お題(赤い自転車)
如月 祐様



赤い自転車

 
 
    夢を見た。
    ずっと、ずっと。小さい頃の夢だ。
 
 
 
 
    『 ねえ、兄サマ  これ どうしたの? 』
 
    『 モクバ  後ろに乗って 』
 
    『 何処行くの? 兄サマ 』
 
    『 遠いところ もっとずっと遠い所に行こう? 』
    
    『 ねえ 兄サマ 』
 
 
 
     『 そこ 』 って     どんなところ?
 
 
 
 
 
  そんな事、本当は自分が一番誰かに聞いてみたかった。
 
  どこか、遠い所。それ以外何も答えてあげられない自分。
 
 
  本当はもっと、違う何かを探していたような気がする。
 
 
  けれど、それ以外の適当な言葉は、
  何一つ浮かんではこなかった。
 
   きっと、何も知らない。
   この小さな弟に何一つ。
   確かな答えをあげることですらできない。
 
   たとえば、そう。
   この世界の外がどうなっているのかとか。 
 
   今目の前にあるこの道の果てが、どこにあるのかとか。
 
 
   何一つ知らない。
   わかったフリをしているだけだ。
   知らないことは見ないだけだから。
 
 
 
  『これ』には。
  何かを乗せることのできる荷台は付いていないけれど。
  モクバぐらいなら後ろに乗れるだろう。
 
  モクバは小さくて軽いからきっと、
  後ろに乗せていても然程一人と変わらない。
 
 
 
 
 
     ああ わかってる。    それは 嘘だ。
 
 
 
   
  本当は自分の体も同じように小さいのだから、
  いくら小さくとも、モクバが軽いわけがない。
 
 
   すごく重いかもしれない。
   一人で行くより、ずっと大変かもしれない。
 
   でも、そんなことを言っているときじゃない。
 
   心ばかりがとても焦っている。
 
   今にも誰かが、二人を見つけ出して。
   
   暗い闇の中へ引きずり込むかもしれない。
 
 
 
   見つかったら連れ戻される。
 
   
   軟くて脆い、不安定な世界。 
   二人の想いを認めない。あの暗くて哀しい世界へ。
 
 
 
 
 
   ここから出るなら、二人一緒でなければ駄目だ。
   でないと、ここから出て行く意味がない。
 
   このままここにいれば。 いつかきっと。
   見知らぬ誰かが彼の手を掴んで。
   ここから彼を連れて行ってしまうだろう。
 
   力のない自分の。 この両の手の届かない所へ。
 
 
   天に与えられた二本の足が使い物にならなくなるまで。
 
 
   たとえ無慈悲な太陽が、
    あの丘の向こうに沈もうとしても。
 
   
 
   ずっと、ずっと。
   漕いで、漕いで。漕ぎ続けて。
 
   そうしたら、きっと。
 
 
    
   この狭くて息苦しい世界を抜け出して。
   見たこともないどこか遠くの世界に行けるんだと。
 
 
 
    
   兄弟だということ。血の繋がりのあること。
   そんなこと、すべて関係のない。
 
   愛しい。ただその思いだけの叶う世界へ。
 
   『  そこ  』 ならばきっと二人。
   離れずにいることができるんだと。
 
 
 
 
 
   そのときは、本気でそう信じてた。
 
   どうしたら二人。そこへ辿り着けるのか。      
 
 
   それすらも わからなかったのに。
 
 
 
 
  ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ 
 
 
  遠慮がちに掛けられた運転手の声。
  その抑えた声の響きに、
  ようやく自分がわずかの間眠っていたのだと気が付いた。
 
 
 
