沖縄平和交流に参加して
労金労組長岡支部 和田良子

 この国が平和だと
 誰が決めたの?
 人の涙も乾かぬうちに アメリカの傘の下
 夢も見ました
 民を見捨てた戦争の果てに

 これは、サザンオールスターズの「平和の琉歌」の一節です。沖縄に行くまで、この歌詞が何を訴えているのか、あまり理解できていませんでした。太平洋戦争において、日本で唯一地上戦が行われたということは知識として知っていました。しかし、戦後55年もたった現在においても生活環境や住民の心の中にあれ程深い爪痕が残っているとは、思ってもいない衝撃的な事実でした。
 集団自決のあったガマや、異常なほど広い米軍の基地を見てまわり、平和な「本土」との隔たりを強く感じました。一番印象深かった出来事は、タクシーの中でのことです。那覇市一番の繁華街である国際通りを通っていたとき、日本人の若い女性とアメリカ海軍の軍人らしい男性のカップルが歩いていました。私から見れば普通の国際的なカップルでした。しかし、中年のタクシー運転手さんは不快感を顕にして、「やめてもらいたい」とおっしゃっていました。アメリカ人は沖縄を占領している気でいるともおっしゃっていました。このとき初めて沖縄にはまだ真の平和が訪れていないと感じることができました。
 普通の観光ツアーでは知ることのできなかった沖縄を見ることができ、とても感謝しています。平和センターの方々はじめ皆さんどうもありがとうございました。




沖縄平和交流に参加して
JTシイエムケイ労組 佐野秀幸

 11月23日から25日の3日間、沖縄平和交流に参加しました。この平和交流の目的は、国内で唯一の地上戦が行われた沖縄の戦争の悲劇と、今なおアメリカ軍による基地使用で様々な問題が起こっている沖縄の現実に学び、平和の尊さ、反戦・平和運動について考えるという事でした。私は、はっきり言って今まで戦争や平和について、あまり深く考えたことはありませんでした。そんな私が参加しても大丈夫かなと、最初は不安でした。
 一日目は、ひめゆりの塔・平和祈念資料館・アブチラガマを見学しました。ひめゆりの塔では、米軍に包囲されてたくさんの若い命が集団自決により失われたと聞いてせつなくなりました。平和祈念資料館では、戦争の恐ろしさ、戦争の起こした悲惨さを知りました。資料館に「戦争を始めるのも、終わらせることができるのも人間なんだ」と言う言葉がありました。私は今まで戦争について感心がなかった事が恥ずかしくなりました。すごく意味深い言葉だと思いました。
 アブチラガマでは実際に中に入ることができて、当時の人たちの非難していたところを知ることができ勉強になりました。懐中電灯を消すと何も見えないような暗闇の中で、うめき声や悪臭に耐えながら、いつ米軍が襲って来るかと言う不安の中で生活していたことを知りました。
 二日目は、普天間基地・嘉手納基地・象のオリ・チビチリガマを見ることが出来ました。実際に戦闘機の音を聞くことは出来ませんでしたが、基地の大きさには驚きました。一日でも早く基地がなくなり、沖縄の人が静かで平和な生活を過ごせるといいなと思いました。チビチリガマでも多くの人が集団自決をしたと聞かされました。米軍に捕まると乱暴されて殺されると思ったそうで、それほど追い詰められていたのだと知りました。
 私は、この平和交流に参加して、戦争の怖さや悲惨さを知ることが出来、本当に良かったと思いました。もう、このような悲劇は二度と繰り返してはいけないと思いました。




