高気圧の下、ここ海馬邸の庭も鮮やいだ景色を広げている。
夏を物語る入道雲と青空が混じり合う、その一点を見つめてモクバは立ち尽くしていた。
片手に、主をなくしたばかりの空っぽの鳥かごをぶら下げたまま。
(これで、よかったんだよな) 寂しさはあったが、穏やかな心地でモクバは思う。 一時ではあったけれど大切な家族だった。
それでも、相手の幸せを願うならこうする事が正しいのだと。 「・・・元気でな」
「夏場、外に出る時は帽子をかぶれと言っておいたはずだがな」
ベッドに寝かされたモクバの、額に乗せられた濡れタオルを換えながら、不機嫌そうに瀬人が言った。 「――・・・ごめんなさい」
モクバも、まさか自分が熱中症で倒れるとは思ってもみなかったので、素直に非を認めて謝る。新たに乗せられたタオルの冷たさに少しだけ思考が回復したモクバは、今がまだ日中だった事を思い出した。普通なら瀬人は仕事中のはずだ。 「・・・兄サマ、会社は?」
「お前が倒れたと聞いて、仕事などしていられると思うのか?」
・・・確かに。瀬人の事だから取り乱したりはしないだろうが、自分の為にわざわざ帰って来てくれたのか、と思うと不謹慎ながらも嬉しくなった。
「・・・・・・・・・ううん、・・・ごめんね兄サマ」 「・・・分かったのなら良い、これからは気を付けろ」 「うん。」
瀬人は相変わらず不機嫌そうだったが、モクバを心配しての態度だという事が何となく分かる。 「それで、モクバ」 「え?」
「あれは、行ったのか?」
刹那モクバの表情が曇ったが、すぐに穏やかさを取り戻し、笑った。
「うん。案外さ、あっさり行っちゃった」
薄情な奴、と笑いながら、モクバは身をよじって窓の方を見た。瀬人もそれにつられて窓の外に目をやる。
先刻よりも大きくなった入道雲に、のまれて行く青空を見た。
数週間前の事、モクバが小鳥を拾ってきた。
おそらく巣から落ちたのだろう、まだ飛ぶ事も出来ない雛鳥だ。
瀬人は、どうせ長生きしないから、と飼う事を反対したのだが、モクバがどうしても自分で育てると言って聞かないのでしぶしぶ許した。
しかし言い張るだけはあって、それからのモクバの母鳥ぶりは見事なものだった。
餌を与えるのは勿論、飛び方や獲物の捕らえ方と云った教え方に悩むものまで、試行錯誤で教える。一生懸命なモクバと小鳥の姿は、実に微笑ましく映ったものだ。
だから、昨日モクバが小鳥を逃がすと言った時は正直驚いた。 「だって兄サマ、野鳥は飼っちゃいけないんだぜぃ?」
「それくらい分かっている。しかし、お前が気に入っているならそれで構わんだろう」
誰にも文句は言わせん、と付け足した瀬人に苦笑しながら、モクバは少しうつむいた。
「・・・オレ、調べたんだ。そしたらあいつの仲間、夏の終わりには南に渡っちゃうんだって。だから、今行かせてやんないと・・・あいつ一人ぼっちになっちゃうよ」
そう言って顔を上げたモクバの表情は、今までで一番大人びていたように思う。
だから瀬人はそれ以上何も言わなかった。 「何か、雨降りそうだぜぃ・・・あいつ大丈夫かな?」
薄暗くなってきた窓の外を眺めながら、モクバが心配そうにつぶやく。
「・・・そんなに気になるなら、逃がさなければ良かったんじゃないか?」 「それは・・・そうだけど・・・、」
モクバはしばらく考え込んだが、ううん、とかぶりを振って答えた。
「これで、よかったんだ。あいつにとっても、オレにとってもさ」 「お前にとっても?」
瀬人が怪訝そうに聞きかえす。鳥にとって良かった、と言うのは分かる。しかしモクバには結果として何も残らなかったのではないのか。それどころか惜別の情を味わった分、損をした、とすら瀬人には思えた。
「うん、だってオレは・・・いつまでも、あいつの幸せを祈れるんだから」
遠くの空を、おそらく鳥が去った方角を見つめて、モクバは自分に言い聞かせるようにそう言った。 「・・・オレって勝手かな?」 「・・・・・・いや」
瀬人には理解しがたいが、相手の幸せを祈りながら別れを選ぶ。それもまた、愛情なのだろう。
モクバと同じ空を見遣って、瀬人も、そのいさぎよい愛の形に思いを馳せた。 ―・・・それでも。
「オレは、逃がせそうにないな・・・。」 「え?」
ひとり言のように呟いた瀬人に、モクバは、訳が分からないという表情を向けた。それを見て、瀬人は笑みを浮かべる。 「こっちの話だ」
ますます小首をかしげるモクバの向こうで、雨が、窓を叩き始めていた。
たとえ離れる事が互いの幸せだと分かっても
自分には、愛しい小鳥を逃がす事は出来るまい。
そう思いながら、瀬人は自嘲を深くし、モクバの髪を撫でた。
窓の外では、置き忘れられた鳥かごが夏の雨に濡れていた。
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