脱線空間
第7回 居場所にリベラルの花束を。


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  • 「(不登校・ひきこもりを含む)子ども・若者たちの居場所づくりの活動をしています」などというと、どうしてもマジメで堅気な(さらに言うなら、暗くて深刻な)イメージをもたれがちで、実際にフリースペースを訪れてみて、そこに流れる空気や雰囲気に驚く人も多い。そこには、バカバカしいもの、下らないもの、ナンセンスなもの、下品なもの、そしてそういったものにまつわる笑いがあふれているためだ(念のため注釈しておくと、これは「ぷらっとほーむ」だけに限らない)。不登校やひきこもりの「問題」に携わっている人たちの中には、あるいはそれを不快に感じる向きがあるかもしれない。
  • それぞれの居場所に流れる雰囲気は、そこを設計し運営しているスタッフの個性や思想におおきく依っていることは、これまでも強調してきた通りだ。とすれば、「ぷらっとほーむ」のバカバカしさや下品さは、スタッフのそれに起因することになる。しかしながら、そこから「あそこのスタッフは公私混同している」とか「あそこに行くとバカが伝染する」とかいうのは、短絡である。確かに私たちスタッフの中には、人一倍下品でマジメならざる者もいる(というか、そうでない者がいない)ことは否定しない。だが、私たちはあえて意図的に、自分のうちのそうした側面をさらけだしている。なぜだろうか?
  • 考えてみて欲しい。本当に心からホッとできる場所、安心できる空間とはどういうところだろう。そこは、話していい話題、いけない話題が決まっているような場所だろうか。マジメで、建設的で、上品で、意味があって、どこに出しても恥ずかしくない・・・そういう雰囲気の中で、果たして私たちは心からくつろぐことができるだろうか。そういう人も当然いるだろう。彼らには行き場所がある。生産性や品行方正さを重視する場は、既に随所にあるためだ。だがその逆はどうか。マジメでも上品でもなく、どこに出しても恥ずかしい、私たちの中のある種の感情や欲望には、落ち着ける居場所がないのだ。
  • そうであればこそ、私たちはこの「ぷらっとほーむ」を、あらゆる話題が可能な、それぞれが自らの内に秘めた感情や欲望を安心して表現できる、リベラルな空間にしていきたいと考えている。マジメな話題も、低俗な放談も、真剣な議論も、気の抜けた雑談も、すべてが同じように可能であり、生産性や速度だけが優遇されることがないということ。それは、自分のペースで居られる空間づくりの根幹であり、動機調達にとっても極めて重大な要件である。「ぷらっとほーむ」でスタッフの留意するコミュニケーションがそうした多様さの現前に照準するゆえのものだということが、これでご理解いただけるだろう。
  • おそらくは、現代のこの世の中全体がどこか急ぎすぎなのではないか。生産的なもの、意味があるものを求める心情は解らないでもない。しかし、無意味があるからこそ意味が際立つのだし、下品なものがあるからこそそうでないものがいっそう美しく見えるのだ。光ばかり見て、影の部分を見落としてしまうのは、私たちに余裕がない証拠だ。さらに言えば、意味や生産性がないゆえにこそ価値があるという逆説さえも世には存在する。そこに自らの根拠を求める人だっている。話題の多様さは、そのまま個性の多様さなのだ。そうした豊かな個性の受容と承認が可能な空間づくりのためにも、私たちはよりいっそうバカで、下品で、無意味で、無価値なコミュニケーションを展開していきたいと思うのだ。
  • (たきぐち)

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