沖縄平和交流に参加して
全農林中越分会 夏井重信


 何処までも何処までも、この島の全てを覆い尽くしているのではないかと思うほど果てしなく続く基地の金網。「この金網の内側には、ゴルフ場、スーパーマーケット、学校、消防署、バー、銀行、基地、病院、教会、フットネスクラブ、ハンガーガーショップ等々アメリカ本土にある物がほとんど揃っているんです。まさにリトルアメリカなんです。」と説明してくださった沖縄平和センターの岸本さんの言葉に、自分は今何処にいるのか一瞬戸惑いを感じた。「アメリカの中に金網を張ってリトル日本を作っているんじゃないのかな? 本当にここは日本なのかな?」 テレビや新聞、雑誌などのあらゆるマスメディアで紹介されている沖縄。何処までもきれいな青い海やリゾートビーチ、旅行者に人気の観光スポットなど、観光立県としての沖縄の真の姿を見た気がした。
 「みなさん、沖縄へようこそ!本当に無事着陸できて良かったですね。」こんな言葉で長岡平和センター  13人の2000年沖縄平和交流はスタートしました。
 初日は、沖縄戦の追体験ということで、ひめゆりの塔〜平和祈念資料館〜アブチラガマ(ガマ:自然にできた洞窟で沖縄戦のとき、防空壕等に利用していた)を廻り、その場所場所で丁寧な説明をしていただいた。ひめゆりの塔では、「ここが、観光地として多くの観光客の方々が訪れますが我々はそれを否定するのではなく、ある意味で良いことだと思っています。なぜかと言えば 戦後55年が経った今、沖縄県民でさえも記憶が風化してきている中で、そのような事実があったということを多くの人に知ってもらうためにはこのような形もしょうがないんじゃないでしょうか。」の説明に、ここを観光地としていることへの矛盾やあきらめ、無念さなどが感じ取られ、多くの観光客が記念写真を楽しそうに撮っている姿が悲しくなりました。平和祈念資料館では、沖縄の海を渡る波をイメージして建立されたという平和の礎の黒い波が、青い海に向かって幾重にも重なりあうように続いていました。この礎には、先の沖縄戦で亡くなった人たちの名前が刻まれており、その数の多さに改めて驚きと悲しみが湧いてきました。平和祈念資料館では、戦争の悲惨さを疑似体験し、人間の尊厳を踏みにじる戦争という行為にただただ憤りを感じました。展示場の終わりに「沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない と思うのです この なまなましい体験の前では いかなる日でも 戦争を肯定し美化することはできないはずです 戦争をおこすのは たしかに人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間ではないでしょうか 戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み 平和な島を建設せねば とおもいつづけてきました これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た ゆずることのできない 私たちの信条なのです」と結びの言葉が大きく掲げられていました。ともすれば、過去の歴史に目を瞑りがちになる人間が多い中で、沖縄県の平和教育に対する崇高な理念が感じられ、同じ戦争の被害を受けた新潟県との違いにただ唖然としました。
 初日の最後に訪れたアブチラガマは、まさに追体験と呼ぶにふさわしいものでした。この中であの地獄絵の世界が展開されていたと思うだけで涙が出そうになりました。ふいに「では、みんなで懐中電灯の灯りをけしてみましょう。」の言葉で全員が暗闇の中へ入り込みしましの無言・・・この暗闇の中で、逃げ込んだ人たちは何を考えながら明るい光のもとへ出て行くことを考えたんだろうか? ほんのわずかの時間でしたが、さまざまなことを考えさせられました。
 二日目は、現在の沖縄の現状ということで沖縄県南部のアメリカ軍基地等をまわり、冒頭の感想は、嘉手納基地へ向かう時のものです。普天間基地では宜野湾市のど真ん中、面積の26%を占めるという不条理に、国が税金を投入する米軍への「思いやり予算」じゃこの不条理を維持し、沖縄県民を苦しめるための予算なのかと思うほどでした。何処へいって、何を見ても聞いても、今までの自分たち固定観念を尽く打ち砕かれるばかりで、百聞は一見に如かずの諺どおりこの地に来て初めてわかることばかりでした。この体験を自分の中で整理するにはまだ暫く時間がかかりそうですが、長岡での平和センター活動に役立てていきたいと思っています。
 最後にこの機会を与えてくださった皆さん、現地で真摯に案内をしていただいた沖縄平和センターの岸本さんに感謝し、雑駁ながら報告と感想に代えさせていただきます。




