お題(はてしない物語)
モモ様



『はてしない物語』





 その夜,瀬人が就寝しようと寝室のドアノブに手をかけたのは,珍しく日付が変わる前だった。
 明日は早朝からモクバを伴い米国へ飛ぶ。
 その為,モクバを早く帰宅させて先に休むよう言いつけた,はずだった。
 それが,寝室のドアを開けた途端瀬人の目に飛び込んできたのは,ベッドに腰掛けて己を出迎えたモクバの姿。
「お帰りなさい,兄サマ」
「………」 
「遅くまで,お疲れ様」
「何だ,モクバ。明日は早いぞ。先に休んでいろと言っておいたではないか。」
 ねぎらいの言葉まで掛けられては,その程度しか瀬人に言うことはない。

 瀬人の寝室が二人の寝室となったのは,もう随分前のことだ。
 それがどれくらい前なのか瀬人の記憶は既にないし,それからというもの,モクバの就寝時間などあってないようなものだ。
 その責任の大半が自分にあると自覚している兄に向かい,モクバは小さな舌をちらりと見せて言う。
「ごめんなさい,兄サマ。なかなか寝つけなかったんだ。」
 大きな瞳の持ち主は,叱られぬ事を知っている。
 瀬人は大げさな溜息をひとつ零して,何も言わずにその隣へと滑り込む。
 自然と視線はモクバに注がれ,着ているパジャマとは対照的なあかがね色の物体に気をとられる。
 ヘッドレストに背もたれて座るモクバの膝にのっていたのは,かなりの厚さの本。
 随分と特徴のある本で,表紙を見ただけで書名が判別できる。
「まだ,そんな本を持っていたのか?」
「これはオレの宝物のひとつだよ。兄サマがいつも読んでくれてた。それから,1回なくして。……この屋敷で,もう1回見つけたオレの宝物なんだ」
「確かに,よく読んでいたな。あの頃のお前には難しい内容だったが,常に空いていたのはその本だけだった。お前に聞かせるのに,かなり噛み砕いて端折って読んだものだ」
「うん。施設にいた頃は,内容はよく分かってなかったと思う」
「……お前は,その表紙の刻印をよく撫で回していたな」
「話の中に出てくるのと同じ本だって,兄サマが教えてくれたから……不思議だったし,すげえって思ったのを覚えてる。それにね,兄サマ。オレは本を読んでもらえると,その間,ずっと兄サマとくっつけて嬉しかったんだ」
 二人過ごした施設の日々。
 淋しくはあったが,それでもそれは,モクバにとって優しく温かな日々だった。

 施設での日々を経て,その後,二人は海馬となった。
 瀬人とモクバは養父によって隔てられ,そこから先,二人には別々の時間が流れだした。
 ごくたまにしか顔を出せなかったモクバの部屋で,瀬人は再びその本を目にした。聞けば,屋敷の蔵書の中から見つけてきたという。
 当時の瀬人は,モクバがその本に執着する理由が分からず,多少驚いた。
 今にして思えば簡単な事だ。モクバには感傷的な所がある。
 施設に入れられた直後,そこから逃れるように茜色に染まる公園で独り過ごしていたモクバ。そんな弟が,その本を持っていたいと思ったとしても,不思議はない。
 二人の時間など持ち得なかった日々に,広すぎる子供部屋でモクバが一体どんな時間を過ごしていたのか。
 仮定の話ではなく,その本の方がそれを良く知っていたのだろうと,瀬人は思う。

 小さかったモクバの手は随分大きくなって,表紙のアウリンを今は愛しむようにそっとふれている。
 非現実的な大層な夢物語。
 合理主義に基づき記され,心理学的にも読み図れる内容だという論者もいるが,空想の世界を描いた夢物語には違いない。
 勿論,文学史の一般常識として内容は今でも把握しているが,瀬人にとってはただそれだけのものだ。
 だが,モクバがその本を大切に思う気持ちを否定する気は,瀬人にはない。
 だからモクバには,率直な意見だけを告げる。
「今のお前が読むには幼稚すぎるだろう」
「…読む………。うん。今はもう読んでないよ,兄サマ。……もう,何度も読んだから。だけど,たまに手にとって眺めてみたくなるんだ」
「そんなものか」
「………うん。」
 照れたように笑うと,モクバはサイドテーブルの上にそっとその本を置く。
 明日,というより今日は5時には起きて,屋敷を出なければならない。感傷的な思いを切り替えてケットの中に潜り込む。
 待ち構えたように差し出された腕に引き寄せられ,モクバは瀬人の広い胸に抱かれて呟く。
「おやすみなさい」
「あぁ。明日は朝からフライトだ。寝坊するな」
 うん,と頷いて目を閉じたモクバは,幸せな温かさを身体中で感じていた。


 モクバが一人過ごした日々に,その本はたくさんのものを与えてくれた。
 少年が初めてファルコンに乗る場面を読んだ日には,ブルーアイズに乗る夢を見た。目覚めた後の嬉しさをモクバは今でも覚えている。
 兄の変わりゆく様は,少年が己を失い名を忘れて彷徨う姿と重なっていた。人の心の脆さをモクバは今も忘れない。
 そんなモクバがアウリンの刻された表紙を開くたび,優しい声が聞こえてきた。
  (大丈夫。きっと見つかるさ)
 果てなく思われた,物言わぬ兄と過ごした日々。
 車椅子の足元で,願いを込め,幾度この物語を聞かせただろう。
 読み進めた長い長い物語。
 その途中には何度も書かれるくだりがあった。
  『けれどもこれは別の物語,いつかまた,別のときに話すことにしよう』
 その言葉を口にする度,少年が自分自身を探す旅は終わりがないような気がして哀しかった。 
 本当は,モクバ自身が虚無に掴まりそうになっていた。
 そんな時,幾度,その声が届いただろう。
  (大丈夫。きっと彼は見つけるよ)
 やがて来る結末を知ってはいても,一人ではそこまで辿りつけなかったに違いない。自分自身にも訪れたひとつの結末を,きっと迎えられなかっただろうとモクバは思う。
 少年が己を取り戻し,現実世界へ戻るための唯一の方法は,『まことの望み』を見つけることだった。

 瀬人の見つけたものが,『まことの望み』であったのか。
 それはモクバにも分からない。ただ,瀬人は己を取り戻し,モクバの元へと戻ってきた。そして,二人の夢を叶え始めている。
 それが,今の二人の現実だ。


  (キミは今,幸せかい?)
 瀬人の腕の中で眠りに落ちゆくモクバは,懐かしい声を聞いた気がして。
  (う…ん……あの…さ………)
 そう応えようとして,モクバはそこで意識を手放してしまった。


 早朝。
 屋敷を後にするモクバの腕には,その本が抱えられている。
「一緒に,行こう」
 昨夜,伝えられなかった想いのかわりにモクバは呟いて,瀬人の待つリムジンに向かって駆け出していった。



 二人が海馬剛三郎に引き取られる以前。
 海馬邸では,膨大な蔵書にメイドがそれぞれの蔵書印を押していた。
 『はてしない物語』と題されたその本には,海馬乃亜と記されていた。


 終



 



 コメント

私はやっぱり,兄サマを想うモクバと,モクバを想う乃亜様が大好きなんだなぁと…再認識しました!
 どのくらい久しぶりに書いたセトモクか思い出せませんが,とっても楽しかったです。
 長くてごめんなさい。

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