お題(猫とピアノ)
小林くん様



凛という名の猫




   モクバが猫を拾った。拾ったという表現は正しくない。
  海馬邸の庭に怪我をして転がっていたのを保護したのだ。
  『蟻の這い出る隙間もない』というのがこの屋敷のセキュリティたる筈だったが、一体何処から迷い込んだのか皆目見当もつかない。俺がマスターコンピューターの作動チェックを指示する傍らでモクバは獣医に連絡し、実にかいがいしく看病なんぞを始めたのだった。
 
   「兄サマ、お願い、うちで飼ってもいいでしょう?」
 
   縋るように俺を見上げてくる弟に心が揺らがない筈もないが、しかし小動物というものはえてして脆い。ひどい怪我をしてバスケットに横たわる猫に生命の余力は感じられず、俺はだめだと言った。今夜が峠だ、どうせ死ぬと。
 
   「じゃあ、明日も明後日も生きてたら、飼ってもいい?」
 
  一筋の希望にしがみつくモクバは必死だ。自分の事でもないのに。
 
   …好きにしろと、踵を返した俺を本当に嬉しそうなモクバの声が追いかけて来た。
 
   「ありがとう、兄サマ!!」
 
 
 
   それから一週間、猫は日毎に回復していった。
   驚いた事に二日目には自力で立ち上がろうとしていたらしい。みるみる元気を取り戻しモクバの腕に抱かれて喉を鳴らすまでになった。勿論俺は約束を守り、その猫を屋敷で飼う事にしたのだ。
 
   「名前はね、“凛”にしたんだ。」
 
   雌猫の名前にしては凛々しいなという俺に、モクバは『凛とした眼差しをしてるから』と答えた。なるほど確かに意志の強そうな瞳をしている。日本猫にしては珍しい真青な色で、何事か含むように人間を見上げてくる。身体の全てが純白でしなやかに動く小さな獣。その行動には謎が多く、しかし俺は猫というものはこんなものなのだろうと勝手に納得していた。
 
   俺の推測が甘かった事はすぐにわかった。傷が治った途端に猫は屋敷を抜け出し、毎日モクバの通学路で帰りを待つようになったのだ。あれだけチェックをかけホストである社のコンピューターまでエラー取りをしたというのに、あの忌々しい猫はその中の小さなバグだか実際の小さな壁の隙間からいともあっさりと抜け出してしまう。腹立たし
  い事に屋敷の誰もその瞬間を目撃した事がないと言うのだ。更に一体どうしてモクバの下校時間がわかるのか、ここまでくると実に非科学的な論理に辿り着いてしまいそうになる。
…くそ。この俺としたことが。“凛は利口だよねえ”と得意そうに白い毛の塊を掲げるモクバは疑問にすら思っていないようだった。その度に青い瞳が揺れていた、ただモクバを見据えて。
 
   「兄サマ、ピアノ弾いてよ。」
 
   休日、天気の良い昼下がり、よくモクバは俺にねだる。決まって読書をしている時だというのは気付いていたので、今日は敢えてテレビでニュースを見ていたのだが。見
  ればモクバの腕には既に定位置だと言わんばかりの凛がいた。
   その眼差しに、俺は初めて何かの違和感を感じた。猫にあらざるものというべきか。何だかわからないが深い知性を感じさせた。
   『何を馬鹿な』
  すぐにその思考を振り切り俺はグランドピアノに歩み寄る。モクバのリクエストは大概決まっていて、今日も同じ曲をねだってきた。俺はひとしきりシューベルトを奏で、ピアノのてっぺんに陣取り長い尻尾をゆらり振る凛を盗み見た。
   不思議な瞳だった。いつかどこかで見たような、心の奥のざわつきを煽る青い色。俺の全てを透かして見るようなスコープの瞳。
 
   「兄サマ、オレもこれだけは弾けるようになったんだぜい。」
 
   そう言ってモクバが弾き始めたのは『エリーゼのために』。鍵盤の上で踊る指はぎこちなさが取れてかなり滑らかになっていた。定番と言えばこれほど定番なものはないが、初心者にはいい曲だ。傍らに立つ俺のために奏でられるそれを、もうひとりの観客はやけに熱心に聞いていた。
   何故そんな風に思ったかというと、俺の時とは違って身を乗り出し、じっとモクバの幼い指が跳ねまわるのを見つめていたからだ。ぴんと尻尾は立ち上がり時折タクトを振るように揺れる。モクバがそれを見て笑う。まるで二人で演奏しているようだと思ってしまい、俺は少し疲れているのかと額を抑えた。
   最後の旋律が消えた時、凛が鳴いた。
   「ニャァァ。」
  モクバが答えた。
   「ありがと、凛。」
  二人だけの世界が、そこに在った。
 
 
 
 
   やがて冬が来て忙しい時期に入った。おもちゃ業界の書き入れ時は正に殺人的な忙しさで俺達を襲う。体調管理も仕事の内だが流石にそれにも限界がくる。俺自身はどうにでもなるが心配なのはモクバだ。
 
