今日、兄サマとケンカした。
オレからは謝らないつもりで、部屋の戸を堅く閉じた。 悪いのは全部、兄サマなんだから。
今日は学校が終わってから、遊戯んちに入った新しいゲームを見に行った。
城之内や本田も来てて、みんなで騒いでたら、あっという間に6時を回ってて。6時までに帰って来いっていう兄サマの言いつけ通り、帰ろうとしたんだけど…
『もうちょっといいじゃん。どうせ車で迎えが来るんだろ?渋滞に巻き込まれたとかなんとか言ってよー』
『そうそう。どうせ海馬は、遅くにしか帰ってこないんだろ?あいつが戻る前に家にいれば大丈夫だって』
城之内たちにそう言われて、じゃあ6時半までいようって決めたんだ。
でもそういう日に限って、予定通りにはいかないもので。
ゲームが終わって急いで戻った海馬邸には、兄サマがいつも乗ってるヘリが、しっかり停まってた。
食堂に全力で駆け込んだけど、そこには不機嫌な顔をした兄サマがいて。
「モクバ、どこに行っていた。……6時までに戻っているよう、言っておいたはずだが?」
あの鋭い目に睨まれた瞬間、頭の中がカラッポになった。
「遅くなってごめんなさい。……遊戯んちに……ゲーム見に行ってたんだ」 いろいろ考えてた言い訳も、綺麗さっぱり消えていて。 オレは正直に、遅くなった理由を話すしかなかった。
「ゲームだと?そんなもの、オレに言えばよかろう。新しいゲームの一つや二つ、発売前にいくらでも手に入ろうものを」
「それは……そうだけど」
海馬コーポレーションは元は軍事産業だったけど、今はアミューズメント産業の筆頭だ。そういう会社にコネもあるだろうし、何より兄サマが大のゲーム好きだから、頼めばなんとかなるのはわかってた。
でもオレが遊戯んちに行ったのは、それだけが目的だったわけじゃない。
「……一人でやっても……つまんないゲームだったから」 「なに?」
「………だって………人生ゲームの半バーチャル版みたいなものなんだよ?一人じゃつまらないよ」 前髪に隠れてる兄サマの眉が、微かにだけど動いた。
「……兄サマ、最近帰りが遅いから頼めないと思ったし。それに…オレが先に研究すれば、今度のデュエルディスク改良で、何かの役に立つかもって思ったんだ」
オレの言うことを黙ってきいていた兄サマが、冷ややかに笑った。
「他社のくだらんシステムなど、研究する必要はない。それに…無用な付き合いは避けるよう、言っておいたはずだ。忘れたか?」
「覚えてる……ぜぃ」 「ならば、金輪際遊戯のところには行くな。いいな?」 「…………はい」
兄サマはオレが遊戯たちと付き合うのを嫌がる。自分はもう一人の遊戯に、時間さえあればデュエルを挑むのに。……こういうこと言う兄サマは、ちょっとだけ嫌いだ。
「今度からお前の帰宅時間には、細心の注意を払うこととしよう。オレのいない間に、妙な遊び癖がついては困るのでな」
「……オレ……いつもはちゃんと、6時までに帰ってるよ?」
「フン…どうだかな」
兄サマの言葉に、なんとなくトゲを感じてカチンときた。
折角早く仕事から帰ってこれた日に、出迎えられなかったオレが悪いのはわかってるけど。 ………オレのこと、信じてくれてないんだ。
それに妙な癖って……オレ、そんな言われ方されるような、変な遊びしてない。兄サマに恥をかかせるようなこと、絶対してないのに。
「……なんだ?その顔は。なにか言いたいことがあるのか?」 オレが反抗することなんか、全然想像してないような。
傲慢な笑みを浮かべる兄サマに、はっきり言ってやった。 「兄サマなんか大っ嫌い!!!」
食堂を飛び出して、自分の部屋に閉じこもった。
ベッドに倒れ込んで天蓋を睨んでたら、メイド長が来て扉を叩いた。 「モクバ様。ご夕食は、こちらにお持ちしましょうか?」
そういえば何も食べてなかったっけ。言われて急にお腹がすいてたのを思い出したけど……なんとなくここで食べたら負けな気がして、何も答えなかった。
「……瀬人様はモクバ様のことを、本当に心配しておられるのですよ」
そんなの、言われなくてもわかってる。兄サマがああいう言い方しかできない人なのは、オレが一番わかってる。 でも、今日は簡単に引きたくなかった。
帰りが遅い兄サマを、屋敷で一人待つのは慣れてる。
少しでも兄サマの役に立ちたいから、勉強するのも嫌じゃない。
でもたまには……いい子じゃない自分を曝け出したい時だってある。
遊戯や城之内は、オレをオレとして扱ってくれる。海馬コーポレーションの副社長とか、海馬瀬人の弟とか、カプモンチャンプとか。そういう肩書きナシで、オレを見てくれる。
オレのこと信じてくれないのは悲しいけど、同時に遊戯たちのことも否定されるのは、もっと悲しかった。 だから。