  何かの夢を、見ていた。
 
  未だぼんやりとした思考の隅に
  記憶の端を手繰ってみたけれど、
  その夢はもうすっかり姿を消してしまっていて。
 
 
  どんな夢だったのか、
  欠片も思い出すことは出来なかった。
 
  ただ、とても不快な。
  例えるなら、汗に濡れたシャツがべったりと
  肌に張り付いたときに感じるそれのように。
 
 
  やけに焦燥感をかきたてる、
  そんな夢だったことだけが鮮明で。
 
 
  ああ言う夢を。悪夢と呼ぶのだろうか。
 
  とにかく、
  あまり気分のいいものではなかったことだけは確かだ。
 
  しかし、それ以上いくら考えても、
  まだどこかふわりとした感覚のある自分の頭には、
  何も浮かんでは来なくて。
 
 
  明確な答えのない、
  はっきりとしないものを好まぬ瀬人は、
  忌々しいその思考を無理矢理頭から追い出した。
 
  いつもより格段に早く終わった仕事。
  まだ日も落ちぬうちに戻ってこれたのは久しぶりで、
  瀬人は静かに車を降りた。
 
 
  勝手知ったる使用人に荷物とコートを渡して、
  無言の視線で彼らを追いやる。
 
 
  手ぶらになって、一つ息を吐いた。
 
 
  コレだけ早く帰ってくれば、いつもは遅い時間だから。
  眠っていて迎えに来れないのだと悔しがる彼が。
 
  自分を出迎えに来る姿を見れるのではないかと。
  実は少し期待していたのに、その姿は未だ見当たらない。
 
  らしくもない期待を抱いた自分へのかすかな羞恥と、
  予測した事態に至らなかった不満が、
  瀬人の眉間に皺を寄せる。
 
 
  すると傍に控えていた家政婦の一人が、心得たもので、
  モクバ様はまだお帰りでありませんと告げて頭を下げた。
 
 
  こういう、さりげない気の利かせ方ができる者を、
  瀬人は疎いとは決して思わない。
 
  有能な人間ならば傍に置くし、話に耳を傾けさえする。
 
 
  彼女はの台詞は少なくとも、
  今の瀬人にとっては大切な一言だった。
 
 
  とりあえず、居ないなら
  迎えに出ることができないのは当たり前だ。
 
  状況を把握できたことに満足して、
  瀬人は礼の代わりに一つ手を上げ、家政婦を下がらせた。
 
 
  詰まった予定が早く終わったのだから、
  もちろんすることは何もない。
 
  明日の仕事をしてもいいが、
  それではせっかく早く終わった意味がないというものだ。
 
 
  暇な時など滅多にないから、
  それが貴重なものだと頭では分かっていても、
  瀬人は何をしていいかわからなかった。
 
  それに、未だ先程の感覚が離れないまま
  思考の端を陣取っていて頭がはっきりとしない。
 
 
  仕方なく自分も一度部屋に戻ろうかと、
  一歩足を前に出して。
 
 
  ふと、何かの気配に顔を上げた。
 
  「......?」
 
  気のせいかとも思ったが、どうもそうではないらしい。
 
  屋敷の外。そう遠くはないどこかから、
  なにやらカチャカチャと不可思議な音が聞こえる。
 
 
  良く耳を澄ませてみると、
  どうやら何がしかの機械部品の奏でる金属音のようだ。
 
 
  瀬人は自分でも色々な機械を作ったり、
  いじったりもできるから、
  その音が容易にそれだと察した。
 
  しかし、瀬人は窓の外を見やり、一人眉を顰める。
 
  確かに金属音ではある。
  だが、何故そんなものが、
  よりによってこんな所で聞こえると言うのだ?
 
  ここは常時けたたましい金属音が鳴り響く機械工場でも、
  がやがやと無駄に騒がしい庶民の住宅地でもない。
 
  広大な家屋敷。広やかな土地に鬱蒼と佇む海馬家。
 
  その外にあるのは見渡す限り、
  広大で閑静な庭園であるはずだ。
 
 
  そのどこかから、
  明らかに自然の音とは思えない不自然な金属音がする。
 
 
  「.....さて、下衆か。それとも雑魚か。」
 
 
  聞こえぬほどの声で囁き、皮肉気な笑いに口元を歪める。
  手にはしっかりと小型の銃を忍ばせることは忘れない。
 
 
  瀬人はゆっくりと重い扉を開け、
  気配を殺すようにして音の出所を探った。
 
  この時間に帰ってくることは滅多にないが、
  もしかしたら事前にそれを察知した、
  刺客か何かの立てる音やもしれない。
 
 
  今更刺客の一人や二人に驚く自分ではない。
  だが、居るとわかっていて、
  放っておいてやるほど優しい人間でもない。
 
  使用人やボディーガードを呼ぶ気にすらならなかった。
 
 
  一人ゆっくりと、確実に音のするほうに近づく。
 
 
  狙いをつけた茂みの陰から、近く、確実に聞こえてくる。
 
  目にも止まらぬとはこういうものだと言う見本のような、
  軽やかな動作で高い茂みを飛び越え。
 
 
  動くな!とこの場に相応しい常套句を言おうとして。
 
  しかし瀬人は、音の発信源に銃を突きつけた姿のまま、
  固まってしまうことになった。
 
 
  目の前で、
  大きなくるりとした瞳をさらに大きくしている
  黒髪の少年が、彼の良く知る人物であったからだ。
 
  「兄サマおかえりなさい!今日は早いんだねっ。」
 
  物騒なものを向けられているのに、
  少しも動じることもなく。
 
  むしろにっこりと嬉しそうに笑う少年。
  海馬瀬人の実弟、海馬モクバ。
 
 
  銃を突きつけられたというのに、
  それが自分の慕う人物であるからなのだろうか。
 
  自分を向いたままの銃口には、関心も恐怖もないらしく、
  あくまで意外な瀬人の帰りの早さが純粋に嬉しいらしい。
 
  わが弟ながら、なんと肝の据わっていることか。
 
  帰った、とか。ああ、とか。
  今のこの状況ではもはや只の間抜けとしか
  言い様のない一言を告げようと口を開いて。
 
  しかし目の前にある奇妙な光景に結局、
  先に目の前の疑問を払拭する方を優先することにした。
 
  「モクバ....。それはなんだ?」
  「ん?ああ、これ。
        いいでしょう?さっきそこで拾ったんだ。」
 
 
 
  そこっ!と指差す先には、海馬家の小高い柵。
 
 
  その外に、いかにも不要なモノと言いたくなるような。
  粗大ゴミで出来た小高い山があった。
 
  そう言えばそれは朝からそこにあって、
  一日のスケジュールを反芻する瀬人に僅かながら
  不快な思いをさせたものだ。
 
 
  あんなところに塵屑を積み上げおって、とか。
  後で区役所にクレームの電話を掛けてくれる!とか。
  とりあえず考えてはみたけれど。
 
  しかしそれは、瀬人の頭を一瞬過ぎっただけで。
  この状況を打破するにはなんの役にも立たなかった。
 
  「.......。」
 
  目の前で無邪気にそれを指し示すこの弟に、
  言いたいことはそれこそ山のようにある。
 
 
 
  まず、どうしてそんなものがここにあるのか。
 
  いや、あるというより、持ってきたのだ。
  多分、この弟が自らの手で。
 
 
  だが弟はそれと同じ、と言うより。
  彼の前にあるそれよりもずっと高価な、
  同じ用途に使えるものを持っているはずだ。
 
 
  にも関わらず、確実に壊れてしまっているそれを、
  何故わざわざ修理しようとしているのか。
 
  そもそも、
  何故アレだけの塵の山から拾ってくるのが
  よりにもよってそれなのだろう。
 
  湯水のように湧き上がるそれらの疑問。
  その中でも一番知りたいことがある。
 
 
  とりあえずこの状況を理解するよりも、
  それを解消するほうが先だ。
 
  「それで、おまえは。
          そんなものをどうするつもりなんだ?」
 
  「ん?ヤダなあ兄サマ。
      良く見てよ。これ自転車だもの。乗るんだよ。」
 
 
  「自転車の用途くらい知っている。
           だから...そうではなくてだな。」
 
 
 
  なんと聞けばいいのか、分からない。
  そう。
  弟の目の前にあるのは、
  壊れてあちこち傷だらけの自転車だった。
 
 
 
  いかにも子供が好んで乗りそうな、目に痛い程鮮やかな。
   
 
 
