お題(ブラックコーヒー)
小林くん様


大人の証



 

   「あなたとおにいさまって、とっても仲がいいのね。」
 
   彼女が言った。ジノリの癖のあるカップがとてもよく似合う、美しい女。軽薄でも馬鹿でもなくそれでいて美しい女性は、俺は彼女以外見た事がない。
   「そうだよ。」
   「妬けるわ。」
   「どうして?」
  あなたと俺は、明後日結婚するのに。そう言うと、彼女はとても魅力的に笑った。
   「私の知らない、貴方の過去を全て知っているからよ…。」
  そして彼女は俺にくちづけた。ブルーマウンテンの味がする。彼女はいつもコーヒーをブラックで飲む。その味は俺の過去を蘇らせるものだった。
 
 
   昔、まだ俺の背丈が兄の半分程しかなく、ただ必死に彼の後ろを追いかけていたあの頃。俺は早く兄に追いつきたくて、彼の役に立ちたくて、がむしゃらにいろんな事をこなしていた。四カ国語を覚え大学入学の資格を取り、海馬コーポレーション社長第一秘書の地位を確固たるものにした。世間一般の「小学生」という地位が重く煩わしくてたまらず、友も師もその立場を全て兄にすり替えていた。実際、海馬瀬人という人は尋常な人間ではなかったから、彼の側にいるだけで様々なものを吸収できた事も俺の歪んだ固執を増長させる事になった。
   けれどそれは画一的で自身の幅を狭めるのだという事実に、可笑しな事に兄弟揃って気付いていなかった。互いが互いを縛り排他の極地に追い詰めるその事に、聡明だと思っていた兄ですら気付いていなかった。それほどあの頃の俺達は子供だったのだ。
 
   そんな俺は保証が欲しかった。兄に劣らないだけの才覚を持っていると、全てのステップを飛び越えて大人になってしまった兄と同じ、オレは大人なのだという、幼いが故の他者からの保証が。
 
 
   「…うえっ、やっぱダメだ、オレコーヒーだけは砂糖もミルクも入れないと飲めないぜい。」
   べえと舌を出す俺に、兄は笑っていつもこう言った。
   「モクバ、無理をするな。おまえはまだ子供なんだぞ、コーヒーなんぞ飲まんでもいい。」
  そして涼しい顔でブラックのコーヒーを啜る。その度に俺はむきになったものだ。
   「だって!兄サマがオレくらいの時はもうブラックコーヒーがんがん飲んでたじゃんか!オレだってこんなの、カンタンに飲めるぜい!!」
  そして決まって一気飲みをし、むせる。だから俺はその時の兄の苦い顔をいつも見る事が出来なかったのだ。
   「…モクバ。」
   「…兄サマ?」
  ある時、いつになく優しく俺を抱きしめてくれた事がある。あの兄が。
   「急がなくてもいい。」
   「え?」
   「おまえは、もっとゆっくりでいい。」
   「…兄サマ?」
  そして俺の額に唇が触れ、ふわりとブルーマウンテンの香りがしたのだ。
   兄の好きだったコーヒー。
   「…ゆっくり大人になれ、モクバ…。」
  そう言って俺を抱きしめ続けた兄は、何故か哀しそうだった。
 
 
   俺は気付かなかった。兄は大人だったのではなく、いびつに成長し大きくなっただけの子供だったのだと。義父に自由も尊厳も奪われ自己の犠牲を強いられた兄は真に成長する為の術を知らなかった。兄が被っていた仮面はある人種には絶大な作用を及ぼし、彼は海馬コーポレーション社長として完璧に振舞っていた。だがそれは体裁を取り繕っただけの張りぼての虎に過ぎず、その事を誰よりも海馬瀬人自身がよくわかっていた。
   だからこそ必死になった。だからこそがむしゃらに拡大を押し進めた。張りぼてに過ぎないかよわい我が身を護る為に。
   俺はそんな兄を崇拝し助けたいと願った。彼と共に突き進んだ、それは永遠に続く業の道だった。
 
   そんな負のメビウスに気付いたのは突然だった。今思い返しても何の脈絡もなかったように思う。それは俺がどうしてもブラックのコーヒーを飲む事が出来ないと、気付いた時だった。
 
   「兄サマ。オレ、海馬邸を出るぜ。」
 
   いきなりそう言ったオレに兄が言ったのは一言、『そうか』だけだった。
   全寮制の学校に編入の手続きも済ませ、荷物もまとめ、全て終わらせた後の事後承諾だった。彼に反対されても、どんな手段を使ってもここを出るつもりの俺は拍子抜けしたが、しかし今思えば兄は何もかもお見通しだったのだろう。俺達の歪んだ絆は一度断ち切らなければ未来はなかったのだと。俺が十四歳の誕生日を迎える二日前の事だった。
 
   それからいろんな事があった。本当に、色々な事が。
 
   「おかわりは?」
   「うん。もらうよ。」
   「砂糖はひとつ?」
   フィアンセが悪戯っぽく笑う。俺は苦笑して頷く。結局、二十六歳の俺はいまだにコーヒーをブラックで飲む事が出来ない。ミルクは入れずとも砂糖だけは必須だ。コーヒーをブラックで飲む事が大人である第一条件のように思っていた俺は、それを話した婚約者にこうして時々からかわれる。さらさらとスプーンを流れる白い粒子は輝いていて、グラスウォールからの日差しを浴びて眩しいくらいだ。こんな風に優しく寛いだ気持ちでコーヒーを飲む事も、あの頃の俺達には想像すら出来なかった。コーヒーとはそんな優しい飲み物だと、知ってすらいなかったのだ。
   「…おいしい。」
   「ふふ。ありがとう。」
  愛情があるからだろうか。その存在を認識しているからだろうか、いつも傍に在るものだと。俺は彼女を愛し、彼女も俺を、そして家族である兄とその妻も愛してくれている。
   兄はとても柔らかく微笑むようになった。
   「おにいさまたち、そろそろお戻りかしら。」
   「うーん、どうかな。娘の事になると夫婦揃って時間忘れちゃうからねえ。」
  からからと笑った。あの海馬瀬人が娘、しかも赤ん坊にメロメロなんて、そら恐ろしくすらある。けれどとても素晴らしいことだと俺は思う。
 
