あなたは神
オレの信ずる唯一にして絶対の神 あなたの他に神はいらない オレの総てを捧げるから だからどうか・・・
「だいぶ上手におなりですな」
オレが疲労のあまり身動きできずにいるのをいいことに、無遠慮に身体を撫で回す手。侮蔑の言葉の一つも吐いてやりたいのに、声を出すのも億劫で。
「手駒が成長されて、海馬社長もさぞお喜びでしょう」
殺意だけで人を殺せたらと、この時ほど真剣に思ったことはない。オレの優位に立っていると信じて疑わないこのブタ野郎の眉間に、銃弾をお見舞いしてやれたなら・・・。
あぁ、でもダメだ。兄サマにはそんなこと命じられていない。
今夜兄サマがオレに命じたのは、コイツを満足させること。そして兄サマがコイツに示した条件は、怪我をさせないこと。今のところコイツはその条件を守っているから、オレがコイツをどうこうする訳にはいかない。だって兄サマとコイツの契約に、駒に過ぎないオレの意思など介入する余地は無いのだから。
「それにしても・・・」
よく喋るブタだ。性欲を満たしたんたならさっさと消えろよ。
「あなたの健気さには感涙を禁じ得ませんな」
さっきまでさんざん人のことを弄んだくせしてよく言うぜ。
「お兄様に命じられればどんなことでもすると、もっぱらの評判ですよ」
それ誉めてんの? だったらどうも。でもアンタなんかに誉められても、これっぽっちも嬉しくないけどな。
・・・ねぇ兄サマ、オレ、役に立ってる? コイツを満足させたら、次の取引で有利になるの?
あなたに誉めてもらえるなら、オレはどんなことでもするからさ・・・。 「モクバくん? 眠ってしまったのですか?」
あぁ煩い。アンタがペチャクチャ煩いから現実逃避させてもらうんだよ。眠ってしまえばアンタの声は聞こえないし、運が良ければ兄サマの夢を見られるからな。
・・・夢に出てくる兄サマは、いつもとても優しい。海馬家に引き取られる前の、よく笑う兄サマだ。オレはあの頃の兄サマを今の兄サマの100万倍ぐらい好きだけど、でもだからって今の兄サマのことを嫌いになんてなれない。
だってあの人はオレにとって唯一の存在、そう、神サマみたいなものなんだから・・・。 「本当に寝てしまったのですか?」
未練がましくモクバの顔を覗き込んだ男は、ノックも無しに突然部屋のドアを開けられて文字通り飛び起きた。 「海馬社長・・!」
入ってきた人物に幾分の非難を込めて呼び掛けると、冷ややかな言葉が返ってきた。 「もう十分に楽しまれたことと思いますが」 「・・・・」
今日はここまでだと冷たい眼差しが語っている。 「わかりましたよ」
無言の威圧に押されて続き部屋のシャワールームへと向かいながら、それでも驚かされた腹いせに何か一言言ってやらねば気が済まない。海馬Co.にとって、オレは大事な取引相手なのだから。
「前に比べて、ずいぶん上手になられていましたな」 「本人に伝えておきますよ」 「お兄様の薫陶の成果ですかな」
オレは昔、お前も抱いたことがあるんだぞ。もっともその時の取引相手はお前の義父だったが・・・。
「あなたも素晴らしかったが、モクバくんも将来が楽しみだ」 捨て台詞を残して男が隣室に消えた後も、しばらく瀬人は
その男の残像を睨み続けていた。
殺意だけで人が殺せたなら。そう思ったのは子供だった自分。今のオレには本当にあの男を殺すことが可能だ。だが、殺して排除せねばならないほどは、あの男の存在は邪魔ではない。
「・・・オレは慈悲深いんでな」
せいぜい感謝しろと心の中で毒づいて、隣室へ続くドアに施錠する。これであの男はもうこちらの部屋には戻ってこられない。ゆっくりと背後を振り返ると、ベッドの上に横たわったモクバが虚ろな瞳で自分を見ていた。 「・・・御苦労、モクバ」