 
 
          赤い色の自転車。
 
 
 
 
  きょとんと言う形容詞がぴったりの仕草で、
  小首を傾げている。
  本当に何故そんなことを聞くのか分らないという顔だ。
 
 
  瀬人は、それ以上追及するのを諦めた。
 
  その代わりに、なんだろう。
  何故かちくちくと心に引っかかるものがある。
 
  今、自転車を指し示すモクバを見た瞬間。
  一瞬何かが脳裏を掠めた。
 
 
  違う理由で眉を顰める瀬人を尻目に、
  モクバは最後の仕上げの螺子を締めて、
  得意げに鼻の下をこすった。
 
  「よしっ!完成っ!!」
 
  言うが早いか、
  なんとか形になったそれに跨って
  乗り心地を確かめている。
 
 
  子供向けの少し小さいその自転車は、
  壊れかけているとは言え、
  まだ小学生のモクバに大きさだけはぴったりだった。
 
 
  足がしっかりと地面につくことにいたく満足した
 
  モクバは、またも。
 
 
  瀬人が予想していなかった言葉を吐いた。
 
 
 
 
 
 
 
  「兄サマ、後ろに乗って!」
 
  「!」
 
 
 
 
 
 
  『   ウシロニ    ノッテ    』
 
 
 
 
 
 
 
  一瞬、世界が傾いたような、奇妙な既視感に襲われる。
 
  ああ、それはどこかで。
 
 
  ここではないどこか別の。
  遠い世界で聞いたことのある言葉だ。
 
 
 
  あれはどこだっただろう。
 
  あれは、いつだっただろう。
 
 
  赤い自転車。
 
 
  そのフォルムを尚一層真紅に染め上げる、
  夕暮れの空の色。
 
 
 
 
  それすらも、今ではないいつかに、
  確実に見たことのある風景。
 
 
 
 
  そんな小さな自転車の荷台に、
  どうやって俺が乗ると言うんだ?
 
 
  そんな格好悪いことができるものか。
  ここは自分の顔を知っている者ばかりの街なんだぞ。
 
 
  そうでなくとも、
  弟の漕ぐ子供用の自転車の後ろに乗っている
  180を越える自分の姿は十分に異様だ。
 
 
 
 
   そんなこと、できるはずがない。
 
 
 
 
 
  たくさんの否定を表わす言葉が、
  何故か瀬人の口から出ることはなかった。
 
  まるで強い誘惑に吸い寄せられるかのように、
  小さな自転車の後ろに跨る。
 
 
  自分の意志であるはずのそれは妙におぼつかないモノで。
 
 
 
  乗ってしまってから少し後悔するけれど、
  やはり降りる気にはならなかった。
 
  しかしその自転車は、
  やはり瀬人の体にはどうあっても小さくて。
 
 
  荷台に座ってしまっては、
  足を思うように自転車に乗せることすらできない。
 
  だけれど弟はとてもではないが背が低いから、
  自分が立って乗ることは不可能だ。
 
 
  何とか落ち着くポジションを見つけようと、
  一通り動いて、考えて。
 
 
  瀬人はどんなにしても、どうにもならない状況に、
  考えることを放棄した。
 
  今日は先程からずっと、
  いつもと違う自分の頭脳に、正気を疑う日だ。
 
 
  地上の大半を蛆虫のように這いまわるその他大勢の人間。
 
 
  愚かで無能な雑魚と同じくらい疎い
  今の自分の思考に苛立っている自分ですら。
 
  まるでどうでもいいことのように感じてしまう。
 
 
  そうではなくて、もっと別の奇妙に気だるい何かが。
  まるで警鐘のように頭の中を走り抜けていて。
 
  「兄サマ、しっかり掴まっててね。」
 
  そんな心ここに有らずの瀬人とは裏腹に、
  酷く張り切っているモクバは唄うように一言そう告げて。
 
 
 
  自転車は、なんとも心もとなく走り出した。
 
 
 
 
 
  ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ 
 
 
 
 
 
 
  ぎしっ ぎしっ    ぎいっ
 
 
 
 
 
  走り出して僅か数十分。
 
  人通りの少なかった夕暮れの商店街を走り抜け。
  緑の多くなる町のはずれに差し掛かった頃には。
 
  座っている瀬人の前で一心にペダルを踏む弟の耳は
  、後ろから見ていて分かるほど真っ赤になっていた。
 
 
  寒い季節でもない。
  ただ、彼の疲労の色がそこに現れているのだと、
  それだけはわかった。
 
 
  吐く息が荒い。
  漕いでいるスピードも格段に落ちてきている。
 
  それはそうだろう。
  目の前で自転車を漕ぐ彼の体はまだ小さなそれだ。
 
  どんなに性格が大人びていたとしても、
  天から与えられる能力の中で、
  体力ほど身体の成長に比例するものはない。
 
 
  そんな彼が、すでに成長する時期も終わりかと言う、
  長身の兄を乗せているのだ。
 
 
  二人乗りなど、自分と同じ体格の者を乗せても
  バランスを取るのは難しい。
 
  荷台に座ってすら尚、
  自分の目線より下にあるモクバの旋毛に目をやりながら。
 
  瀬人は晴れない気分の原因である筈の、
  先程の夢の全貌を思い出そうと、
  記憶の引出しを無闇やたらと開け放していた。
 
 
  この自転車の荷台に乗って、少しずつ。
 
  思い出してはきていた。
 
  朝、自転車が打ち捨てられているのを見ていたときに、
  少しだけ感じた違和感。
 
  そして、
  それからこの奇妙な感覚がずっと続いていることを。
  ようやく理解したのだ。
 
  夢の欠片が少しずつ、瀬人の頭を去来する。
 
 
 
 
  そうだ。
  あれはずっと小さい頃。
  まだ、施設にいたときのことだ。
 
 
 
    そこには、赤い自転車があった。
 
    どうして、そんなものがあったのだろう。
 
 
    泣いている弟がいた。
 
    どうして、彼は泣いていたのだろう。
 
 
    泣いていた彼は、言った。  
 
    『ごめんね、兄サマ』
 
 
 
