冬が終わり、風に春の気配が混じり始めた日。
瀬人は久方ぶりに弟と夕食を共にすべく、大車輪で仕事を片付けていた。近頃は入社式の準備や決算業務に追われ、モクバとはろくに会話も交わせない日々が続いていたのが、中学に合格したことぐらいは祝ってやりたかったのだ。健気な弟は瀬人の多忙を気づかいお祝いなどいいと言ってくれたが、瀬人としては小学校の卒業式にも中学の入学式にも行ってやれそうにないので、せめてその埋め合わせをしてやりたい、いや、是非させてほしいというのが本音で。
なんとか5時に仕事を終わらせた。いささかやっつけ仕事になってしまったから、明日念のため見直ししたほうがいいなと思いながら、隣室で待っている弟のもとへ急ぐ。 「モクバ、待たせたな」
「あ、兄サマ。お仕事終わったの?」 「ああ。行こうか」 兄の言葉にモクバは急いでフランス語の教材を片付ける。
モクバが進学する中学は一年のときから第二外国語があって、同じ中学で瀬人はドイツ語を選択したのだがどうやら弟はフランス語にするらしい。 「お待たせ」
ヨイショとデイパックを背負った弟を従え、瀬人はエレベータを降り車に乗り込んだ。 「あの店を予約しておいた」
兄の言葉にモクバがうれしそうな笑顔を浮かべる。最近モクバは、家のシェフと傾向の違う創作系フレンチレストランがお気に入りなのだ。そこでゆっくりフルコースを堪能すると、家に帰り着いた時には時計は午後10時を回っていた。
「兄サマ、今日はありがと」
モクバがとても嬉しそうな笑顔で言ってくれたので、瀬人の心は幸福感で一杯になる。
今日は兄サマも疲れたでしょ、オヤスミナサイ、と言って早々に部屋へ向かう弟の後姿に、明日も多忙であろう兄への気遣いが見える。瀬人は、あの小さかった弟が成長したものだと感慨を噛みしめながら自室へ向かった。
部屋に戻るとまず窓を開けた。今日は夜になってもあまり気温が下がらず、窓から入ってくる風は瀬人の意識を更なる安寧へと誘う。そのまま風呂に入りぬるめの湯で疲れを洗い流すと、風呂上りの体にバスローブを羽織りミネラルウォーターを補給する。窓から入ってくる風は相変わらず穏やかで。 ・・・久しぶりに、聴くか。
時刻は11時をとうに過ぎていて、中庭越しに見るともなく見やったモクバの部屋はとっくに照明が消えて真っ暗だ。オーディオセットの電源を入れると、室内に静かなメロディが流れ始めた。 おいで、娘たちよ
ともに嘆こう 御覧、娘たちよ まるで子羊のような彼の姿を
汗が引いたのでパジャマに着替えナイトガウンを羽織った瀬人は、ソファに身を沈めて眼を閉じる。
遠い日に何度も耳にしたこの曲を好んでいたのが父なのか母なのかまでは憶えていない。だがいつしか瀬人は両親の思い出に繋がるこの曲を、モクバに隠れるようにして聴くようになっていた。別にモクバに隠すことではないのだが、瀬人自身にもわからない何かがこの曲をおおっぴらに聴くことを妨げていた。だから、瀬人がこの曲をかけるのはいつもモクバが寝たあとで。
教会付属の少年合唱団が紡ぐ悲しい物語を、小一時間も聴いていただろうか。そろそろ寝ようと立ち上がった瀬人の眼が、何かを捉えた。
風で開いたカーテンの間から見えるモクバの部屋。そのテラスに何かが・・・。
「!?」
パジャマ姿の弟が、テラスに立ってこちらを見ていた。驚きのあまり瀬人もテラスに走り出る。中庭で隔てられているのではっきりとは見えないが、立ち尽くす弟の表情はどこか虚ろで、瀬人の姿を認めているはずなのに何の反応も示さない。魂の抜けた人形のようなその様子に、以前ペガサス城で見た弟の姿が重なる。
次の瞬間、瀬人は自室を飛び出しモクバの部屋へと向かっていた。
ノックもせずにドアを開けた瀬人の眼に、依然テラスに佇む弟の後姿が飛び込んでくる。
「モクバ!」
呼びかけても身じろぎひとつしない弟に駆け寄り、肩を掴んで振り向かせた。 「どうし・・」 言葉は途中で途切れた。
弟の頬を、涙が濡らしていた。
・・・なぜ泣いている。今日はあんなに幸せそうだったではないか。何かあったのか。悪い夢でも見たのか。
瀬人の頭の中を、さまざまな思念が駆け巡る。しゃがみこんで目線を合わせると、弟はぼんやりとした視線で兄を見た。普段なら有り得ないその視線に、不安感がピークに達したその時。瀬人の耳に憶えのあるメロディが聴こえた。
「・・・!?」
それが自分の部屋から聴こえてくることに気付いた瀬人は、己の迂闊さを呪った。どうして窓を開けたままで聴いていたのか。たいした音量ではなかったが、モクバはこの曲に気付いたのだ。そして・・・。
(記憶を・・呼び覚ましてしまったかもしれない) 昔を。両親の記憶を。
(モクバがこの曲を憶えている可能性はゼロではなかったろう? なのにどうしてこんなリスキーなことをした?)