   「大丈夫だぜ兄サマ!オレってば頑丈なんだぜい。」
 
  そう言って幼い体を酷使する弟を、気にかけていなかったわけじゃない。けれどスケジュールのタイトさに俺も業務をこなすので精一杯になっていた。今年はゲームの新型ハードも発売して更に忙しさに拍車がかかっており、俺は本社ビルの執務室に詰めっきりとなってしまった。モクバはどうしているだろうと思う間もなく打ち合わせに追われ、秒単位の決済に追われた。
 
   不安にまみれた俺の、モクバ専用の携帯電話が鳴ったのはそんな時だった。
 
   「!!モクバ!?」
 
   慌てて二回のコールで出たが無音。訝しく思い直後に誘拐を想定した。背中を怒りよりも恐怖が駆け抜けた時、何かが聞こえた。
 
      “ポロン。ポロン。”
 
   「……?」
 
   ピアノの音だった。途切れ途切れのそれがなんなのか、最初はわからなかった。が、はっと思い当たった。これは「エリーゼのために」だ。
   有名な最初の旋律が終わって、直後鋭い怒号のような音が鳴り響いた。
 
   『ニャアアァァーー!!』
 
 
      “ ガタン! ”
 
 
   俺は椅子を弾き飛ばし走っていた。
 
 
 
 
   「モクバ!!モクバはどこだ!!」
 
   海馬邸で俺は叫んでいた。今日は屋敷で資料を纏めると言っていた筈だ、慌てて迎えたメイド長に俺は掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。が、モクバは戻っていないと彼女は言う。
   「そんな筈はない!今日の予定は」
   「いえ瀬人様、本当でございます!お帰りになられたのならまず私に御挨拶をして下さいます、モクバ様はいつも…!」
   「ええい面倒だ、捜せ!屋敷中くまなく捜すのだ、全員でだ!!」
  屋敷中の使用人が慌てて集まって来る。俺はモクバの自室から始めて順に二階を捜そうと、中央の大階段を登ろうとした。
   「ニャア」
   階段中央にいたのは凛だった。一瞬凍りついた俺を冷徹な瞳が見ていた。あのスコープの瞳で。
   猫は俺の脇を駆け抜け、玄関左の図書室に繋がる廊下へ向かった。途中で振り向き俺を見る。俺は駆け出した。
 
   図書室は広大なスペースが取られている。公立図書館の五倍はある部屋の壁は全て本棚で埋まり、いつもカビ臭い。部屋の灯りは落とした照明にしている為薄暗く、隅の方はよく見えない。小さなモクバが倒れているかもしれないと思うと気温の低さだけではなくゾッとした。凛は素早く部屋を突っ切り、更に奥の書庫の扉を目指していた。
   「……?」
   扉の前に陣取って凛は尻尾を体に巻きつけ佇んでいた。鍵もかけここ数年誰も入った事などない筈の場所に、一体何があるというのだろう。
   「…どけ。」
  俺の言葉を解したようにゆっくりと脇によける白い獣。俺は扉を押してみた。鍵がかかったそれが腕を跳ね返すのを思って。
   だが意に反してそこは開いた、呆気なく。重苦しい音をたてる扉は意外にも軽く、何度も開閉されていたのがすぐにわかった。
   「…!モクバ!!」
   モクバが倒れていた。冷たいコンクリートが剥き出しのこんな所で、こいつは一体何をしていたのだ。
   「モクバ、モクバ!!」
  抱き起こし揺すっても答えはない。熱い体と息がすぐに事態を知らしめる。
   「瀬人様、やはりいらっしゃら… まあモクバ様!!」
   「すぐに医者を呼べ、早く!!」
  腕の中のモクバはぐったりとしていて生気がない。流行りの風邪か、それとも肺炎でも起こしているのか?弟の体をべッドに横たえ俺は自分自身への怒りが炎となって身を焼くのを感じていた。
 
   俺は一体、何をやっているのだ。
 
   幸い肺炎にまでは至らず、解熱さえ出来れば問題はないと医者は言った。生ぬるい安堵に嫌悪を感じ、俺は自責の念にかられていた。過労という二文字が、モクバの体を蝕んでいたものだからだ。
 
   「……くそ。」
 
   過労だと?小学生の子供がか?俺は己のふがいなさを呪いたい気分だった。
 
   決して壊しはすまいと誓っていた。あの小さな体の中に在る、残酷なまでの純真さを。
  何も見なくてもいい知らなくてもいいと、俺は様々なものからおまえを遠ざけていた、必死なまでに。けれど純粋さ故にそれを潔しとせず、おまえは常に俺に関わりを持とうとする。こんな危険な男の後を追い、どんな事にでもそれこそ命懸けで挑んでくる、時には俺自身にまでも。賭ける対価は恐ろしく高価で俺はその度に恐怖した。おまえが消えてしまうのは耐えられない、俺の狂気はおまえという存在と背中合わせなのだ。
 