 
    どうして、彼は謝ったのだろう。
 
 
 
 
 
 
  切れぎれの記憶はうまく繋がらない。
  電波の途切れるラジオのように、
  ザアザアと奇妙なノイズが入って、
  瀬人の記憶の流出を阻んでいる。
 
  「ねえ、兄サマ。」
 
  深い思考に沈み込んでいた瀬人は、
  聞こえてきた眼前の少年の一声に我に返った。
 
  「兄サマの嫌いな話、してもいい?」
 
  突然降って湧いたように言う。
  その声は緊張しているような、
  震えているようにも聞こえたけれど。
 
  ただ、弾む息が荒いせいで、
  声が少し裏返っているだけなのかもしれなかった。
 
  「内容による。」
 
  今の曖昧な物言い。
  それだけで是非を言うことも出来ず、
  瀬人はそれだけを答えた。
 
 
  嫌いな話だと言われては、それ以外に答えようがない。
 
 
  モクバは視線をハンドルを握る己の両の手に向けて。
  すぐにまっすぐ前を向いたまま、
  覚悟を決めたようにゆっくりと口を開いた。
 
 
 
  「過去(むかし)の話。
   まだ兄サマが小さくて、俺はもっと小さかった頃の。」
  「....。」
 
 
 
  それは、瀬人自身が普段思い出すことを憂うことで、
  モクバが語ることを暗に許さない話題だ。
 
  いつもの自分なら、やめろと一蹴するか、
  無言で言葉を遮るような。そんな内容。
 
 
  だが、今日は何もかもがおかしな日だった。
  モクバの次の一言を待っている自分がここにいる。
 
 
  何かを、期待している自分。
  もう少しで、すべてを思い出せそうな。
 
 
  「ほら施設の裏にあった塵置き場の傍で遊んでたとき。」
 
  息を継ぐのが惜しいとばかりに。
  切れ切れの呼吸の合間を縫って紡ぎ出す言葉。
 
  「兄サマが、急に俺の手を引っ張ってってさ。
    遊んでた皆の輪から抜け出して。俺に言ったんだ。」
 
 
  コレに乗って。
  遠い、遠いところへ。
 
 
  「 拾ってきた自転車、指差してさ。
      『モクバ。後ろに乗って。』って。
         それから、.....それから。 」
 
 
  一息、息を吸い込む音がやけに響く。   
  滑るようにモクバの唇から零れた言葉が。
 
 
 
  瀬人の体を走り抜けた。
 
 
 
  「  『一緒に  逃げよう。』  って。 」
 
 
 
 
  ああ。
 
 
  そうだ。
 
  思い出した。
 
 
 
 
  あの時拾ったのは、自転車。
 
 
 
  自分たち二人を引き離すかもしれない、
  形の見えない暗い闇から逃げるため。
 
 
  まるで天から与えられた宝物のように、
  無造作に落ちていたそれ。
 
 
  小さな。塵の山に埋もれたガラクタの一つ。
  吸い寄せられるようにそれを塵山から引きずり出した。
  そっと座って、恐る恐るペダルを踏む。
  それはどこもかしこも錆び付いていて、
 
  まるで悲鳴のような音を立てた。
 
    
 
 
 
 
 
 
  小さな毒々しい色をした     
 
 
 
  赤い   自転車
 
 
 
 
 
 
  思いを自覚したのはいつだったろう。
  自分の弟として生まれてきた、
  当然のように一番近くに在る小さな命に寄せていた想い。
 
 
  それが、兄が弟に寄せる極普通の親愛の情から。
  少しずつ。しかし確実にズレて。
 
  いつか、自分自身さえ気が付きもしないうちに。
  全く違う想いに摩り替わってしまっていた。
 
  その思いがこの世界で。
  なんと呼ばれる感情であるのかを理解した時。
 
 
  今まで当たり前のようにそこにあった世界も、弟も。
  自分自身ですら。
  何もかもがとても、怖くなった。
 
  その思いが、たとえば外へと漏れるようなことがあれば。
 
  世間の人間は掌を返すように、
  たちまち自分へ向ける感情を変えてしまうだろうこと。
 
 
  その感情はきっと、冷たくて、
  とても痛いものであるだろうということ。
 
  それが分かってしまう位には、
  瀬人は同じ年頃の者達よりずっと聡い子供であったから。
 
  立っていた場所が砂上の楼閣だと気が付いてしまった。
 
 
  とても、とても怖くなって。
 
 
 
  でも。
  それ以上に、
  自分がその想いを捨てることなど到底出来ないことも。
 
  はっきりと自覚していた。
 
 
 
 
  悲しいほどの、確信ですらもって。
 
 
  「兄サマが漕いで、俺が後ろに乗って。
        夕日が沈みそうになってる道も、
        兄サマずっと、黙って漕ぎ続けてたよね。」
 
 
  止まれば。
  誰かに追いつかれそうで。
 
  止まれば。
  もう二度と、この想いを遂げられぬ気がして。
 
  「でも、後ろの俺が疲れたって泣き出して。
   探しに来てた施設の先生に見つかっちゃったんだ。」
 
 
 
 
  逃げるように、ただ一心に走った。
 
  今のこの自転車のように。錆び付いたそれが。
 
 
  必死な音を響かせて。
 
 
 
  施設から連れて行かれる子供は後を絶たなかった。
  望むと望まぬとに関わらず、
  里親に引き取られ、離れ離れになっていく仲間達。
 
 
  その姿を見ていた弟は、
  いつも泣きそうな顔で服の裾に縋ってきた。
 
 
  決まって同じ台詞をその服の主に求めてくるのも、
  いつものこと。
 
 
 
  そのたびに、不安になる彼を安心させるために。
  そしてまた。自分を励まし、大丈夫だと鼓舞するために。
 
 
  ただ、二人でいるだけでは駄目。
  世間が認めないその思いの重さに怯えながら。
 
 
  それでも。
  その強くて脆いたった一つの誓いを、
  何度も形のない言葉に代えて。
 
 
  いつも、自分は彼に言ったのだ。
 
 
 