相変わらず無言のまま涙を流しつづけている弟をそっと抱きしめ、小声で問う。
「モクバ、お前・・・この曲を憶えていたのか?」
びくりとモクバの体が震えた。瀬人の疑念は確信に変わり、同時に罪悪感がこみ上げてくる。
「すまなかった。お前を傷つけるつもりじゃなかったんだが・・・」
兄の言葉に、モクバはぼんやりと答える。 「・・別に、傷ついてなんかいないよ・・」
「ではなぜ泣いている? 悲しいからではないのか?」 「・・どうしてオレが悲しんだりするの?」
だから、あの曲を聴いて。両親を思い出して。
2人の間に沈黙が流れる。しばらくそのまま兄に抱きしめられていたモクバだが、やがて小声で兄に問いかけた。 「この曲、昔、よく聴いたよね」 「・・ああ」
「父サマが好きだったのかな、母サマかな」 「それはオレも憶えていないが・・・」 「そう・・」
「すまない、モクバ。もう二度とこの曲はかけないから」
その言葉にやっと兄の顔を正視したモクバは、自分の涙を拭ってくれる兄の苦しげな表情に気付く。ようやく思考が回転し始めると同時に、胸にチクリと痛みが走った。 「・・・違うよ、兄サマ」
何が違うんだと目線で問うてくる兄に、モクバはひとことずつ言葉を選びながら語りかけた。
「兄サマは、この曲を聴くと悲しくなる? 父サマと母サ マのことを思い出して辛くなる?」 「・・・いや。そんなことは、ない」
「オレもだよ。泣いてたのは悲しいからじゃなくて、なんか懐かしいなって思ったらいつの間にか泣いてたんだ。」
「・・・よくわからんぞ」
兄の答えに小さな笑い声を漏らしたモクバは、でもホントなんだ、と付け足して。
「ねぇ兄サマ。・・・この曲、好き?」 弟の問いに瀬人は一瞬ためらった後。 「・・・あぁ」
それでもはっきりと頷いた。その答えにモクバは一度ぎゅっと唇を噛みしめると、真正面から兄の瞳を見つめて。
「だったら、2度と聴かないなんて言っちゃダメだよ」
思いもかけない弟の言葉に、瀬人は驚きのあまり固まってしまった。そんな兄の様子にモクバは微苦笑を禁じえない。
「ねぇ兄サマ。オレは父サマのことも母サマのことほとんど憶えていないけど、兄サマに訊ねたこともないよね」 「あ・・ああ」
そうだ。思い起こせば、モクバが両親のことを訊ねてきたことは今まで一度もなかったような気がする。
「オレは兄サマがいてくれればそれでいいから、これから先も訊かない。でもね、兄サマは父サマや母サマのことを忘れちゃダメだよ」 「・・・なぜだ?」
「だって、2人とも兄サマのことを愛してくれたでしょう?」 「・・・・」 「あなたは愛された子供だったんだよ」
「・・・・」 「そのことは忘れちゃダメだよ」 「・・・・」
兄サマ、なんて顔してるの。ありがとうね。多分あなたは両親の記憶を持たないオレを無意識のうちに気遣って、自分も忘れたふりを装っていたんだ。でもオレはあなたに、両親から愛された記憶を忘れて欲しくない。自分は愛された存在だったということを、忘れないで欲しいんだ。 「・・・兄サマ?」
ぼんやりと自分を見つめる兄の瞳を間近に覗き込むと 「・・・見るな・・!」 兄は顔を隠すように自分を抱き締めた。
・・・モクバよ。オレは両親のことを憶えていてもいいのか? お前が覚えていない両親のことを、オレは憶えていてもいいのか?
お前に隠れるようにしてこの曲を聴いていた理由がいまわかった。お前には過去を忘れろと言ってきながら、その実自分は両親のことを忘れずにいることに、オレは後ろめたさを感じていたんだ。聡いお前のことだから、そんなオレの心に気付いたはず。なのにお前はオレを責めるどころか・・。
「モクバ。あまりオレを甘やかすな。オレはすぐに図に乗る性質なんだぞ」
そう言うと、弟の唇からくふふと忍び笑いがこぼれた。そして。
「オレ、早く大人になるから。そして、もっともっとあなたを甘やかして、オレがあなたをどれほど愛しているかわからせてあげる」
甘い声で囁かれ、ぞくりと体の芯が震えた。・・・モクバ、お前、いつの間にそんなに大人になった?
「好きだよ、兄サマ。愛してる」
・・・ああ、知っているよモクバ。自分でも信じられないが、オレはお前に愛されていることだけは、今までただの一度も疑ったことはないんだ。
心の中でそう呟きながらさらに強くモクバを抱きしめた瀬人の耳に、再びあのメロディが聴こえた。今日までは死者を悼む曲だと思っていたのに、今はまるで天からの、両親からの祝福のように聴こえるから不思議だ。
・・・父サマ、母サマ。オレにモクバを残してくれて有り難う。オレはこれからもずっとモクバと一緒に生きてゆきます。この愛しい存在と一緒に・・・。
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