脱線空間
第9回 汚れた社会の中心で 愛を叫ぶ.


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  • 前々回の脱線空間にて、無意味で、非生産的で、下品で、しかもバカバカしい、そんなコミュニケーションが日常化しているぷらっとほーむでのありかたとその根拠となる考えかたについて記述した。簡単に言えば、生産性や意味を求められるコミュニケーションがいたるところにあふれる私たちの社会にあっては、心からホッとできる居場所とは、そうしたコミュニケーションから「降りる自由」が十分に保障された場所や機会だということだ。諸事情によりやむなく一度は「降りた」人たちの集う場所であればこそ、「降りる自由」は居場所の必須条件だというのが、私たちの思考前提である。
  • とはいえ、これでは不十分だったらしい。読者の方より「それはスタッフの“おふざけ”の言い訳じゃないか」的なご意見を幾つかいただいた。そういう側面が全くないとは言わないし、自覚もしているつもりだ。その上で「敢えてやっている」とは前々回も書いた。私たちは決して“ふざけ”てはいない。しかし、なぜ私たちがそうした批判を受けるリスクを背負ってまで「敢えてやるのか」については、説明が手薄だったように思う。そこで今回は、なぜ私たちが敢えて、無意味・無価値で、エロ・グロで、下らないコミュニケーションを重視するのか、そのもう一つのより重要な論点について解説したい。
  • 一言でいえば、その論拠とは「建設的で有意味で上品な、学校的コミュニケーションの中での純粋培養の危険性」ということだ。学校化されたコミュニケーション空間にあっては、とりわけ子どもや女性のあるべき属性として、純粋さや無垢さのような価値(処女性)が称揚される。この処女性とは、近代社会において主に女性に割り当てられた価値だが、性別役割分業(男性:賃労働/女性:家事労働)が生きていた時代であれば、それは結婚(永久就職!)という生計確保のための有効な戦略になりえた。処女性(ケガレのなさ)が売りになっていたわけだ。しかし、現在の社会にあってはどうか?
  • また、現在の私たちが生きる環境とは、何が正しくて何が間違っているか、隣りの人が何を考えて何を行っているかといったものがまるで不透明な、複雑に混濁した社会である。当然、善悪や成否の基準も明確ではなく、あらゆる存在がシロでもありクロでもあるような、そんな曖昧で平板なグレーゾーンがどこまでも広がっている。そういう社会を、私たちは今、現実に生きているわけだし、おそらく今後もそれは変わらない。では、成熟社会の灰色の混濁を生きていくというときに、果たして、先に述べたような処女的なコミュニケーションの作法が「生きる力」とやらにどれほど役立つと言えるだろうか?
  • 「無垢・清純」には、確かに美的価値がある。だが、「無垢」とはすなわち「無力さ」ということであり、それは「コントロール可能」という政治的含意をもつ。大人が子どもを善導できた後発近代化国家の開発主義(高度経済成長期)の時代にはそれもありえた。だが、大人/子どもの境界線が溶融した現在ではどうか。必要なのは、子どもたちを下品で無意味なものから隔離し「無垢・清純」(=支配可能な存在)へと「教育」することではなく、汚れたものや無価値なものとの適度な付き合いかたや距離感覚(免疫)を日常のコミュニケーションの中で各自が自分なりに体得する手伝いをすることだ。ケガレた社会をそれでも「幸福に」生きていくためには、適度なケガレが必要。私たちはそこに照準しているのである。
  • (たきぐち)

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