 
 
 
  大丈夫。
 
 
  『   ずっと   一緒だよ   』と。
 
 
 
  それ一つだけが、あのときの心の支えだった。
 
 
  その思いが、自分をとても強くして。
 
  しかしまたその思いが、一時は自分を迷わせ苦しめて。
 
 
  それすら信じられなくなっていた時には、
  誰より大事な筈の相手を傷つけ。
 
 
  そして自らが。心ごと壊れてしまうほどに。
 
  ひたすら、どんなときでも離れることなく、
  狭い自分の心の内を占めていたもの。
 
 
  「兄サマの手、マメだらけだった。
      すごく痛そうで。俺、あの時さ。
    ごめんなさいって兄サマに言ったんだ。覚えてる?」
 
 
  「...ああ。」
 
 
  しっかりと、覚えている。
 
 
  モクバが泣きながら謝っているとき、
  いつものように優しく慰めることも。
  頭を撫でてやることも出来なかった。
 
 
 
  お互いを思うこと。
  ただそれが、兄と弟という形でないというだけ。
 
 
  ただそれだけのこと。
 
 
  でも、ただそれだけのことなのに。
 
 
  それはとても異質なモノだ。
 
  常識という壁が二人を隔て。
  壊さぬ限りは決して叶わぬ願い。
 
 
  それを成す力がないことを。自分のせいにするのが嫌で。
 
  だから、何も出来ない弟が。
  悔しくて歯痒くて仕方がなかった。
 
 
  ただ泣きじゃくる弟が。
  ただ、謝ることしか出来ない彼の有り様が。
 
 
 
  もどかしくて。ひどく苛立たしかった。
 
 
  本当は彼に怒っていたわけでも。
  彼を詰りたかったわけでもなかったのに。
 
 
  「あの時の兄サマ。すごく悔しそうな顔してた。
          なのに俺、あの時何も言えなかった。」
 
 
  「ホントは言いたかったのに、怖くて言えなかったんだ。
         なんで怖かったのかも分からなかった。」
 
 
  「今は....わかるよ。俺がなんで、怖かったのか。」
 
 
 
  この世界は。自分たちの型に嵌らぬものを排除する。
  見下し、軽蔑し。蔑むような侮蔑の視線で。
 
 
 
  「モクバ。」
 
 
  コレ以上の言葉を遮ろうとする瀬人の言葉は、
  しかし二人の荒い息使いに阻まれ、
  モクバの耳に届かない。
 
 
 
 
   侮蔑と。蔑み。差別と批判。
  それに打ち勝てるほど。強くはなくて。
 
 
   自分でさえそうだったのだ。  
   モクバはもっとずっと。 悲しいほどに幼すぎて。
 
   伝えたい言葉はきっと同じだったはずなのに。
   当の本人達にすら見えなかった壁に阻まれた想い。
 
 
   もう少しで届いたはずの、坂道の上。
 
   あそこに届いていればあるいは。どちらからでもいい。
   何か一つでも伝えられたかもしれなかった。
   
   二人だけの思い。弟でなく、兄でもない。
 
   ただ。二人という別々の人間としての。
 
 
 
 
 
  今日は、一体どうしたというのだろう。
  仕事を早く切り上げて、
  部屋で静かな時を過ごすぐらいの気持ちでいたはずだ。
 
 
  なのに。いつもは聞かない、
  自分からは語りもしないような昔話をしているばかりか。
 
 
  あのときの時間が、残酷なほど鮮明に再生している。
 
 
  急に自転車のスピードがぐっと落ちた。
  慌てて前でペダルを踏むモクバを見る。
  目の前には急な坂道。
 
 
  こんな小さな自転車で、それでも確実に登っていく。
  目に見えない何かに、抗おうとするように。少しずつ。
 
 
 
 
 
  どうして、忌々しいほどに何もかもが同じなのだろう。
 
 
  「モクバ、もう引き返せ。」
  「や、だっ!ここを登るんだっ、
      そのために俺、兄サマを乗せて来たんだぜぃ!」
 
 
 
 
  ムキになって叫ぶモクバの頭上には、
  目も眩むほどの大きな夕日。
 
  西の空に沈もうとすそれは、
  もう少しで頭を隠してしまいそうだ。
 
  忌々しいまでの赤。
  沈んだらたちまち消えてしまう。残酷な光。
 
 
 
  それを目にすることが出来ず、
  坂の半ばで止まってしまったあの日の二人。
 
 
  「兄サマ。あのときも、こんなだったでしょう?」
 
 
  違いない。
  まったく同じ景色。まったく同じ色だ。
 
  赤い夕日が、真っ赤な自転車を。
 
  尚一層真紅に染め上げて。
 
 
 
  「あの時っ、言えなかったからっ
       ....俺、今よりずっと弱虫だったからっ」
 
 
 
  爆発しそうな心臓の音。痛いほどに弾む息。
  漕いでもいない。ただ後ろに乗っているだけなのに。
  自分の鼓動までがやけに耳に響く。
 
  息が荒い。何かを言わなければならないのに。
  言葉が出ない。
 
 
 
 
      
  あのとき。ホントは。
 
  目の前で泣きじゃくる彼に。ただ一言。
  いつも自分が言う言葉を聞かせて欲しかった。
 
  その言葉の意味がまだ分からなくても。
  まだ彼らが立たされた苦しい場所を理解できなくとも。
 
  聞かなくても分かっていた。
  本当は、誰より彼の思いを信じていたけれど。
 
  与えて欲しかったのも、本当。
  自分が幼いことを。力がないことも。
  血を分けた、実の兄であることですら越えて。
 
  それらすべてを受容れて。
  それでも尚、傍にいることの意味を。
 
  それを言える権利がある人間は、彼独りだった。
  他ならぬ瀬人が愛した、此の世で只一人。
  血を分けた愛しい存在だけ。
 
 
 
 
 
 
  それだけ。
 
 
 
