童実野町を流れる川沿いの土手に、わざわざ車を止めさせて、そこへ降りていったという。
何かを取ろうとして手を伸ばした瞬間、意識を無くしたように、転がり落ちたという。
お前は、こんな所で何をしようとしていたのだ?
モクバが意識不明になって、丸一日が過ぎようとしていた。
暖かい午後の日射しが、病室の温度も優しく上げていく。瀬人も自分の体温が上がって行くのが分かった。だが、握りしめていたモクバの手は、氷のように冷たいままだ。 瀬人はその手に頬をよせた。
自身の熱で、この氷を溶かすことができれば。 「モクバ・・・早く、目覚めてくれ」 涙が頬を伝わり、モクバの手に落ちた。
あたたかい。
瀬人は、不意に温度を感じた。自分の涙の温度なのだろうか・・・・。 いや、違う。
その時、モクバの体に変化が現れた。
額に、うっすらと汗が浮かび、青白かったほほに赤みがさしはじめたのだ。
「モクバ!」 瀬人は、その名を叫んだ。そして。 モクバの目蓋が、ゆっくりと開いた。
「あれ・・・俺・・・ここ、どこ?」 瀬人は、思わずモクバを抱き締めていた。 安堵に、体が崩れ落ちそうになる。
「病院だ。心配させおって・・・大丈夫か」
瀬人はモクバを再びベッドに寝かし付けると、ナ−スコールを押した。
モクバが戸惑いの表情を見せている。仕方のない事だろう。だが、モクバの口から出たものは、瀬人が予想しかねるものだった。
「お前、誰だ?」 「な・・・なにを・・・?」
「お前、誰なんだよ?なんで、俺、こんなとこいるんだ?ねえ、兄サマは?兄サマはどこ?」 「俺が・・・兄だ」
「何いってんだよ。お前が兄サマな訳ないだろっ!変なこと言うな。ねえ、兄サマ、どこいったんだよ?兄サマを呼んでよ。兄サマッ!兄サマーッ!」 瀬人は、微かな体の震えを覚えた。
今日は、モクバの退院の日だった。
はぁっ、と大きなため息をつき、瀬人は片手で顔を拭った。
せっかく目覚めたというのに。
あの日のモクバの取り乱し様を思い出し、瀬人は背筋に冷たい物が走った。
その後の検査で、モクバの記憶が、施設にいた頃以降無くなっている事が分かった。いや正確には、海馬という姓を受け、それに関わることいっさいが、である。目立った外傷もなく、ショックによる一時的なもので、半年くらいで徐々に回復するだろうという事だった。 もちろん、治療は必要だった。 それには、家族の協力が必要不可欠だという。
『現実を認識させるように、配慮して下さい』 医者の言葉が、瀬人の脳裏に浮かんだ。
思い起こさねばならないのか。モクバも・・・・俺も。
瀬人は、モクバの病室のドアの前に立ち、またため息を漏らした。
瀬人自身は、いい。その過去が、たとえ誇れるような日々ではなかったとしても。憎しみと怒り、屈辱と復讐の日々であっても。自分で選び、進んできた道なのだから。 だが、モクバにとっては、どうなのだ。
あの日々をどう思い、どう感じ、今を生きていたのだろうか。兄に引きずられ、あんな小さな体で。
辛くはなかったのか。苦しくはなかったのか。寂しくはなかったのか。
記憶を取り戻す作業は、モクバにとって、苦痛を与えることになるだろう。だが、呼び覚まさなければ、今の瀬人を兄として見ることはないのだ。
瀬人にとって、それは耐えられないことであった。
記憶を呼び起こすことは、瀬人にとっても、想像以上に過酷なものであった。瀬人自身の幼かった頃の記憶は、吐き気を催させ、モクバにしてきた数々の惨い仕打ちを語る時は、腹を裂かれるような思いだった。
だが、瀬人はそこから目を背けず、ありのままをモクバに伝えていった。
モクバの記憶は、切れ切れに回復をはじめていた。しかし、瀬人を兄と呼ぶことは未だになく、態度も他人行儀でよそよそしかった。
