」
  幼さを残す面差しの人形は、紛れもない兄サマだった。
 
 
   オレの顔は真っ青だっただろう。膝は笑ってしまって立っているのがやっとだ。
   「幼い兄弟を施設から引き取り、飼っているのだと言いました。一人を後継者にするべく帝王学を叩き込んでいるところだと。」
  カタカタと鳴る人形。剛三郎が兄サマの人形を虐げている。
   「というのは表向き。実は自分の忠実な手駒を自ら創りだそうとしているのだと笑った。体力の限界まで追い込んで、空白になった柔らかな心を己の物にするのだと。…あなたのお父上はそうおっしゃっていましたよ。」
 「…兄サマ。」
  オレは呆然と目の前の人形を見ていた。兄サマが剛三郎の前にうなだれ、跪いていた。
 「絶対に自分に逆らわない、可愛らしいお人形。己の意思など持たずただ自分の言うなりに動く愛らしい追従者。私が求めて来た理想の後継者、その器をやっと手に入れたのだと歓喜しておられました。」
  男の唇の端がにいと吊り上がる。嫌悪感で吐きそうなオレとは反対にこいつはうっとりした表情を浮かべていやがる。
「…私の仕事の全ては、芸術です。」
  カタカタ。人形が男に操られしなやかな指のままに動く。
「私の全てを形造るもの、その全てが芸術だと言ってもいい。だから私の依頼者にその美意識に適うものが欠片もなければ、私はその方の依頼は受けません。」
  カタカタ。剛三郎の人形が兄サマの顎を持ち上げる。
 「色々な価値観の元に芸術は存在しますが… 人間をモチーフと道具にしたものが、一番仕上がりが美しくまた完成も難しい。あなたのお父上は実に果敢なアーティストですよ、モクバ様。」
  ククク。男の忍び笑いが耳障りな程に大きく聞こえる。
   「だから私はお父上の依頼を受けた。彼の『芸術』が完成する日を楽しみに、ね。」
   「げい…じゅつ…だと… 」
  拳が震えた。
   「今夜、その成果を確かめる為に私は来た。剛三郎氏の人形がどのように動き、ふるまうのか。瞳は射るように私を見るか。あの何者をも喰らい尽くす、貪欲でいながら理性的な瞳はそこに在るのか。」
  剛三郎の人形が兄サマにくちづけた。
  「…私は、彼の審判に来たのですよ。」
   男が笑った。
 
