書棚の奥に仕舞いこまれた一冊の書物が、俺の目に止まった。
柄にもなく懐かしいという感情が沸き起こってきて、俺はそれまでの探し物を中断すると、それを手に取り窓際の椅子へと腰を降ろす。
この本を目にするのも随分と久しぶりのことだった。黒い皮革で装丁された古い聖書――熱心なカソリック教徒だったという母が遺したものだ。
母が亡くなったのは俺が5歳のときで、彼女の信仰がどのようなものであったかはっきりとは覚えていない。母が逝ってしまってから3年後に世を去った父が、生前そう語っていたのを記憶に留めているだけだ。
父は俺と同じく極めて合理的なものの考え方をする人間だったから、成長してからの俺は、彼がそんな母と結婚したことをいささか不可思議に思ったこともあった。
彼女の病気が判明したのは、モクバを身籠った直後だったという。母子ともに危険な出産になると宣告されたが、母は敢えて赤ん坊を生むことを選んだ。 「あなたも祈っててね、瀬人」
片手を大きくせり出した腹部に当て、もう一方の手で幼かった俺の髪を撫でながら、母は言った。
「この子に神のご加護がありますように。無事に生まれてきますようにって」
そのとき、母の膝にこの聖書が乗っていたのを覚えている。
神は母の祈りを聞き届けはした。月足らずで生まれた弟は、小さくはあったが確かな産声を彼女に聞かせた。
だが、俺の祈りは半分しか叶えられなかった。俺は、母も赤ん坊も無事でいてほしいと祈っていたのだから。
母は、生まれてすぐに保育器に入れられた息子を一度も腕に抱くことなく、一週間後に世を去った。
俺が『神』というものに対して抱くイメージはその時に決まってしまったのかも知れない。
その名は、俺にとっては『力』と同義だ。人間どもの運命を支配し、与え、奪い、裁き、断罪し、赦し、癒す。母の命を奪い、代わりに弟を生み出した絶対の支配者。 黒い皮の表紙をそっと指先で撫でる。
もうこの世にはいない者を美化して考えたいのは人の常で、幼い頃に死んだ母親ともなれば、その傾向はいっそう強まるだろう。だが、そんな偏った見方を差し引いて考えても、母は寛大で愛情深い心を持った女だったように思える。
無私の愛というのはキリスト教の教えの中では重要な事項だが、母の性情はやはり信仰と深い関係があったのだろうか、などと考える。
母の死後の光景でよく思い出すのは、この聖書を手に、書斎の椅子に座る父の姿だ。
今の俺のようにぼんやりと皮の表紙を撫でながら、遠い視線を手元に落としていた。 そこに亡き妻の面影を探すかのように。
軽いノックの音がして、俺の意識を追憶から引き戻す。ドアが開かれ、聴き慣れた声が耳に流れ込んできた。 「兄サマ?」
今ならば、父があんなにも母を愛した理由もわかる。
呼びかける声の主を、俺はあの頃の父と同じ眼をして見ているから。
母親似の弟を。命を託して去った女の魂を強くその内面に映し出している弟を。俺だけに無私の愛を捧げる弟を。
赦しだとか、癒しだとかいう『神』の限られた側面を信じる気になるのは、モクバの傍にいるときだけだ。
「これ、懐かしいね」
父の死後、親戚中を転々としていた頃も、僅かな手荷物の中に常に収められていた聖典を覚えていたのだろう。俺の傍らに歩み寄り、聖書を覗き込むモクバに、ふと思いついた言葉を口にしてみる。これはお前が持っていろ、と。
モクバが戸惑うような気配を見せた。この弟は、自分が生まれたことが母親の死の原因だと思い込んでいる――兄から母を奪ったことへの負い目を、いつも胸の奥に抱えている。
それは、お前の『無私の愛』のひとつの形。
だからお前は、俺が大きな損失とともに、それにも増して価値のあるものを手に入れたという事実を意識することはない。 「……いいの?」 頷いてみせる。
「オレ、別にキリスト教信じてるわけでもなんでもねーし……母サマのこと、何も覚えてないし」
それでも、これを持つのはお前の方が相応しい。
そう告げると、その言葉の意味を理解しきれないながらも、はにかんだような笑みを浮かべて弟は差し出された黒い本を受け取った。 「ありがとう、兄サマ」
その笑顔に、遠い面影が再び重なり、消えた。
もし、神というものが本当に存在するのなら。お前はその神が生み出した奇跡。
すべての悲しみも苦しみも超えて、俺に与えられた至上の宝。
この奇跡だけが、俺にとって世界を照らす唯一の光なのだ――
終
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