お題(肉と骨と魂)
いちご大福様



肉と骨と魂



  体が重い。両足は鉛のように感じられ、両手はうまく動かない。深い闇が全身に絡みつき、のしかかる。そんな感覚と闘いながら、瀬人はその部屋のドアを開け、中へと歩を進めた。
  今夜こそ。そう、今夜こそ、決着をつけなければならない。そのために、自分はここに来たのだ。
  浄化された空気の冷たい匂い。低く聞こえる機械音。無機質な、だがどこか威圧感を感じさせる医療装置に囲まれて、「それ」は横たわっていた。
  かつて、自分の弟だった「もの」。
 
 
  あの日、あの瞬間に起こったことは、今も高熱に浮かされて見る悪夢のような生々しさで脳裏に甦る。唐突に自分に向けられた銃口。心臓に撃ちこまれるはずだった銃弾をなんとかかわしたが、左肩に重い衝撃を受け、無様に膝をつくしかなかった。なんとか反撃しようと懐の拳銃に右手をかける。が、襲撃者が再び引き金を引く方が早かった。
  今度こそ自分の命を絶つはずだった銃の発射音より早く、聞き慣れた声が瀬人の耳朶を打った。
   「兄サマ!」
  たぶんそれは、あの時絶対に聞きたくなかった声。聞いてはならなかった声。反射的に上げた目に、弾かれたように首を反らしながら倒れる小さな体が映った。
   (モクバ……!)
  信じられない思いで、彼の名を呼ぶ。地に伏せ、動かなくなる弟を見つめながら。
  役立たずのボディガードどもが、ようやく刺客をとりおさえるのを視界の端で捉えた。幽鬼のように立ち上がり、右手に握った銃を抵抗できない男に向け、弾倉が空になるまで弾を撃ちこんだ。
  そして振り返る、直視したくない現実を。
  モクバの小さな顔は紅く染まり、長い黒髪も血に濡れそぼっていた。瀬人を庇って受けた銃弾は、頭部にめりこんだのだと認識した。だめだ、助からない、と心の中で何者かが宣告を下す。お前の弟は死んだ。もう取り戻せない。
 そう聞こえた。
  瀬人自身の傷口からも大量の血が流れていた。苦痛が波のように襲ってきた。それが、肉体(からだ)で感じるものなのか、精神(こころ)で感じるものなのか、わからないまま、瀬人の意識は途切れた。
 
 
  永遠に醒めたくなかった眠りから醒めた瀬人に、医師は意外な言葉を吐いた。貴方の弟は生きている、と。
  「生きている」――そう言ったのだ。「助かった」とも言わず、「回復した」とも言わなかった。
   的確な表現だったな、と皮肉な気持ちで瀬人は思い返す。
  そして今も、モクバは生きている。確かに。生命を維持するための様々な装置に繋がれて、ただ生きている。脳の損傷は重く、機械の補助を受けなければ自力で呼吸もできない。意識を回復する可能性はゼロだと言われた。
  その一方で、このままの状態で生かし続けることはできる、とも言われた。十年、二十年、患者の唯一の親族である瀬人が望む限り、いつまでも。
  それは、裏を返せば、瀬人の意志次第でいつでも生命維持装置のスイッチを切ることができるということだった。
 
 
  灯りも点けないまま、瀬人はベッドの脇に跪き、モニターの光に照らされたモクバの顔を見つめた。おそらくもう夢を見ることさえないだろう、静かな寝顔。以前の彼を思い出す。ころころとよく表情の変わる奴だ、と思ったものだ。笑ったり、怒ったり、驚いたり、泣いたり。感情を正直に表すことを忘れてしまった自分とは対照的な弟の姿を見るのが好きだった。殺してしまった自分の感受性を、彼が代わりに映し出してくれているような気がしていた。
   「モクバ……」
   そっと小さな手を握る。その手には確かに体温がある。だが、何の動きも示さず、兄の長い指の中に力なく収まっているだけだ。
   (なに? 兄サマ)
   自分の呼びかけに、打てば響くように応えた声は、もう発せられることはない。瞳を開いて、愛情と尊敬に満ちたあの眼差しを瀬人に向けることもない。いついかなるときも瀬人の人生を支え続けた小さな手は、もう力を持つことはないのだ。弟の魂は死んだ。ここにあるのは、肉と骨で形成され、温かな血が通うだけの、ただの抜け殻に過ぎない。
   ――魂? 
   瀬人は笑い出したい衝動に駆られた。そんなものの存在を信じたことなどなかった。人間の生命活動自体、自然の摂理にしたがった合理的な現象のひとつに過ぎない。そう思っていた。
   ならば、「これ」をまだ愛せるはずだ。かつて生命の躍動にあふれた弟を愛していたように、「これ」を守っていくことができるはずだ。
   ――だめだ。
   それは間違いだ。こんな偽りの生をモクバに与え続けることはもうできない。奇跡を待った時期もあった――神に祈る代わりに、医学とテクノロジーの進歩に期待をかけて。それも虚しいことだった。破壊された脳細胞が再生することはない。消えた心が還ることはない。永遠に。
   モクバの手を握りながら、空いた片方の手で、心肺機能を調整する装置のコードをつかむ。瀬人は何も感じない。
   悲しみも、苦しみも、恐怖も。
   偽りの生。それは今の俺も同じだ、と瀬人は思う。
   瀬人にとって生きることは、弟を守ることだった。モクバを、モクバの心を失えば、自分は終わりだ。それはずっと前からわかっていたこと。
   力をこめ、思いきりコードを引き抜く。装置の異常を知らせる耳障りな音が鳴り響いたが、瀬人は何も感じない。
   ――あの時、あの瞬間、お前は死んだ。そして、俺の魂もまた死んだのだ。今ここにいる俺も、ただ生ぬるい血の流れる肉と骨の塊に過ぎない。
   モニターからの警告音が響き渡っている。心臓の動きを示す光の曲線がだんだんと弱まり、やがてフラットになる。瀬人は空ろな目でそれを確かめていた。
   ――モクバの抜け殻はこれで消える。俺が消し去った。
   だが、もうひとつの抜け殻は? これも消してしまおうか? 胸のポケットには今もあの拳銃が入っている。取り出して、こめかみに当て、引き金を引けばいい。簡単なことだ。それで本当にすべての決着がつく。
   瀬人の手の中で、ゆっくりと冷えていくモクバの手。もう一度、彼の顔を見た。
   (ダメだよ、兄サマ)
   ――お前はそう言って止めるだろう。止める必要などないのだ、モクバ。俺は生きていく。たとえ地を這うような思いをしても、重い肉体をひきずって前に進む。その先に、何の光も見出すことはできないとしてもだ。たとえ魂の消えた人生でも、これはお前が命と引き換えに残していったものなのだから。俺は生きなくてはならない。
   「誰かがまた、俺を殺しにくるまでは、な……」
   まるで祈るかのように低くつぶやく。乾いたその声は、永劫の闇に呑まれて消えた。
 
 
 
                                                END
 

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 コメント

あとがき……というか、遺書です。すいません、暗いです。情けないです。おまけにへたくそ……墓地送りになるべきは、瀬人でもモクバでもなく、作者ですね。ぐすん……

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