   「き…さまぁ……っ!!」
 
   生まれて初めて理性が消し飛んだ。オレは気が付いたら男に向かって拳を突き出していた。
   けれど男は簡単にそれをよけ、すいと横に動いた。次の瞬間、男が消えた。
   「なっ…?」
  オレの首に冷たい指先が触れた。
   「ひっ!!」
   「あなたの兄上は、ご自分の深淵を覗き込み闘っておられる。」
   「なに…っ?」
  びく、と身体が竦んだ。男がいつの間にかオレの背後に回り込んでいたのだ。すうと腕を回しオレの身体を抱いた。
   「……っ!!」
   「…私が怖い?」
  クスクス笑う男の体温が伝わる。それなのに凍えそうだった。身体中の震えを、止める事が出来ない。
   「兄上は剛三郎氏とは違う。どうやら氏は、芸術の完成を待たずして命を閉じられたようですね。」
   「……。」
  イヤだ、聞きたくない。この男の言葉を聞く毎に何かが侵み込んでくるような気がする。取り返しのつかない何かが。
   「出来損ないの人形など生きる価値もない。仕上がりの如何によっては私が氏に代わって‘処分’してさしあげるつもりでしたが、杞憂だったようです。」
   「な… 」
  ‘処分’?何を言ってる?
   「仕上がってはいないが、しかし兄上はけして出来損ないではない。剛三郎氏の影に覆い尽くされ、それを払拭しようと必死に足掻いておられる。それ自体が氏の思うがまま操られているという事実に気付きもしない程、懸命に…可愛らしくも、けなげにね。」
  かあっと頬が燃えた。怒りが恐怖に勝った。ほんの一瞬だけ。
   「兄サマを侮辱するな…!!」
   「おや、とんでもない。彼を貶めるつもりなどありませんよ。」
  男の指がオレの唇を辿った。ゆっくりと。恐怖で歯が鳴った。
   「兄上は自分の深淵を覗き込んでしまったのですよ。だから今もそれと闘っておられる。その窪みの奥深くに飛び込んでしまいたいという、誘惑とね…。」
  クク、と低く笑う。オレの耳元で響くそれは何故かひどく甘かった。
   「飛び込んでしまえば楽なのに。それをしないのはモクバ様、あなたの為ですよ。」
   「え…?」
   「暗い穴の底に堕ちてしまえばあなたとは相容れないモノになる。だから兄上は闘っておられるのです。あなたの為にね…。」
   「…兄サマ。」
  暗い穴の底ってなんだ?自分自身の深淵って、一体なんなんだろう。
   「わからないでしょう?モクバ様、あなたには。」
   「え…」
   「兄上が命懸けで守って来られた、あなたには。」
   「……。」
  オレの心の中を読んだように男が言う。オレの背中を抱き締めているのに、こいつにはオレの胸の中が全てわかっているような気がしてならない。
   「私は今夜、剛三郎氏の芸術の成果を見極めると同時に、ビジネスの話もするつもりで来たのです。ですが… 兄上とは取引出来ない。」
   「……?」
  かたかた震える体に思考まで乗っ取られそうでオレは唇を噛む。男の言葉が理解出来ないのは恐怖のせいだと思いたかった。オレが馬鹿だからだとは思いたくない。必死に知恵を絞ってこいつから逃れる術を考えていたら、ふいに男がオレを離し、向き直らせた。
   「兄上が自分自身と剛三郎氏の影と闘い続ける限り、私と兄上との取引は有り得ません。また兄上もそれを望まないでしょう。」
   「……。」
  男は美しかった。間近で見た男の金の瞳。美しい色のそれはけれど闇色の輝きだった。
   「…モクバ様。ですがあなたなら。」
   「え…?」
   「あなたなら、私を必要とする時も来るでしょう。」
   「…?」
   「ビジネスの話をしましょう、モクバ様。」
   男の双眸が笑みにたわんだ。
 
 
 
   「ビジ…ネス…?」
 
   オレは肩を掴まれたまま男を見ていた。男はオレと視線を合わせる為にしゃがんでいる。まるで跪くように。オレの顔を覗き込んでいる男はやがて思わぬ程に優しく微笑んだ。
   「…あなたは私の大切な人によく似ている。」
   「え…?」
   「あなたの信念に溢れた瞳が、その人を思い出させます。私を憎んでいるその人を。」
   「……。」
  オレは何も言えず男を見た。きっと困った顔をしていたのだろう、男はあやすようにオレの頬を撫でた。不思議と嫌悪感も恐怖もなくなっていた。
   「けれどその人とあなたでは決定的に違うことがある。…あなたの信念の核を為すものは全て、あなたの兄上に関わっているということです。」
   「…。」
  その通りだ。オレの全て、オレの命。兄サマがオレの世界そのもの。
   「だからこそあなたは、いずれ自分の深淵を覗き込むでしょう。なんのためらいもなく。」
   「え…?」
  思わず男の瞳をみつめた。昏い闇に呑まれるように。
   「あなたはあなたの深淵を覗き込み、そしてためらわずその中へ飛び込んでしまうでしょう。他の誰でもない兄上の為に。兄上の全てを守る為に。」
  男の言葉が甘く響く。オレの心にトロリと覆い被さる。はちみつのように。
   「兄上の尊厳。誇り。命。それらを守る為に、モクバ様、あなたはいつか何のためらいもなく他者を踏みにじるでしょう。」
  男の指が頬を滑る。
   「そう遠くない未来…あなたは兄上が辿った道を、違う形で辿るでしょう。兄上は独りで這うように歩いて来られた。あなたが進まずに済むようにと、その痕跡すらも消し
  て悟らせもせずに。けれどそれはあなたも‘海馬’を名乗る限り、いずれ免れ得ない道なのです。」
  男がゆっくりとオレを抱き締めた。長い指が優しくオレの背中を撫でた。
   「例え兄上がそれを望まなくても。あなたはあなたの信念でその道を選び取るのです。」
   「……。」
  オレの中で何かがざわめいていた。静かに凪いでいた水面がさざめくように。いつかの幼い決意をオレに思い出させる、その指。
   「私はマジシャンであり、人形遣いです。その私の腕を、あなたはいつか必要とするでしょう。」
   「どうして…?」
  不思議に思って顔を上げた。会社の運営にマジシャンも人形遣いも必要なんてないだろう。だがそのオレの問いに微笑んで、男はオレの髪を梳いた。
   「私が操るのは、人形だけではないのです。」
  男の瞳が煌いた。
   「…なに…?」
  オレの心に届く甘いいざない。
   「じゃあ、なに…?」
  怖さも嫌悪もかき消えた。男の言葉に流されていた。それと気付かずに。留まろうとオレは男の胸を無意識に掴んだ。上質のシャツにくしゃりと刻まれる皺。
   「…ひとの心と… 」
  オレの耳にじかに囁かれる甘い罠。
   「 ……命…。」
  オレの視界が黒く染まった。
 