全農林中越分会 渡辺一美


 「日本はアジアの一員である。」今回の旅で改めてそう思った。当たり前だけど忘れている。これまでそれなりに沖縄戦のことを知っているつもりでいた。だが、私たちが立つこの地で、想像を絶する地上戦が繰り広げられたという事実を前にすると、自分の認識の甘さを痛感させられた。ここから米軍が上陸し、鉄の暴風に襲われ(米軍の無差別な空襲や艦砲射撃をこう呼ぶ。)四人に一人が死んだという。ガマといわれる壕の中で、沖縄平和センターの岸本さんの説明を受けながら、私たち一人一人がそれぞれの肌で感じた。ここで戦争があったのだということを・・・。理屈ぬきで二度とあってはならないことだと思った
 平和祈念資料館の展示物一つ一つにショックを受けた。沖縄戦は、日本に於ける唯一の県民を動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘であったという。
 子供たちの無惨な写真の前で誰もが足を止め、まぶたを押さえる。軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っており、その数は十数万人におよぶ。なぜここまでの犠牲を沖縄は強いられたのか。そのことを知らない、関心のない日本人(自分も含めて)が多すぎる。三十数年生きてきて、やっと今頃になってこんなことに気づく自分がとても恥ずかしかった。自国の歴史・事実をきちんと知ることは当たり前のこと。そこから学ぶことはとても大切なことではないか。
 沖縄は本当に暖かく、明るい空のもと何気なく暮らす人々。しかし皆の胸の中には、戦争の傷跡が必ず何らかの形で残っているはずだ。地図でみれば小さい沖縄なのに、地平線まで広がる米軍基地の大きさには驚かされる。普通の暮らしのすぐそこに米軍があり、様々な問題も山積みだ。暴行傷害犯罪、交通違反・・・私たちがニュースで知るのは氷山の一角。理不尽な社会だ。「思いやり予算」で次々と建設されるすばらしい病院やゴルフ場(もちろん基地の施設)。何なんだこの国は・・・! 沖縄って暖かいところだよね!でも台風多いけど。海はすごーくきれいなのさほんとに。カポックが地植えだよ・・信じられない。生垣はハイビスカスやデュランタライムである。植物が伸び伸びと育ち、郊外はサトウキビ畑が広がる。
 たくさんの観光客で賑わう那覇空港だが、米軍と共用である。那覇市内の国際通りはまさに不夜城。にぎやかでいかにも南国という雰囲気だがその表情は笑顔だけではない。本土復帰から28年しか経っていない。えっ?戦後から1972年まで米軍の支配下だったのだ。忘れてはいけないと思った。以前日の丸を燃やした事件があったがその気持ちがなんとなくわかるような気がする。日の丸は象徴的だから・・戦争のイメージしかないから。それなのに法制化されてしまった。反対してきたのに。私たちの声は小さいから届かないんだろうか?

「  沖縄戦の実相にふれるたびに
   戦争というものは
   これほど残忍で
   これほど汚辱にまみれたものはないと
   思うのです。

   この なまなましい体験の前では
   いかなる人でも
   戦争を肯定し美化することは
   できないはずです

  戦争をおこすのはたしかに 人間です
  しかし それ以上に
  戦争を許さない努力のできるのも
  私たち 人間 ではないでしょうか

    戦後このかた わたしたちは
    あらゆる戦争を憎み
    平和な島を建設せねばと思いつづけてきました

   これが
   あまりにも大きすぎた代償を払って得た
   ゆずることのできない 私たちの信条なのです 」

沖縄県平和祈念資料館 展示むすびのことばより

世の中は全て関り合いがある。リンクしているのだ。一人一人が問われる時代だ。二泊三日という短い旅だったが私なりに様々なことを考えさせられた。やはりこの目で見るというダイレクトな経験はすごい。皆さん!ありがとうございました。思い切って参加してよかった!最後にA&W のルートビアは最高だったよね・・和田さん!