オレからは謝らない。悪かったって兄サマが認めるまで、一歩も外に出てやらないぜぃ。
「……何かありましたら、すぐにお呼びくださいね」
何も言わないオレに、メイド長も諦めたらしい。扉の向こうの足音が遠ざかっていった。
いつもはオレから謝るから、1日ももたないんだけど。……あの兄サマと根気比べになるんだ。今回は長期戦になるかもしれない。 「……でも……悪いのは兄サマだ」
兄サマがもっと、オレのことを信じてくれたらいいのに。 もっと、みんなと仲良くなってくれたらいいのに。
昔、施設にいた頃みたいに。みんなでゲームとかしてくれたらいいのに。 「………そうだ。遊戯から、カード貰ったんだっけ」
ゲームで思い出した。帰る前、遊戯が何枚かカードをくれたんだ。
オレはあまりカードに興味ないけど、兄サマにどうかって。
兄サマはたぶん、自力で集めてる気もするけど……もしかしたら、おじいさんのツテとかで手に入れたレアカードなのかもしれない。 「…………兄サマになんか、見せてやるもんか」 揺らいだ決心を、急いで立て直す。
そうだ。兄サマが謝るまで、出ていってなんかやらないんだ。
「………何を、お望みですか」
耳元で聞こえた声に、思わず飛び起きた。 「誰だっ」
扉の鍵はちゃんとかけた。合鍵を持ってるのは兄サマと、一部のSPしかいないはずだ。 今の声は、その誰のものでもなかった。
残った出入り口は窓しかない……そんなとこから来るのは、怪しいヤツ以外の何者でもないってことだ。
なのに、部屋は真っ暗で何も見えなかった。電気はついてない。…あれ?オレ、電気消してたっけ? 「おっと……これは失礼」
いきなりパッと、天井からライトがさしたみたいに、一箇所だけ明るくなった。
その淡い光の中にいるのは、どこかのサーカスで玉乗りでもしてそうな、ピエロの格好をしたヤツだった。顔は仮面で覆われててよくわからない。その仮面は、右が白で左が黒。両方とも笑顔なのに、なんでか右の白は楽しそうに、左の黒は寂しそうに……すごくアンバランスな感じで笑ってる。 こんな格好、どう考えたって普通じゃない。
「お前何者だっ。兄サマの命を狙ってきたのか!?」 「……まさか。そんな物騒なことは致しませんよ」
喉の奥で笑ってるような、くぐもった笑い声に、鳥肌が立った。
早く、SPを呼ばなきゃ。こいつ、何するか全然わからなくて不気味だ。
ピエロを睨んだまま、枕元のスイッチに手を伸ばした。…はずなのに、手が動かない。まるで金縛りにあったみたいに、ベッドに起き上がった姿勢のまま、動けなくなっていた。
「……私は望みを叶える者。アナタのお望みは、何ですか?」 微かに首を傾げて。穏やかな声で、ピエロが訊ねる。
こんなヤツの言うことなんて信じられないのに。口が勝手に、開いていた。 「………兄サマが………」 「お兄様が」 「…………昔みたいに……」 「昔のように」
「……………みんなやオレに……」 「アナタに」 「優しく、笑ってくれたら……いいのに」
オレの言葉を、ピエロが繰り返し唱える。 池に石が投げ込まれたように。 心の表面に、いくつも波紋が広がっては消えていく。
そんなイメージが体中に広がっていって。 「………アナタのお望み、叶えてさしあげましょう」
思わず目を閉じた時、あの穏やかな声がした。 閉じた瞼の裏に、強い光を感じてぎゅっと目を瞑った。
「………クバ。モクバ」 肩を揺すられて、ハッと目を見開いた。
兄サマの青い瞳が、じっとオレを見下ろしてる。 「……兄…サマ……?」
よくわからないけど、兄サマはホッとしたような顔で、オレの前髪を梳いた。 「……兄サマ……オレ…?」 「…無理に起き上がらなくていい」
体を起こそうとしたオレを、兄サマがベッドに押し戻す。
なんで兄サマがここにいるんだろう?オレ、部屋に閉じこもってたはずなのに? 「……気分はどうだ?」 「……なんともないよ?」
「なにか欲しいものはあるか?すぐに持ってこさせよう」 「………今はないけど………兄サマ、どうして?」
「……お前の部屋からSPコールがあったのだ。駆けつけてみれば、お前はベッドで倒れ、窓が開けっ放しになっていた。……何かあったと思わない方がおかしいだろう」 「……そう…なんだ」
なんだ。オレ、ちゃんとコールボタン押せてたんだ。SPが駆けつけたから、あのピエロは窓から逃げるしかなくて。去り際に目晦ましみたいなもの使ってったから、オレ、たぶん気絶したんだと思う。ヤツを逃がしたのは悔しいけど、でも。 「……よかった、兄サマ無事で」
ふっと呟いたら、兄サマの目がカッと開いた。やばい、怒られる!……かと思ったら、いきなり力いっぱい抱きしめられた。……あれ?怒られるんじゃ……ないの?