   愛情を知らなかった兄。他人のそれも、自分の中の愛すらもわからなかった兄。そんな彼が自身を成長させる事など不可能で、兄は俺が離れた後随分荒れた。風の噂で聞いた事実にも背を向け、俺は何年か完全に海馬コーポレーションと訣別していた。それも未来の為の布石だったけれど、辛くて身を切られそうだったのも事実だ。兄もやはり保証が欲しかったのだ、自分は完璧な大人なのだと。俺なんかの願いよりはもっと切実な渇望だった筈だ、大企業を担っている立場なのだから。俺が傍にいた間は代替保証が約束されていた、常に俺が兄に縋り、見上げていたからだ。けれど俺がいなくなってそのバランスが崩れた。一見緻密さを増したかのような行動と決断は実は迷いと思考停止の裏返しだった。
   五年。そんな綱渡りが五年も続いた。
 
   兄が、今は妻となった女性と出会ったのも、そんな時だった。
 
   どんないきさつがあったのか詳しくは知らない。兄が餓えていたものを与える事の出来る女性だと、俺は一目で見抜いた。このまま姉になってくれればいいという俺の願いは二年前に叶った。俺も兄も、他者の保証を得なくてもいいのだと思えるようになっていた。兄は愛を得て、俺は様々な経験をして。俺達はやっとお互いから解放されたのだ。
 
   俺達の関係は手にしたおもちゃを離したくない子供の我侭に似ていた。俺達にはお互いしかいなかった。周りに色々なおもちゃがあるのに俺達はひとつの物しか見えていなかった。周りを見る事が許されていなかったからだ。俺にとっての全てのお手本、大人の象徴。それはたった一人、海馬瀬人という人間だけだった。周囲を見渡す事が出来るようになっても、ただ俺達はそれに気付いていないだけだったのだ。俺は兄の背中を見上げ続け、兄はただ点と線を繋いだ前しか見えていなかった。とてもとても長い間。
   譲り合う事も受け入れる事も知らなかった俺達。離れてぽつんと佇む二人はやがて周りを見回し世界を知った。取捨選択をし、苦さを受け入れ、そして差し伸べられた手に顔を上げた。他者の存在はそれだけで新鮮だ。自分とは違う反応、反射、思考。それらを自然に受け入れられるようになって初めて人は己の心の技量を知る。
 
   それが本当に大人になったという事なのだと、お互い二十歳を過ぎてやっと知った。俺が頑ななまでに思い込んでいた『コーヒーをブラックで飲む』、それは自分が大人である事の保証書のようなものだった。何故なら俺にとっての大人の象徴、海馬瀬人が、コーヒーをブラックで飲むからだ。それが出来なくてもいいのだと。簡単だけれど、免罪符に似たそんな認識は俺達に安らぎをもたらしてくれた。
 
   応接室に飾られた俺の姪の写真。可愛い。側にいながら背を向け合っていた俺達は、永遠に届かない叫びを互いに向かって上げ続けていた。自ら壊した絆を修復出来るのか不安だった俺は、姪の誕生を報せる兄の電話をどれほどの歓喜を持って受けたことか。病院に駆けつけた俺に、兄は笑って紙コップのコーヒーを手渡してくれた。嫌という程甘い味に顔をしかめた俺に、兄は言った、『おまえも大人になったんだな』と。
 
   あの時俺が言ったおめでとうの言葉。今度は兄が言ってくれた。愛おしそうに、おまえの家族が出来るのだなと、笑って言った。式なんていらないと言う俺達を差し置いて、そりゃあもう楽しそうに結婚式の段取りをつけていった。ハネムーンがすめば俺はまた海馬コーポレーションの副社長に戻る。何もかも元通りのようで、でも以前とは違う毎日が始まるのだ。
   「あ。おにいさま達、やっとデートからお帰りになったんじゃない?」
   「ほんとだ。」
   「一体何着買ったと思う?」
  結婚式で着る姪っ子のドレスの事だ。くすくす笑う彼女に賭ける?と訊いてみた。
   「二十。」
   「俺は六十。よし、コール。」
  笑いながら二人で玄関に出た。以前と違う毎日、その手始めにみんなでティータイムを愉しみたい。美味しいコーヒーとスイーツで、今までを埋める会話をしたい。あなたはブラック、俺は砂糖入りのコーヒーで。お互いの伴侶を自慢しよう。
   きっと初めて、俺達は向かい合うんだ。
 
   「モクバ。」
   「おかえり、兄さん。」
 
   小さな小さなもみじの手が、兄の頬に優しく触れていた。
 
 
 
 
 
                            
     End.
 
                                                   
   2003.7.13. by Kobayashi.
                                                   



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コメント

  ……。
  ご、ごめんなさい…
  許せないとおっしゃる方はコバヤシまで…
 
  因みに、瀬人さんと奥様が購入したドレスは83着でした。どうするんでしょうね?(笑)個人的に「子煩悩な瀬人」っていうのはツボです。有り得ない…(笑)