 
 
  「でも、俺、ちょっと強くなったよ。
      兄サマはまだ追い抜けないけど、でも。
           今なら、言ってもいいと思うんだ。」
  「.....。」
 
 
  「俺、兄サマを乗せて走れるよ。」
  「そうだな。」
 
 
 
  「俺、この坂道、兄サマを乗せたままっ、走れるよ。」
  「そうだな.....。」
 
 
 
 
  ああ、本当にそうだ。
 
 
 
 
 
     
  もう  坂道は終わりだ。
          
  きっと今度は。   
  登りきってから。 
  夕日が 沈む。
 
 
 
 
 
  最後の一漕ぎで、自転車は丘の上に達した。
  荒い息と、目の前にある夕日の光。
 
  自転車が静かに止まって、瀬人は足を地面につけた。
 
 
  長い時間、不自然な姿勢で固まっていた足は、
  痺れていて感覚がない。
 
  息を落ち着けるまもなく自転車を飛び降りて、
  立ち上がったモクバが瀬人の前を横切って夕日を背負う。
 
 
  息を切らし、長い髪を風に乱したまま格好で。
 
 
  それでも、
  黒曜石と見紛う程の光を宿す双眸だけは決して、
  その強い光を失わぬままに。
 
 
 
  瀬人を見つめているはずのその視線は。
  何故だか随分と低い位置にあって。
  彼を見る瀬人の目線と絡まない。
 
 
  「兄サマは、きっと絶対言わないけど。
  兄サマは強いから言わなかったけど。俺、知ってるよ。」
 
 
  コブシをぐっと握って。
 
  力を込めすぎて白くなった指先。
 
  「俺...良くわかんないけど。
         兄サマみたいに賢くないけど。でもっ。」
 
  モクバが笑った。 
  子供を宥めるような視線をあらぬ方向に向けたまま。
 
 
 
 
 
  「そこに、いるんでしょう?」
 
 
 
 
 
  視界に入った夕日と、赤い自転車。
  モクバの見つめる、視線の先。
 
 
 
  『 ココニ  イルヨ 』
 
 
 
  途端。
  心の中に潜んでいたもやもやとした何かが、
  綺麗に吹き飛んだ。
 
 
 
  頭が急にクリアになる。
  先の見えない霧の中から。突然抜け出したような開放感。
 
 
  今このときを生きる、
  過去ではない時を生きる現在(いま)の自分が、
  確実に戻ってきたのが分かった。
 
 
  そして、晴れ渡った視界の端にふと違和感を覚える。
  弟と自分の間。ほんの少しつま先ほどの視線の先に。
 
  モクバと対峙するように佇む人影が見えた。
  人影が振り向く。
 
 
  モクバと同じくらいの大きさの。
  頼りなげに見上げる目の色も、髪の毛も。
  その形すべてが。
 
 
 
 
  自分と同じモノ。
 
 
 
 
 
 
 
 
  瀬人はようやく、すべてを理解した。
 
 
 
 
  そうか。
  今日は。あの日と同じ日だったのだ。
 
  あの日と同じ月、あの日と同じ日。あの日と同じ時間に。
  あの日と同じように淋しい塵に打ち捨てられた、
  赤い自転車を見つけて。
 
 
 
  すべてが同じだったから。「彼」は不安になったのだ。
 
  小さい頃、
  遂げることなくそのままにして閉じ込めた思いが、
  夢というかたちを持って瀬人のもとへやってきた。
 
 
  口に出さなくとも二人、確信しているはずの。
 
 
  その疑わない想いを疑ってしまうほどに、
  そしてそのまま。今の瀬人の心に巣食ってしまうほどに。
 
 
  鮮明な力すら持って。
 
 
 
  モクバにも、何か感じられたのかもしれない。
  不安と言う二文字で出来た、
  幼い瀬人の幻影から流れてくる声無き声。
 
 
  不安だと、助けてと。
 
 
  それを伝えたいけれど。
 
  今となってはそれを伝えられる言葉を持たぬ、幼い瀬人。
 
  そのもどかしい『彼』の想いを。
 
 
 
 
 
  瀬人は、きっと自分にだけ見えているのだろう、
  伺う様にこちらを見る頼りなげな幼い己に、
  無言で小さく首を振った。
 
 
 
 
 
  そうだ。不安だったんだ。
  あの時確かに「おまえ」は不安で仕方なかったんだろう?
 
 
  でも、今はあのときと。違うことがいくつもあるんだ。
 
 
 
  ホラ、この手を見てみろ。
 
 
 
  自分たちは、あの時よりずっと大きくなっているだろう?
 
  あのときは、
  結局途中で大人たちに掴まってしまったけれど。
 
  
  今度は。夕日が沈む前に二人で。
  あの坂道を登り終えただろう?
 
 
 
 
  もちろん俺達二人だけ。
  決して誰にも掴まらないままでだ。
 
 
 
 
 
  それから。
 
  今日自転車を漕いでいたのは、
  あのときの「おまえ」と同じくらいの。
 
 
 
 
 
  小さな小さな。「おまえ」の弟だったろう?
      
 
   道の果てにも。この世界の終わりにも。
   あるのはたった一つの真実だけ。
 
  「おまえ」の知りたかった答えのすべては今ここにある。
 
  全部、全部だ。
 
 
 
  もう「おまえ」が不安に想う事なんて、何もないだろう?
 