「オレの心配などする奴があるか。……もう少し自分の身を案じろ」
「……に、兄サマ……?」
「………倒れているお前を見た時………生きた心地がしなかった」 「…へ?」
『お前に心配されるほどヤワではない』とか。 『あの程度の雑魚も捕まえられんのか』とか。 兄サマ、絶対怒ってると思ってたのに。
こんな優しい声、しばらく聞いたことなかった。
オレのこと、心配してくれてるのはわかってたけど。こんな風にストレートに言ってくれること、今までなかったから。 「……ごめん、兄サマ」
心にあった硬い氷みたいなものが、すっと融けていく。
兄サマから来てくれたし。いつになく素直だし。つまらない意地張るの、もうやめた。 目を閉じて、オレは兄サマの肩にもたれかかった。
今日は早めに休めって兄サマに言われて、ベッドまで持ってきてもらったご飯を食べた後、9時すぎには眠った。
オレの部屋の前にSPを二人待機させたり、オレが眠るまで側にいてくれたり。兄サマが優しくて、なんだか怖いぐらいだった。
『兄サマが、優しく笑ってくれたら』
………あの変なピエロに、そんなことを言った気がする。
オレの望みを叶えるって言ってた。
あんなおかしな仮面の言うことなんか、信じたわけじゃないけど。
仲直りのきっかけになったんだから、いいや。
兄サマが手を握ってくれていたせいか、目を閉じたらあっという間に眠ってた。
次の日は天気のいい日曜だった。
兄サマは今日は家で仕事らしい。お昼を一緒に食べて、その後に散歩にでもでかけたいなぁ……なんて考えてたら、携帯電話が鳴った。 『モクバ、今日も遊戯んちに来ねぇか?』
城之内だ。日曜の朝から電話が来るのは珍しいけど、今日はバイト休みなのかな?
「ああ……えっと。兄サマが、もう遊戯んちに行くなっていうんだ」 『なにぃ?そんなのムシすりゃいいじゃん』
「……オレの部屋、今はSPが24時間体制で警備してるから、抜け出せないよ」 『なんで』
賊が入ったからだ、なんて言えない。うちのセキュリティを疑われるようなことは、漏らしちゃいけないんだ。
『…城之内くん、無理に誘ったりしたらダメだよ』
電話の向こうから、遊戯の声が聞こえる。もう遊戯んちにいるんだ。本田や杏子も来てるのかな。……昨日のあのゲーム、結構面白かったけど……今日は兄サマと過ごせる大切な休みでもあるし…… 「……ごめん。やっぱり今日は……」
未練はあるけど断ろうとしたら、携帯電話を横から取られた。 「…!兄サマ」 「ヒマ人どもめ。今日も例のゲームをやるつもりなのか」
よりによって兄サマに、この電話を聞かれるなんて。早く携帯を取り返したいけど、兄サマの顔の高さには、どうジャンプしても届かない。 『海馬?!なんで今日に限ってお前がいんだよ?』 「フン。ここはオレの屋敷だ。オレがいて何が可笑しい」
『っくしょー……朝からお前の声聞くなんて、ツイてないにもほどがあるぜ』 「その言葉、そっくりそのまま貴様に返してやる」
城之内の声が大きいおかげで、二人の会話がかろうじて聞こえる。
いっそ城之内が電話切ってくれた方がいいかも……また始まりそうな口論に、オレがウンザリしてたら。 「ところで、先程の件だが」
兄サマがいきなり話を戻しちゃうから、オレはさらに焦った。
モクバを誑かすのはやめろとか、お願いそんなこと言わないで兄サマっ。
「そのゲームには人手がいるのだろう。貴様らが頼むのであれば、手を貸してやらんでもない」 …………え??