   衣擦れの音がする。黒い視界のそれが流れていた。オレはただ立ち竦み、肌に触れるその感触に自身の思考を取り戻した。
 
   「あなたがいつか選択を迫られた時 」
 
   男の声がどこか遠くから響いていた。
 
   「兄上の命と他者の命を秤にかけなければならなくなった時 」
 
   オレの心に直接届く甘い声。
 
   「私を呼びなさい モクバ様 」
 
   風がオレの頬を嬲って行った。よける事も叶わず煽られ、かざした手が揺れた。
 
   「あなたを阻む者の骸と共に、届けましょう… 」
 
   「おい!おまえ一体…!!」
 
   ばさりと音がして視界が晴れた。ぴんと張られた糸のように佇む男がいた。捧げ持つ華に唇を寄せオレにゆっくりと差し出す。オレが操られるようにそれを取り、下りてきたくちづけに震えながら応えた時。男の唇が亀裂を刻み契約の言葉を紡いだ。
 
   「…血の様に赤い薔薇を…… 」
 
 
 
   ざあ、と風が流れた。甘い薔薇の香りが微かに鼻腔をくすぐる。はなびらが舞い踊りやがて消えた。
 
   「……!!」
 
   オレは我に返った。
 
   「……ウソ… だろ……?」
 
   誰もいなかった。男が持っていた道具箱も男も消えて、それどころか人の居た痕跡すら跡形もなく消えていた。ただオレの手の中に残る一輪の薔薇だけが、男の存在を確かめる唯一の術だった。
 
 
 
   「…モクバ。どこへ行っていた。」
 
   ぼんやりと歩いていたオレに兄サマが声をかける。もう契約も終わり、後はさっさと帰宅するだけだった。奴らの晴れやかな顔にオレの疑惑は打ち消される。あの男は本当にこいつらに雇われたわけではなかったのだ。
   「…何を持っている。」
  オレが持っている薔薇。紅く、あかく、全ての存在を凌駕する美しさ。オレは何故か慌ててそれを隠してしまった。
   「あ…。あの、マネージャーと話してたんだ。」
   「…そうか。」
  どこか訝しげな兄サマ。オレは初めて兄サマに隠し事をした。
   出口に向かう兄サマ。オレはまだぼんやりとしていた。
  だから兄サマの言葉に気付かなかった。
   「あの男…。」
   「え… えっ? あの男?」
   「最後に出て来たマジシャンだ。」
   どきりとした。
   「マネージャーは何と言っていたのだ?」
   「あっ…!あの…!」
  慌てた。
   「よ、予定していた出演者が急に今日入院して、それでマネージャーが直接交渉したんだって。急な事だったから演目までは指定出来なかったんだってさ…!ごめんな、兄サマ。オレの確認ミスだぜい。」
  殊更なんでもないように明るさを偽って並べ立てた。ずきんと胸が痛んだけれど、兄サマには話せない。あの男の事は。
   「そうか…。」
  何か考え込んでいる兄サマ。不機嫌なんだろうかと少し怖くなって、横に並んで歩く彼の顔を覗き込んだ。
   「…兄サマ…?」
   「……禍々しい…… 」
   「え……?」
   「あの男…どこか、禍々しい… この世の理と、相容れないような…。」
   「……兄サマ……?」
  その声にはっとして兄サマはオレを見下ろした。少し狼狽したような表情はとても珍しいと言えるだろう。
   「いや…、なんでもない。」
   「……。」
   それからは無言で二人ベンツに乗り込んだ。互いの思考に身を預け、オレはずっと車窓に流れ行く街並を眺めた。
   オレはそっと胸の内ポケットを探る。そこには一枚のカードが在った。ただひとつナンバーが書いてあるだけのそれは、いつの間にかオレが左手に握っていたものだ。
 