 
 
  じっと見つめてくる目の前の小さな自分が、
  安堵したように微笑んだのが見えた。
 
  その口がゆっくりと動いて、何かの言葉のかたちを作る。
 
 
  音にはならないそれを残して。
 
  「彼」は瀬人から視線を外した。
 
 
  少しずつゆっくりと歩み寄って。
  自分と同じくらいの大きさの、
  モクバの体を包み込むようにする。
 
  決して触れはしないけれど。
  それでも優しく髪を撫でて。その小さな頤を掻き抱き。
 
  幸せそうに微笑みながら。
 
 
 
 
  「彼」は。瀬人の視界から消えた。
 
 
 
 
  幻など信じない。
  いつもなら、悪趣味なと鼻で笑うような出来事なのに。
 
 
 
  何故だか今目の前で見た自分の姿を疑う気には、
  どうしてもなれなかった。
 
 
 
 
  突然俯いて黙り込んだ兄に、
  言葉を紡ごうと呼吸を開けていたモクバは
  伺うような表情で見上げてくる。
 
 
 
  小さな弟。あのときよりずっと大きくなった、俺の弟。
 
  今日はもう。ここまでずっとモクバに連れられてきた。
  まるで幼子が母親に手を引かれるように。
 
 
 
  小さな頃の自分が。あの頃の自分と同じ年頃の弟に。
 
 
 
 
 
  だからモクバが言おうとした言葉は。
  今彼の口から聞くべきではないと。
  瀬人はモクバを見やった。
 
 
 
 
  あの時それが欲しかったのは、幼い時の自分だ。
  弱いから。求めた。弱いから。怖れた。
 
  自分もモクバも。もうあの時とは違う。
  彼はまだずっと小さいけれど、
  誰より強く優しいこの弟は、
 
 
  いつでも自分の横に並んで立っている。
 
 
 
  弟として、ただそれだけではない。
  もっと大切な、たった一人の人として。
 
  二人の関係は、
  あの時も今も決して対等ではないのかもしれないけれど。
 
  それでも彼は必ず。振り仰げばそこにいる。
 
  それは、瀬人の力とは違う強さだ。
 
 
  奪って、取り上げて。それを誰にも渡さぬ力。
  そんな自分のある種傲慢な強さとは違う。
 
  包んで。護って。
  たとえ何が起ころうとも。
  辛い現実も、どんな困難が彼を襲おうとも。
  変わらず傍に在り続けること。
  何度手折られようとも、何度枯れ果て、朽ちようとも。
  ただ天にある太陽に憧れて必死に両の手を伸ばす。
 
 
  弱いけれど。弱いからこそ。
  強いそれを一途に信じ抜く力。
 
 
 
  それが。モクバの強さだ。
 
 
 
 
 
  「モクバ。」
  「え?」
 
  だから、やはりその言葉は、自分が言うことにしよう。
 
 
 
  本当は、今の自分には少し似合わぬ言葉。
  気恥ずかしくて、出来るなら言わずに済ませたい。
 
  けれど。
 
 
  あの時と同じ。でもきっと意味が違う。
  想いの重さも、決意の固さも。
 
  弟と、兄。それだけではない思いを。
 
  赤い自転車が連れてきた。あの日の自分と一緒に。
 
  「 モクバ 」
  「 え? 」
 
 
 
    
   (ね、モクバ 僕等は)
 
 
  「 俺とお前は。   離れ離れになったりしない。 」
 
    
   「!」
 
   「  ずっと   一緒だ。 」
 
 
 
 
  口の端を吊り上げて。
  自信に満ちた表情で笑う顔が好きだなんて、
  うっかり見惚れてしまったことに。思い切り後悔。
 
  今こそ。今度こそ言おうとしていたのに。
  やっぱり先に言われてしまった。
 
 
 
  顔いっぱいにそんな想いを隠すことなくを貼り付けて。
 
  モクバが少し俯いて瀬人を睨んだ。
  とても悔しそうに。でもそれと同じくらい嬉しそうに。
 
 
 
  赤い自転車よりずっと真っ赤になったまま。
 
 
  彼の影が前触れなく、瀬人の方へ走り寄った。
 
 
  それはまるで一瞬の出来事で。
  咄嗟の動きに反応出来ずに棒立ちのまま居た
  瀬人の首に飛びつくようにして。
 
 
  精一杯背伸びをした、モクバの小さな唇が。
 
 
  瀬人の頬を掠めた。
 
 
  だけれどそれも僅か一瞬で。
  手を離し飛び降りた彼は、
  すぐにくるりと背中を向けてしまう。
 
 
  今度は軽い驚きで固まる瀬人をそのままに。
  転がるように走り去って。
 
 
  自転車のサドルに跨って、
  瀬人に見えぬようにか顔を伏せた。
 
 
 
 
  「  ずるいよ  兄サマ。 」
 
  「ああ。」
 
 
  「俺が言おうとしてた事、先に言っちゃうんだもん。 」
  「ああ。」
 
 
 
  「  悔しいな。 」
  「ああ。」
 
 
  「  兄サマ悪いと思ってないでしょう? 」
  「ああ。」
 
  「  もうっ。 」
 
 
  ああ、拗ねている。
  そんな顔も好きなのに。今は良く見えない。
 
  うっすら耳が赤いのが見えるけれど。夕日が眩しくて。
  輪郭だけしか捕らえられない。
 
  ぼやけた視界で。
  モクバがこちらを向いたのだけがわかった。
 
 
  一呼吸。小さく背伸びして。
  にこりと。あるいは泣きそうなそれかもしれない。ただ。
 
 
  確かに笑った気配。
 
 
 
   「ねえ 兄サマ。」
 
 
 
   「なんだ?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   「    大好き。   」
 
       
   「!」
 
 
 
 
 
  モクバを乗せたままの自転車が、
  モクバの声に答えるようにぎいっと鳴いた。
 
  瀬人は、思わず無言のまま前に踏み出した。
  今のモクバの一言の驚きで。まだ少し耳が痛い。
 
 
 
  今聞こえた言葉をもう一度。
  今度はちゃんと彼の顔を見て。聞いてみたい。
 
 
 
  だけれど。
  込み上げる衝動に密かに高鳴る鼓動を抑えるように
  近づいた瀬人が覗き見たモクバの顔は。
 
 
  もうすっかりいつもと同じ。
  少しやんちゃで悪戯な。小さな弟の顔だった。
 
 
 