その言葉を聞いた瞬間、オレと、たぶん電話の向こうの城之内・遊戯が凍りついた。
だって……オレが出かけるのにあれだけ駄目出しする兄サマが、よりによって自分も行くなんて……な、何があったの兄サマ??
『……………じゃ、じゃあ、二人で来てくれるかな?』
オレ達の中で一番重症なのか、黙ってしまった城之内に代わって、遊戯が訊ねてきた。 「よかろう。これからモクバと二人で出向いてやる」
『…あの……ヘリとかジェット機では来ないでね?近所の噂になるから』
「…案ずるな。庶民の家にヘリポートがないことなど、熟知しておるわ」
……熟知するくらい遊戯んちに押しかけてるんだね、兄サマ……もう一人の遊戯が気の毒に思えてきた。
でも、昨日あんなことがあったばかりだ。オレを一人にしないための、兄サマの配慮なのかもしれない。
「昼食を済ませ次第、出かけるぞ、モクバ」
オレに携帯を返して、兄サマは颯爽と部屋を出ていった。 「……うんっ」
兄サマの後を追って、オレも食堂に向かう。 ゲームもできて、兄サマとも一緒にいれて。
いい休日になりそうで、思わず軽くスキップした。 昼過ぎに遊戯んちに行ったら、もうみんな集まってた。
なんでここに海馬が…?って空気も、兄サマは全然気にしていないみたいで、遊戯の部屋のベッドに腰掛けて足を組んでる。今日はコートもない普通の格好のはずなのに、兄サマだけこの部屋で浮いてるのは……しょうがないか。
「みんな揃ったことだし。そろそろ始めようか」
新聞紙を広げたぐらいの大きさのボードが、輪に座ったみんなの中心に置かれる。ジャンケンで順番を決めて(兄サマがジャンケンしてるとこ、すごく久しぶりに見た…)、あとはルーレットを回すだけだ。順番は遊戯、本田、兄サマ、杏子、城之内、オレになった。 「じゃあボクからいくね」
遊戯がルーレットを回す。出た目は3で、3コマ進めた先に書いてあるイベントは『道端に落ちていたカードを拾う。ブラックマジシャンのカードだ!』。遊戯の黄色いコマがそのマスに入ると、カードのホログラフが浮きあがり、それがくるりと回転するとブラックマジシャンが出てきた。 「やった〜、ブラックマジシャンだ!」
ホログラフは紙コップぐらいの大きさで、杖を振ってポーズを決める。このゲームはより多くのモンスターを仲間にして、障害を乗り越えながらゴール=デュエル王をめざすってルールだ。同じコマに入ったらデュエル開始で、勝てば相手からモンスターを一体貰うことができる。モンスターのデフォルメはうちのシステムに比べたら粗いけど、コマ毎のイベントとかデュエルが面白いから、ついハマっちゃうんだ。
「…それがブラックマジシャンか。フン、くだらん。子供騙しもいいところだ」
最初はつまらなさそうな顔をしてた兄サマも、段々目が真剣になってきて、
「……このルーレットに、オレの全てをかける…!」
なんて叫びながらルーレットを回すもんだから、笑いを堪えるのに必死だった。
そのうちみんなも白熱してきて、いい感じだったんだけど。
「海馬くんってもっと怖い人かと思ってたけど、結構楽しい人なんだね」
兄サマが会社からの電話で席を外した時、杏子がそう言いだした。
「意外と面倒見いいっていうか、優しいっていうか」 「そりゃモクバ限定だろうが」
「そうだけど。でもさっきカードに届かない時、さりげなく寄せてくれたよ?」 「……そういやオレも、ジュース取ってもらったかな」
「…………今日もモクバの付き添いとはいえ、ここに来てんだもんな。……あいつ、割とイイ奴なのかも」
杏子につられて、本田や城之内も頷く。
「今日の海馬くん、なんか表情が優しいよね。ゲームもすごく楽しんでるみたいだし。これからは海馬くんも誘おうか?」 「…そうだな。そしたらモクバも来やすいもんな」 「賛成ー」
みんなで兄サマを褒めてくれる。
口下手だけど、兄サマのさりげない優しさが、みんなに伝わってきたんだ。
それはオレにとってすごく、嬉しいことのはず……なんだけど。 ………なんだろう。なんだか、胸がモヤモヤする。
もっと、みんなと仲良くなってくれたらいいのに。
昔、施設にいた頃みたいに。みんなでゲームとかしてくれたらいいのに。 みんなオレが望んだこと。 あのピエロみたいな奴に、願ったことのはずなのに。