   たったひとつのナンバー。海外でも通じるコールナンバーだ。
 
   投げ捨てようと、握り潰そうとしたオレはけれどそうしなかった。
 
   出来なかった。
 
   あの男の不思議な瞳。最後に触れた冷たいくちびる。交わしたくちづけ、契約の証。
 
   兄が禍々しいと言った男の、甘美な誘惑。オレはいつかそれに身を委ねるのだろうか、兄の為に。わからない。けれどそうなったなら、男はオレの願いを完璧に叶えるのだろう。美しく、それは芸術とまで言える程に。オレは横に座る兄サマを見上げ、カードを握り締めた。初めて抱いた
  秘密と共に。
 
 
 
 
        私を使いなさい、モクバ様。
 
        私はあなたの忠実なしもべ、
 
        誠実なお人形。
 
        けれど私を使った時、
 
        私は初めてあなたを手に入れる。
 
        あなたを守り、自らを唾棄した兄上。
 
        守られ、純粋なまま、
 
        熟れて腐ってゆく温室の華、
 
        それがあなた。
 
        腐ったまま兄上を愛するあなたの情が、
 
        やがて私を呼ぶでしょう。
 
        その時こそ、私は本当の報酬を得る。
 
        あなたの父上との契約は、
 
        その時こそ成就するのです。
 
 
   「…ふふ… 楽しみですね。」
 
   男は笑う。薔薇の中で。
 
   「私のお人形…。」
 
  五年前の、本当の報酬。兄弟の片割れを頂くと言った時の剛三郎の顔を思い出し、男は愉悦に浸る。
 
   「真の芸術とは、時間をかけて、ゆっくりと… 仕上げるものです…。」
 
   ククク。声も身体も闇に溶ける。男は闇そのものだった。
 
 
 
   兄サマ。兄サマ。
 
  いつか、そう遠くない未来。
 
 
 
   オレは兄サマの命を得る為に
 
   だれかの命を奪うのだろうか
 
 
 
 
 
                            
     End.
 
                                                 
  2003.5.14.wed. by Kobayashi.
 
 



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コメント

ぬるいっ!!
 
  それなのに、長いっ!!
 
  タカツキ様、ごめんなさいごめんなさい、コバヤシ、やっぱりフォームとか全然わかんなくて、それでこれが長いのか短いのかそれすらもわかんなくなってます!
 
  ごーめーんーなーさーいーーーー。(号泣)
 
  しかも別漫画から、「あの」「彼を」ひっぱってきたというのに、
  ぬるい!ヌルイ!
  ヌルすぎだあああぁぁぁぁーーーー!!!
  タカツキ様、ごめんなさいごめんなさい、こんなんダメですよね、足掻いたんですこれでも!それで、一応投稿、性懲りもなくしてみようかなとか、思って、それででも、「ザッケんなよ!!」とか、
  「ケッ!!やってられっかよ!!」
  とか思われましたらどうぞ削除を…!!ああああ!!そんでそんで、メールでお叱りをください!!書き直すし!!
  なんだったら予約取り消しとかして下さい!!(ひー)
  ご、ごごごご、ごめんなさいーーーー。
 
 
  ……。
  因みに。
  別漫画の彼… 作中の「男」とは。
  イニシャルだけ…「T氏」です。ヒントは「血のように赤い薔薇」…。あああ、こちらでもごめんなさいーー。
 
  てゆーか、これってセトモク!?!?(ギャー!)