全身を打つ滝のような雨音.漆黒の闇.幾重にも フィルタをかけた体感システムがそれでも伝えてくる,むっとするような熱と金属臭−.
『どうだ?モクバ−』
脳内に直接響いてくる兄の声.我に返って少年は空を仰ぐ.電脳の海の底から,あの深く澄んだ蒼の在処を探し求めて−仮初めの宙に瞳を巡らせる.
時折の稲妻が,千々に乱れた雲塊の底を露わにする.世界はどよめき騒ぐ.ひとときも安らぐことなく,荒々しく騒ぎ続ける.これが原始の産声なのか.感嘆を表す言葉を幾つもいくつも飲み込んで,やっと最後に「すげぇや,兄サマ‥」と掠れた声で呟いた.
『地球の自転速度は現代に較べてほぼ10パーセント増しだ.気象現象の変移も早いのだろうが,まだ雲の厚さは赤道付近で20万メートルある.還流した硫化物のせいで,降っているのは超酸性雨だ.これが抜けるまでに数千年から数万年はかかるだろう.‥そうだな,本来なら地表の気圧も凄い値だ』
「この熱と,変な臭いは‥?」
世界の向こう側で,創造主が小さく喉を鳴らした.
その姿を心に思い描いて,モクバは小さく胸をときめかす.左手に構えたヘッドセットのインカムを耳に当て,右手はキーボードを叩きながら.僅かに細めた眼
は怜悧な輝きを隠すこともせず‥口元だけを小さく歪めて笑うその姿.
ただ熱く躰を疼かせる,言葉にすらできぬ想いを,バーチャルシミュレータのセンサーが数値化する.‥抑圧負荷を報せる輝線が視野を横切る.モニターにもシステムから警鐘が伝えられる.全てを見透かしているであろう創造主たる兄の前で,それを隠す術はない.
『うん‥刺激が強すぎたか?地表の高温と化学反応をイメージに取り込みたいという先方のオーダーだ.数値モデルはいらないから,雰囲気だけでいいのだと.突っ返してやることもできたが,ラボに丁度良いサンプルがあったので付け足してやったのだ.今オフセットを解こう−』
足元を灼くような熱の刺激が次第に遠ざかる.臭気もやがて薄れ,モクバはつめていた息をほうっと吐いた.再び「ホント,すっごい」と繰り返す.
『これが始まりの海だ.凄まじい力で陸と海を分かとうとしていた,幼年期の地球の姿だ』
「オレが思ってたのと,全然違う」
『そうか.‥お前はどんな世界を思い描いていたのだ?』
答を知りつつ問いかける.強者に媚びることを止め,自らの言葉を紡ぎはじめた弟がそこにいる.その想いを受け止め,支えてやるために.
耳に押しあてたインカムに,兄は少しだけ力を込めて−.
「あのさ−もちろんただのイメージなんだけど‥」
『うん‥?』
「温かくて,穏やかで‥まだ生き物の出てくる前の海 なんだよね?だから,しんとして‥まるで‥」
母親の胎内で微睡むような−.その一言は口に出さず,モクバは胸元にそっと手を置く.
ロケットフレームの冷たく硬質な手応え.全て夢でも構わない.それを紡ぎだした兄が,かれに与えてくれようと言うのなら.
「‥夢のなかで,もう一度夢をみてるような‥感じ,かな‥?」
『‥』
「へへ‥.なんか,オレおかしなこと言ってるよね」
兄の沈黙を,弟は誤解する.冷えびえとしたオペレーティングルームにただひとり−その胸から下げた
ロケットに触れて,男が何かを確かめたことを−少年が知る術はない.
『お前が望むなら,そう創り変えても構わないが』
「えぇっ‥そ,それは−」
絶対マズイと思う−と口ごもる少年の脳に,一手遅れてくすりと笑いが届いた.
『冗談に決まっているだろう.博物館でのお披露目は来週末だ.ハードの設置完了報告もちょうど上がって来たところだ』
再び,抑圧負荷を報せる輝線が眼の前でちらちらと踊る.「兄サマぁ‥」と汗を拭うモクバの前に,突然赤光が突き刺さり,くぐもった爆音が上がった.
びりびりと鳴り全身が痺れるほどの衝撃だ−.
『昨日見せた隕石落下とは違うだろう?誕生した海があの衝撃を受け止めたのだ』
「そうかなっ‥結構,これっ‥凄まじいよ,兄サマ」
まるで兄サマが怒ったときみたいに.
『ふん‥少しポジションを下げておくか.−そら,まだ薄い地殻が衝撃で融けだした.海水との化学反応が一気に加速するぞ.‥わかるか,モクバ?』
「‥うん‥」
禍つ神のような−と兄を皮肉った男がいた.
明けの空すら知らぬ原始の海を前に,モクバはその 言葉を反芻する.
兄サマに相応しい.老いて病んだ世界の救世主な ど,兄の柄ではないだろう.暴力と見まごう熾烈さ で,新たな世界を創造すること.やがて生まれくる者 のために,自身は誰からも祝福されることもなく,こ れを成し遂げること.きっと兄サマにしかできないこ となんだ.他の誰にも真似できやしないんだ.
荒々しい波の音−その奥に微睡む夢があるってこと を知ってるのは,オレだけなんだ.
オレだけでいいんだ‥.
『明日は5億年進めよう.お前の期待をまた裏切るかもしれんがな』
「へへっ‥そうなの?また大嵐?」
『いや,青空だ.海も深くて青い』
「それならもう,バッチリじゃん!」
兄サマの瞳のような,あの色が拡がる世界.
その海の底に,オレはきっと探しに行くんだ.
END.
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