テラスで籐椅子に座って、特に頭にも入っていない読書をしていた瀬人は、本を閉じた。 「モクバ、風が冷えてきた。そろそろ中へ入れ」
「うん・・・・」
庭を散歩していたモクバが、瀬人の方へ向かって駆け出してくる。 手に、何かを握っていた。
「なんだ、それは?」
「これね・・・ヨモギの葉っぱ。兄サマとね、取りにいったんだ。施設でね、これでお餅を作ってさ。餅も突いたんだぜ。俺、小さかったからふらふらになったけど、兄サマが一緒に突いてくれたんだ。それから、みんなでお餅丸めて。兄サマ、甘いものだめだったから、兄サマだけあんこ抜き。あれ、美味しかったのかなあ。へへっ、楽しかったなあ」
「そうか」
そんなこともあったかと、瀬人はぼんやりと思っていた。
施設の頃の話を始めるモクバは、いつも穏やかで楽しそうだった。海馬での・・・今の瀬人を思い出そうとする時は、あんなにも辛そうにするのに。それに、いくら昔のこととはいえ、本人を前にしてまるで他人の話をするかのようなモクバに、胸が痛かった。
「これを、取りに降りたんだよ、あの時、確か足が滑って・・・・あれ・・・?」 土手から落ちた、あの日の事だ。
瀬人は、籐椅子から立ち上がった。 あの時、それを取りに降りたというのか? わざわざ、それを。
モクバが頭を押さえた。 「どうした、モクバ?」 「ううん・・・ちょっと。分らない。もう大丈夫」 「・・・・・」
瀬人は、かつてのモクバの記憶に残る『兄サマ』の写真が納められた、カードを象ったペンダントを手に握りしめていた。あの日、治療の為に首から外されていたのだが、それを返す機会は、一ヶ月以上過ぎた今でもなかった。
瀬人はそう思って、自嘲の笑みを漏らした。
機会がなかった訳ではない。自らの意志で返さなかったのだから。
もしこれをモクバが見て、また現在の瀬人を否定したら。
だが、モクバの安らぎはそこにしか無かったのかもしれない。
「『兄サマ』は、優しかったのか?」 「うん。とっても」
瀬人はゆっくりと、ペンダントをモクバの首へかけてやった。
「お前の『兄サマ』が、そこにいる」 「え?これ」 「返したぞ」
モクバは、ペンダントをずっと手にのせたまま、虚ろに眺めるばかりだった。 「どうした?開けてみろ」 「これ・・・・これ!」 モクバの声が、響いた。
「俺が兄サマに上げたやつと一緒だ。兄サマが持ってる」
瀬人は、自分のペンダントを首から外して、モクバに見せた。
「これ・・・俺が、兄サマの首にかけたんだ。兄サマが、俺の所に帰ってくるようにって」 瀬人には、ない記憶だった。
「俺、兄サマの夢を守る為に・・・兄サマは海馬コーポレーションに命をかけてて」 「モ・・・クバ」
「兄サマは、憎しみを消して、夢を思い出して・・・」 モクバが、瀬人の目を見つめた。
「そんでさ、毎日忙しくなって、大変でさ。せめて家では、楽しかったことでも思い出して、リラックスしてほしかったんだ。あれ?仕事?なんだっけ?忙しいって・・・なんで?あれ?」 「もう・・・いい」
「それで、兄サマのために、お餅つくってあげようと思ったんだ。あの時・・・。兄サマ、仕事から久しぶりに帰ってくるって・・・」
瀬人は、両膝をがくりとついた。
「兄サマ・・・よく、分らないんだ。頭のなか、ごちゃごちゃで・・・・」 「もう、いい」
瀬人は、モクバを抱き寄せた。 「兄サマ・・・」 「ゆっくりと、思い出せばいい」 「うん。兄サマ」
モクバも、瀬人を抱き返してきた。その体が、暖かかった。 記憶は、何れ総てが戻ることだろう。
いいことも、悪いことも、喜びも、悲しみも。 過去も現在も。 瀬人のことも。 モクバは、目覚めたのだから。
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