感情のこもらない声で労わってやると、それでもモクバは幸せそうな笑みを浮かべた。 愚かな弟だ。
自ら苦境を打開しようとせず、ただひたすらにオレに縋り付いてくる。オレの手駒として命じられるままに動くお前には、自らの意志は無いのか。自分の道を自力で切り開く能力は無いのか。
イライラする。血の繋がった弟でなければ、一思いに踏み潰してやるものを・・・。
なかば眠りの世界に入り込んでいる弟の上にかがみ込んでその瞳を覗き込むと、自分に似ても似つかぬ黒い瞳が瀬人の姿を見定めようと揺らめいた。 この無防備な生き物はなんだ? これはお前の生贄だ コイツを屠り
その血でお前の杯を満たすがいい これはお前の生贄だ・・・ 無意識のうちに、弟の首に手を掛けていた。
眠りに落ちかけていた黒い瞳が、ゆっくりと覚醒してゆく。 「どう・・して・・」 弟の唇から掠れ声が漏れた。
「オレ、ちゃんと、やった、でしょう・・?」 縋り付いてくる瞳と声が厭わしくて、手に力を込める。 消えろ。 お前など。
消えてしまえ。 一切の過去とともに。 「ニィ、サ・・・」
びくりと幼い体が痙攣した。首に食い込む兄の手に自分の手を重ねる。それは、拒むというよりはまるで温もりを求めるような仕草だった。 その様子に、瀬人の蒼眼がすうっと細められる。
バカな弟だ。
この期に及んで何を期待している。兄弟の情か?そんなものにほだされる甘い兄だと思っているのか?
それとも抵抗してもムダだと諦めているのか?
・・・つまらん。もっと抵抗してみせろ。オレに爪の一つも立ててみせたらどうなのだ。
「抵抗もせず死ぬか。負け犬め」
薄れ行く意識が、兄の冷たい声をかろうじて拾った。一瞬の空白の後、モクバの意識が覚醒する。
勝ち続ければ。 勝ち続ければきっと兄サマの側に居られる。
兄サマが下した命令を遂行するだけじゃなくて、兄サマが期待した以上の成果を上げれば、兄サマの側にいられるはずだ。この先もずっと。 「・・ッ・・ぐ・・」
首にかかった兄の手を外そうと手に力を込めると、以外なほどあっさりと外れた。身体が酸素を求めて軋む。 「・・兄・・サ・・マ・・」
いまだ整わぬ呼吸を必死に宥めながら、呼びかける。 「オレ・・もっと・・役に・・立てるように・・なるから」 「・・・フン」
「もう・・少し・・だけ・・待ってて・・」 「・・・いいだろう」 口元に冷たい笑みを浮かべて、弟の顎を持ち上げる。
「期待を裏切るなよ」
瀬人の氷の瞳を、モクバはゆらめく瞳でかろうじて受け止めた。 兄サマ。
あなたが修羅の道を行くというのなら、オレはついてゆくしかない。だって、あなたと道を分かつことなんかできないし、遠い所からあなたを見守るだけなんてゴメンだ。 だから、永遠についてゆく。 だから、あなたの側にいさせて。
「・・・うん、約束する・・・」 「いい子だ」
兄の唇を額に感じてモクバは目を閉じた。兄に抱きつきたかったが、心の中の何かがそれを阻む。
ここにいるのは昔の兄サマじゃない。夢に出て来るあの優しい兄サマじゃないんだ。あの兄サマは・・・。 『もう、どこにもいないよ』
ふいに心の中で聞こえた声に、モクバはビクリと身体を震わせた。その様子に、瀬人は不機嫌そうに問う。 「なんだ?」 「う、ううん、なんでもないぜぃ・・」
いなくなってなんかいない。
あの優しかった兄サマは、消えてなんかいない。いなくなってなんかない。 信じろ。
お前が信じなくなった時が、あの兄サマが消えるときだ。 お前が信じている限り、憶えている限り、あの優しかった
兄サマは消えてなくなったりしない。 だから。 信じ続けろ。 捜し続けろ。 あの優しかった兄サマを。
お前にとって全てだったあの人を・・・。
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