「……兄サマ」 戻ってきた兄サマに、みんなの視線が集中する。 「海馬くん。なにか用事が入ったの?」
「大した用件ではない。ゲームを続けるぞ」 「そっか、よかったぁ」
「貴様に勝ち逃げされたままでは、腹の虫が収まらんのでな」 「望むところだって、もう一人のボクも言ってるよ」 遊戯が微笑むと、それに兄サマも応えて笑う。
オレにしか見せないような穏やかな微笑みが、兄サマから自然に零れる。
輪の中にいる兄サマからは、いつものピリピリした空気は感じられなくて。 かける言葉一つ一つが、なんとなく優しい響きで。 …………それってなんか………なんかヤだ。
矛盾してるの、自分でもわかるんだけど。 そんな誰にでも愛想のいい兄サマなんて。 なんか………嫌なんだ。
兄サマの笑顔は、オレだけに向けられていてほしい。 兄サマの優しさは、オレだけが知っていたい。
もし、あのピエロにもう一度会えるなら言いたい。 『こんなの、オレが本当に望んだ世界じゃない』
もし、あの夜に戻れるなら。 もし、あの時に戻れるなら。 もし………
重い瞼を開いたら、いつもの部屋の光景だった。
ゆっくり体を起こすと、手に持っていたカードがバラバラとベッドに散らばった。
………なんで自分のベッドに寝てるんだろう。 オレ、さっきまで遊戯の部屋にいたはずなのに。 ゲームは?みんなは?
兄サマは?
何があったか思い出そうとした時、散らばったカードが目に入った。
これ……あの日、遊戯に貰ったカードだ。 なんでカードなんか持ったまま寝てたんだろう?
カードを一枚取ると、そこには『夢魔の誘い』という文字と、白黒に分かれた仮面をしたピエロの絵があった。 ………このピエロって。
そうだ、このピエロみたいな格好した奴に確かオレ…… ボンッ。
思い出しかけた途端、小さく弾けるような音と煙をたてて。 カードが手の中から消えた。 まるで鮮やかな手品みたいだ。
そう、思った時にはもう。 オレは何も思い出せなくなっていて。 残ったのは、空腹感と。
よくわからない、兄サマに対する罪悪感みたいな感情だけ。 「……兄サマ」
ベッドを降りて、扉に駆け出した。
自分からは絶対謝らないつもりだったのに、どうしてか兄サマの顔が見たくてしかたなかった。
重厚な扉を開けて、一歩外に踏み出す。 と、軽い衝撃と共にオレの体は何かに押し戻された。 「……あいた……」
鼻を擦って、ぶつかった物を見る。
目の前にあったのは黒いシャツだった。それから視線を上げていくと、やがて不機嫌そうな顔にいきついた。 「………兄サマ」
急すぎて何も言えないまま見上げていると、兄サマはふいと顔を背けた。 「……さっきの……件だが」 「……うん」 「………お前も……来年は中学生だ」 「……うん」
「…………自分の行動について、責任をもてる年齢になるのだから」 「……うん」
「………もう少し……お前の自主性を尊重すべきかと…考え直したのだが」 ちらりと兄サマの目が、オレに向けられる。
きまりが悪そうな、ちょっと様子を探るような目が、なんかかわいくて。 兄サマには悪いけど、吹き出してしまった。
「……なにが可笑しいのだ、モクバ」 「……なんでもないよ」 睨んでくる兄サマに、首を振る。
オレが悪かったとか。心配だったとか。そんな言葉はまず出てこない。 それでも、オレのこと放ってはおかない。
不器用な優しさで、オレのこと見守っててくれる。 オレの兄サマは、こういう人なんだ。
「…ごめんね、兄サマ」
さっきの『大嫌い』と。……思い出せないけど、もう一つの何かとに向けて。自分でも驚くほど素直に、兄サマに謝ってた。 「………わかっているならいい」 「うん」 「…だが……門限6時は変わらんぞ」
「うん。今度からは、ちゃんと時計してくぜぃ」 笑ってたら、思い出したようにお腹が鳴った。
「………そういえば、何も食べてなかったんだ」 「つまらん意地を張るからだ。……食堂に行くぞ」 「うんっ」
先に歩き出した兄サマを、小走りで追いかける。 昔みたいな笑顔じゃないけど。
謝った時にちらっと見えた、ささやかな笑顔はオレだけのもの。
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