   ただ守りたいだけなのに。おまえと俺はすれ違う。
 
   暗く冷え切った書庫で俺はアルバムを見ていた。施設時代の数少ない写真の束だ。捨てられたものと思っていたそれが一体どこにあったのか、俺にはわからない。だがいくつもついた指の跡が、幼い弟の心の中を見せてくる。
   「…モクバ。」
  写真の中の弟は今と変わらぬ無邪気さでそこに居る。けれどいつの間にかあいつが纏った翳りは写真のどこにも見当たらない。無理をして笑う弟の心を、俺は見て見ぬふりをしていた。
 
 
   居間に入るとピアノの蓋が上がっていた。脇に転がる携帯電話は俺がモクバに持たせたものだ。折りたたみ式のそれは開いていて、通話状態になっていた。見るまでもない、番号は俺の電話のものだった。
   「…。」
   ゆっくりと、凛が入って来た。堂々とした威厳のある、女王のような素振りだった。白い獣は美しい動作でピアノの天辺に飛び、先刻と同じく尻尾を体に巻きつけて座った。磁器の彫像のような姿は惑わされる程優美だ。だがその瞳が全てを裏切っていた。宿っているのは怒りだった。
   「……。」
   俺はじっとその瞳をみつめた。そして思い当たった。この瞳を、どこで見たのか。
 
   「…貴様。」
 
   非科学的な発想。 有り得ない真実。
 
   「ニャア。」
 
   “泣かせたら”
 
   「まさか。」
 
   “許さないよ、瀬人。”
 
   青い瞳の、生きてすらいなかった
 
 
   「…おまえか…!!」
 
 
   以前見たそのままに、すうと青色がひずんだ。
 
 
 
 
   夕闇が近付く中、白い毛が薄く染まっていった。逢魔が時とは良く言ったものだ、こんな存在と対峙するのにこれ程ふさわしい瞬間はないだろう。身じろぎもせず佇む獣は俺を蔑み見下ろしている。く、と笑いが洩れた。
 
   「…いいだろう。」
 
  青い瞳が見開いた。スコープが照準を合わせたように。
 
   「上等だ。」
 
  顔を上げた俺の瞳に飛び込んでくるそれは絶対零度のあたたかさでしかない。以前俺と闘ったこいつと同じ、鉄の柩に包まれた心。
 
   「貴様は俺の夢に侵食してきた事があったな。」
 
  猫と対話している海馬瀬人は気がふれたと思われるだろう。どこぞの凡骨辺りが目にすれば固まってしまう程の滑稽さだ。だがこればかりは話が別だ。この存在は、こいつだけは。これ程厄介な生物はいないのだと、俺の全知覚神経が叫んでいる。
 
   「許さないと、貴様は言ったな。それを実行しにやって来たというわけか?」
 
  フンと鼻で笑ってやれば微かに身じろぐ白。ゆらりと尻尾が揺れた。
 
   「貴様如きに審判を委ねるつもりはない。あいつを泣かせればそれは即ち俺の罪。誰でもない、俺が俺自身を罰してやる。」
 
  ぴたりと尻尾が止まる。すうと伸びるそれが指を指すように俺に向かった。
 
   「貴様に言われるまでもない。俺はその為に生きている。」
 
  再び青い瞳が細くたわんだ。
 
 
   夢の中のこいつは笑っていた。最後に見せた氷の表情に人ではないものを見た気がして俺は目覚めた。今目の前に居る猫はゆらゆらと尻尾を揺らし、どこにでもいるありふれたそれに見える。
   だが非凡なる者は牙を隠し、爪を研ぐものだ。恥知らずなまでの媚態でこいつはモクバをたばかり側にいる。性別までも違うこいつを疑う根拠なぞある筈もない、執拗なまでに俺に向ける敵意以外は。だが。
 
   「…とりあえず、今日の事は礼を言う。」
 
  組んだ腕のまま言ってやれば見開く瞳。尻尾が動揺したように揺れる。ゆらり。
 
   「俺がいない間、貴様にモクバを委ねてやる。情を騙るのなら最後までたばかり通せ。毛先程も疑いを感じさせるな。それがこの屋敷に留まる絶対条件だ。」
 
  言い切る俺に猫が浮かべた表情は何もない。けれどどこか小馬鹿にされているような気になるのは、きっと間違いではないだろう。俺を激しく憎んでいたこの存在を赦す事、それが今ベッドに横たわるあいつに捧げる、俺の罰。
 
   「モクバを守れ。」
 
  きゅっと瞳を閉じる。誓いの証に見えた。こいつもモクバを愛している事に違いはないのだ、向けられた情の深さに心揺さぶられて。
 
   逢魔が時、俺は異質の存在と語り合う。今は凛という名の、白い優美な生き物と。
 
 
 
 
 
 
                            
   End.
 
                                         
  2003.8.14. by Kobayashi.
 
 



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 ま、まさかこんな形であの方の初書きをするとは…(汗)
 
  瀬人の語り口って、とても新鮮ですね。あのくそ生意気なかんじが出てますでしょうか。(笑)なんかソフト? 因みにホラーじゃないですよ?(笑)