 
  「さあ、兄サマ、帰ろう!ここすごい真っ暗だもん。
   何も言わずに出てきたから、きっと皆心配してるよ!」
 
  瀬人は、内心の落胆を悟られぬよう、
  顔を逸らして空を見上げた。
 
 
  たしかに、
  太陽が消えた空は途端群青の色を濃くしている。
 
  「....車を呼ぶか。」
  瀬人の呟きに、モクバがええっ?っと
  非難の響きを込めた叫び声を上げた。
 
  「駄目だよ!だってこの自転車どうするのさ。」
  「塵だろうが、それは....。」
 
  モクバは腰に手を当てて片手を瀬人の前に差し出した。
  人差し指を立てて瀬人の言葉を咎める。
 
 
 
  「何でも捨てるから塵の山ができるんだよ?
         地球に優しくないよ兄サマっ。
        もう直ってるからまだまだ乗れるよこれ。」
 
 
  モクバはそう言って。
  傷だらけの赤いフォルムを愛しそうに撫でた。
 
 
 
 
  瀬人は、心がざわりとしたのを感じる。
  今のはなんだ?
  たかが一台の壊れかけの自転車相手に。
  自分は何を考えた?
 
  「それに俺、こいつ気に入ったんだ。
        帰りは下りだから楽だしさ。ね?兄サマ。」
 
  モクバの見上げる視線のおねだり攻撃だ。
  瀬人はこみ上げる溜息を無理矢理押し殺した。
  今日は、何もかもがおかしな日だ。
 
  どうせ何もかもがおかしな日なら偶には。
  この弟の言うことを全部聞いてやる日が、
  あってもいいかもしれない。
 
 
 
  「また、俺が後ろか。」
 
 
  諦めたように苦笑の溜息を吐く瀬人に、
  モクバはぴかぴかの笑顔を向けて荷台を叩いた。
 
  「うん!兄サマ、ほらほらっ。早く後ろに乗ってっ!」
 
 
 
 
  ああ。   
  すっかり、元の二人に戻ってしまった。
 
 
 
  ライトをつけて尚一層ペダルの重くなった自転車に跨る。
 
  「よ〜しっ。家に向かって爆進〜!!」
 
  嬉しそうに叫んで走り出した自転車の荷台。
 
 
  眼前のくるりとした旋毛を眺めながら、
  先程のモクバの言葉を思い出した。
 
 
 
 
  『  大好き  』
 
 
  いくら自分への意趣返しの不意打ちの一言とは言え、
  あんな場所で言うのは反則だ。
 
 
  夕日がまぶしくて、眇めていた目には何も見えなかった。
 
  いつも言われているたくさんの好きも。
  瀬人が憎からず想うモノの一つであるけれど。
 
  でも、それとは、まったく違う意味の言葉。
 
  きっと、
 
  いつもの彼とは違う顔をしていたのだろうモクバの。
 
  小さな告白。
 
  聞かなくてもいいなんて、高をくくっていたけれど。
  やはり実際聞いてみると、
  それは瀬人の常に冷静な心中ですら掻き乱すほどに、
  甘くて愛おしいものであったから。
 
 
 
  楽しそうなモクバの息遣いと自転車の錆びた音が重なる。
 
 
  それらの音を聞くともなしに聞きながら。
  その音に導かれるように。ふっと目を閉じた。
 
 
  すると。
 
  白く光る瞼の裏に浮かんだモクバが、
  とても嬉しそうにこの自転車に跨っている姿が映った。
 
 
  その後ろに乗っているのは、先程消えた幼い自分だ。
 
  同じくらいの年恰好の二人は、幸せそうに。
  とても嬉しそうに。夕日の中。二人で笑っていた。
   
  幸せそうなモクバの顔。それを見ている。
 
 
  幸せそうな自分の顔。
 
 
 
  さっきおまえが見たモクバの顔は、こんな感じだったか?
 
 
  自転車は只のモノだ。軋みこそすれ語ることなどない。
 
  なのに瀬人は思わず、
  返事を急かすように自転車のフォルムを小さく小突いた。
 
 
  するとまるで瀬人の思考を汲んだかのように。
  自転車のタイヤが耳に心地よい高い音を響かせた。
 
  瞼の裏でこちらを見た、
 
 
  小さな瀬人の笑顔に重なるように。
 
  きいっと、高い金属音で。
 
 
 
 
 
 
  『   アリガトウ   』
 
 
 
 
   
  確かに。そう聞こえた。
 
 
  ああ。やっぱり。
  先程の「自分」はそう言ったんだ。
 
  妙に確信のあるその考えに。
  胸の辺りが痒いような奇妙な感覚に襲われる。
    
  なんだかそわそわして落ち着かない気分になる。
  浮き足立った感覚は眩暈に似てくらくらする。
 
 
  けれど。
 
 
 
  「悪くない気分だ。」
 
  「???どうしたの?兄サマ。」
 
  前を向いたまま。突然脈絡のない台詞を吐いた瀬人に。
  返事はせずに、首を傾げるその頭をそっと掻き抱いた。
 
  「なに?なに?兄サマどうしたのっ?」
 
  返事はしない。今返事をしたら、
  すぐにも笑い出してしまいそうだったから。
 
 
  今日はもう仕事は終わっている。
  帰ってもとくに予定はない。
 
  家に着いたら、
  モクバのためにこの傷だらけの自転車を修理してやろう。
 
 
  モクバが直し損ねているブレーキと。
  まだ油の足りないチェーンも全部。
 
 
 
  そして傷だらけのフォルムも塗り替えてやろう。
 
 
 
 
  もっと綺麗な、さっきの夕日と同じ、真っ赤な色で。
 
  返らぬ返事に焦れたように頭を揺するモクバの、
  夕陽の光を吸い込んだふわふわの旋毛に鼻先を埋めて。
 
 
 
  自分がいつも乗っている車の方が
  何倍も乗り心地はいいけれど。
 
 
 
  自転車の荷台も、たまには悪くない、などと考えて。
 
 
 
 
  瀬人は誰にも見えないように。小さく笑ったのだった。
 
 
   
 
 

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 コメント

 長くて偽者で、チビ瀬人でへたれさらに意味不明で申し訳ないです。しかしセトモクを書けて本望です。お目汚し失礼しました。


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