張りつめた明け方の空気を震わせる,兄の.
−吐息.
目覚めても動き出す気配は無くて.オレは息を潜めていることに耐えきれなくなって,少しだけ身じろぎをする.
「‥起こしたか」
低い呟きと抱き寄せる確かな腕が,オレを再びの微睡みに誘う時期はとうに過ぎてしまった.揺籃の安らぎと引き替えに得たものは,底知れぬ愉悦と終わりのない苦痛.その穏やかな息づかいも,慣れ親しんだぬくもりさえも,幼年期の慰めとは違ったよほど大きな波をオレの胸の裡に呼び起こす.
目を開けば,紗幕を巻いた窓の外はまだ深い青のいろに半ば沈んでいる.ぎこちなく首を回すと,険しさを拭い去った端正な兄の横顔が間近に迫る. いとしいひと.
オレのからだを縛るひと.オレの心を喰い破るひと.
好きで好きで好きで好きで,もうどうしたらいいのかわからない.
身も心も捧げきって,いっそのこと魂だけになって,あなたの側に寄り添っていたい.
この世界のどこにも安息の場なんて求めない,オレは. 「兄サマ−」 「‥今朝は一段と冷えるな」
オレを抱いてくれなくってもいい.優しい声をかけてくれなくってもいい.
その蒼く柔らかな瞳でオレを切り裂いて.その白く冷たい肌でオレを焼き尽くして. オレは塵になって,光に融けて. そしてあなたが足跡を残し,影を刻む.
あなたがそこに在る.それが世界のすべてであればいい.
安息の七日目を待たずとも,オレはあなたで満たされるだろう−.
白い竜の夢を見たのだ−と,言って兄はからっぽの両手を宙にかざした.
夢の中で,竜は深い眠りについている.俺はそれを目覚めさせたくて−竜が白い翼を拡げ,天翔る姿が見たくて−捕まえて檻に閉じ込めた.
閉じ込めはしたが,その目覚めを促す術を俺は知らなかった.竜の力を解放するために,ただやみくもに俺も力を揮った.何度もそれに揺さぶりをかけ,互いに傷つけあっても退かなかった.俺が強くありさえすれば,いつかは望んだものが手に入ると−そう信じて疑わなかったのだ. 「竜は−」
言い淀んだか,兄はオレに一瞥をくれると片方の手を重ねてきた.
その手ひとつに秘められた力の不可思議を,オレは嫌というほど知っている.強欲に暴き,力を奪い,名をも損ねる,あなたの残酷な手を.新たな世界へと導き,かたちを与え,無尽の歓びを注ぎ込む−その美しい手を. 眠りの中ですら痴れ狂う.
だからきっと,あなたの白い竜も.
「‥俺の手の届かぬ処へ去ってしまった.闇を滅ぼす力だけを後に残して」
増慢の翳りだけではない.お前も知っているだろう,モクバ?道理を越えた力は,いつかやがて混沌を生み出すということを.だから竜は自らを眠りに封じ,それを控えていたのだ.だが,俺が世界に混沌を
招き,この身を暗い淵に投じようとした時−白い竜は一条の光となって俺を導き,闇を退けた.その姿は失われて二度と戻らず,光の記憶だけが俺の裡に留まった.
俺が強いて望まなければ,あれはまだ安らかに眠り続けていただろうか?夢の中の俺は,その光と共に征くことを喜び誇るかたわらで,竜の見ていた夢を惜しみもした.どれほど嘆いたところで,何も始まらないというのに.過去と,未来と.誰しも向かう方向は決まっているのだから−.
「‥どこか遠い国の,愚かな男の夢だった」
絡めた指にそっと力をこめたのは,兄からだったろうか.「そんなことない,兄サマ‥」と,心許なく訴えるオレの声を,払暁の冷気を吸った唇が穏やかに奪い取る.
そして引き寄せて.オレの縺れる髪を梳く指.胸元を下ってゆく熱い吐息.
「何とももどかしくて,腹をたてて目を覚ましたのだ」 「あ‥兄サマ‥駄目,ダメ‥そこ−」
伏せた睫毛の下に僅かでも悪戯な気配が見えるのなら,抗うこともできるだろう.けれど−いつだって,あなたは.
「‥つまらない繰り言に,お前まで付き合わせてしまったな」 「ねぇっ‥兄サマ‥ねぇってば‥」
「だが‥もしも再び白い竜を見つけたとしたら−」 「‥‥あぁ‥‥」
いつだってあなたは,持てる力と情熱の全てを注ぎ込んでオレの魂を揺さぶるから.だから. 「今度こそ目覚めさせて」 「にっ‥い,さ‥ま‥っ」
あぁ. 夢の中の竜は.
あなたに縛られた竜は,曙光に解けて.そして自らの歓喜の声で再び目覚める.
「大空のもとに解き放って‥」 「‥‥‥」
解き放たれて,世界の中心にあなたを見いだすのだ.
明けを待つ空のいろに似たあなたの瞳を,その真白き翼に映して.
End.
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