額の汗をぬぐいながら、なれない道を歩く。
白く乾いた道。真昼の光線に、砂埃さえも蜃気楼にゆがんだ。
「こっちであってたかなぁ、」
モクバは、見渡す限り田んぼしかない田舎道に不安になり、呟いた。
目印になるようなものは、何も無い。ただ、幼い頃の記憶だけを頼りに、兄にも護衛の者にも告げずに、電車やらバスやらに揺られてこの田舎までやってきたのだ。
「でも…地名は合ってるんだし…こっちにしか道は無いし…、」
周りには誰も、通行人も、農作業をしている人さえいない。太陽が頂点から少し傾き、一番暑い時間帯だった。
「…何か覚えてたらよかったんだけど。」
ふとした思い付き、ではなかった。ずっと、ずっと其処へ行かなければならないと思っていた。
海馬の家に入ってから、自分の自由に過ごす時間を与えられないままに、6年が過ぎた。その間も、モクバはずっと忘れず、その場所へ行く機会を計っていたのだ。
「もしかして場所間違えてんのかなぁ…。」
田んぼを行き過ぎ、小さな山、というか森というか、とにかく木の沢山生えている所まで来てしまい、モクバはため息をついた。
蝉の声が、まるでこの世で唯一の音のように辺りに染み渡っている。
それを聞きながら、モクバは木陰に入り、葉を旺盛に茂らせた大木に身を寄せた。
と、急に喉が渇いたように思い、リュックに入れていたペットボトルの果汁を飲んだ。何だか生ぬるくて、纏わりつくようだ。
(甘くないのにすればよかったな、)
此れまでからの思考と逸れたことを思っている時に、ふと、たった今通ってきた道端に、何か赤いものを見た。 通ってきた道なのに、あんな赤い色を見逃すなんて。 「何だろ、」
緑と白と、空の青しかないこの田園風景におよそ似つかわしくない、鮮烈な赤。 ふらふらと、モクバはその色のある方へ近づいた。
「…花、」
奇妙な形をした、恐らく植物であろうそれは、モクバには見慣れぬものであった。
茎と、花蕊とが、辛うじてモクバに此れを花だと断じさせた。 「何か気持ち悪い花だな…。」
捲れあがった花弁と、何かを追い求めるように長く伸びた花蕊、それに、この赤さ。 モクバは、胸を捉まれるような焦燥感にとらわれた。
押しつぶされる。
吐気のするような感覚の中で、まるで泥に手を突っ込んで無理やり何か重いものを引きずり出すように、ある記憶が甦った。 「あ、この花…、」
モクバは、おぼろげに現れたその記憶にはっとなり、先ほど小休止を取っていた木々の群れに向かって歩き始めた。
来た道に対して垂直に通る田んぼ道を、赤い花が咲いていた所から森に沿って、歩く。 モクバの記憶の中では、そう遠くはないと思っていたのだ
が、もう、花のあったところからかなり遠ざかっている。
いや、遠ざかっていると彼が思い込んでいるだけで、実際にはまだそこまで離れてはいなかった。焦る気持ちと、自分の幼い足取りとがかみ合っていない。 (この道で合ってる。)
先ほどから歩きどおしで疲れているはずだったが、足が勝手に動いた。 (もう少しだ…。)
駆り立てられるように、歩調が早くなる。 (もう少し…。)
焦りながらひたすら前のみを向いて歩くモクバには、蝉の声も、何も聞こえていなかった。
無論、後ろから、馴染みの黒い車が近づいてきていた音も。
モクバのすぐそばに止まるまで、まるで彼はその車に気がつかなかった。 「…モクバ、」
背の高い男が車から出てきて、モクバから見て逆行になるように、モクバを見下ろした。瀬人だ。 「………。」
瀬人は、黙して動かない弟をしばらく見据えていたが、何かを決心したように 「駅で待機していろ。」
と、車を遠ざけさせた。短く返事をした運転手は、早々に車を駅の方へと走らせた。
あからさまにこの風景に似つかわしくない黒の車が、土煙を上げながら遠ざかっていく。 「何のつもりだ、」
砂塵の治まった後もぼんやりと車の行った方を見ているモクバに、あまり会話に間を空けるのを好きでない瀬人は、こちらを見ないのを構わず、問うた。 「どうしてここにいるって分かったの、」
陰影の無い目で瀬人を見上げ、逆にモクバは訊き返す。質問を質問で返すことをこの兄が嫌うことを、モクバは知っていた。しかし、モクバは、兄に此処へ来たことを知られたくはなかったのだ。「何のつもりだ、」の問いに答えることは、できない。
瀬人は、モクバの想像通り眉を顰めたが、別段怒りもしなかった。彼なりに、モクバの考えていることを汲もうとしている。
モクバはそれ以上何も言わずに、踵を返して目的地に再び向かおうとした。 「道は覚えているのか、」 瀬人が後ろをついてくる。 (ついてこないで!!)
そう叫びたかったが、しなかった。
(やっぱり、オレは、兄サマと一緒にここへ来たかったんだろうか、)
瀬人は、何も言わずにモクバの後について、歩調さえ合わせて歩いている。モクバは、泣きたくなった。 「モクバ…ここだ。」
モクバは、涙が滲んで霞む目を、上げた。 赤。 色彩の無いその風景に冴え冴えと染む、花の赤。
モクバの幼い頃の記憶を甦らせたその赤い花に囲まれて、 二人の母親の墓はあった。
其処で何をしたのかは、モクバははっきりと覚えていない。 父親と自分と兄との三人で此処へ来たことと、混乱して、
ただ、その赤い花が恨めしくて、兄に泣きついてしまった。 「お母さんを取ってしまってごめんね…、」
瀬人は、何も言わずに左手でモクバの頭を包むと、体の向きを変えて、帰ることを促した。
「兄サマ、あの赤い花、何ていうの、」 モクバが通ってきた道を、二人は歩く。 「彼岸花だ。」
左手を弟に添えたまま、瀬人はゆっくり、ゆっくりと歩いた。 「ひがんばな、」
傾き始めた日差しは、モクバの涙にぬれた頬を照らす。 蝉の声より他には何も無い。
真夏の生ぬるい風に吹かれて、早く咲きすぎた彼岸花が、手を振るように道端に揺れていた。
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