第4回沖縄平和交流に参加して
       長岡市職員労働組合事務局  高橋直也

 私が沖縄に行ったのは、大学の卒業旅行の時だった。
 特別な知識もなくただただリゾートとして、そしてリゾート気分で行った。もちろん沖縄が戦争において数々の悲惨な爪痕の 残る地だとは知ってはいたが、友人に流されてきれいな海をぷかぷか浮いて過ごした沖縄旅行であった。
 今回行こうと思ったのもそんな思い出だけではない沖縄に、もう一度触れてみたかったからだ。たしかに観光で行くにはすご くいいところであるし、自然環境も日本とは思えないほど美しい。でも、そんな気分で行っても、必ずといっていいほど戦争の 爪痕が所々に伺える。なんの知識もなく行った人であっても、どうしてこんなに広い基地が、それも自分の国ではない軍の基地 が存在しているのか? 明らかに市民生活を脅かし、市民の同意のもとに作られた飛行場ではないのが解る。文化も中国・アジ ア諸国文化との交流で影響を受け、独自の文化を作っていたのに、アメリカナイズドされている部分が近代的街並みから伺える。 街の商店街にはいろいろな軍用品が所狭しと置かれ、ミリタリーファンの多い街なのかな?という印象を受けてしまうほどであ る。
 去年の暮れに組合の関係で「南の島から」という演劇を見た。沖縄に住む平和な住民が戦争に巻き込まれ、先祖の代から育て てきた畑を飛行場建設として国に没収され、息子は学童兵として戦地にかりだされ、妊娠した娘は焼夷弾で傷つき、家族散り散 りになり逃げ込んだガマでの生活。貧しさの中、皆人間としての自覚すら失いそうな中、またもやそのガマも日本軍に追い出さ れてしまう。逃げまどううちに一人、一人と失ってゆき最後に生き残った母は泣きながらこう叫んだ。「おら、生きてやるさあ 、みんなの分も生きてやるさ、この悲惨な戦争を二度と繰りかえさんために、生きて生きて生き抜いてやるさ」
 息子を失い、途方に暮れてなにも食べることのできなくなった母が、ごはんを噛みしめながら叫んだ最後の言葉にすごく感動 した。
 そんな沖縄を学ぶことなく、体を真っ黒に焼いて帰ってしまった事がずっと心残りだったからだ。
 行きの飛行機は羽田発、日本エアシステムで行った。スチュワーデスさんはあまりきれいではなかった。帰りのスチュワーデ スさんはみとれてしまうくらい綺靂で凛としていてかっこよかった。あんな奥さんがほしいなあ。
久しぶりの飛行機で怖くて窓にへばりついて離陸を見ていたが、訳の分からないうちにもう飛び立っていた。ちなみに新潟の気 温は六度。
 現地についてまず思ったこと。ここも日本なの?本当に11月?というほど暖かくて天気がいい。気温二六度。現地の人はも ちろん半袖だった。
 沖縄の飛行湯は軍民両用で自衛隊機が旅客機と並んでいる。それに米軍基地が近くにあり、飛行経路が近いこともあり、30 0メートル以内に機体が近づいてしまうことを「ニアミス」というのだが、沖縄の湯合200メートル以内のニアミスがしょっ ちゅう起きるらしい。現地案内の人の「良くご無事で着きましたね。」という言葉が非常に重く感じた。
 トイレ休憩もままならぬままひめゆりの塔へ行った。ガジュマルの木の下にぽっかり空いたガマ・・この中で起きた出来事は 現実に起きてしまったことであり、これからの未来や希望をたくさん抱いていたのに、戦争によって全て失ってしまった少女達 の思いがガマの中からつたわってきた。 つぎに平和記念資料館。今は新しい建物に変わっていて古い資料館もまだ残されてい た。だがこの新しい資料館、いわくつきで前の知事の時は沖縄が戦火にさらされた事実を全て展示しようと、住民からいろんな 証拠品を集めて展示してあったのだそうだが、知事が保守党の知事に代わった途端、館内の文書や資料に「侵略」と書かれてい る文章のある本を全て撤去したりして、住民もそれでは資料は展示できない、と証拠品を持ち帰られてしまい、以前と比べてき わめて薄い内容の資料館となっているらしい。 資料館の中は沖縄の歴史と沖縄戦が順を追って説明してあり、解りやすかった のだが、いかんせん時間がなく、あまり詳しく見ることができなかった。
 印象に残った展示物は、沖縄の戦争体験者達の書きつづった体験談を文章化して部屋一面に並べてあったものだ。一人一人の 訴えがその場にいるだけで猛烈に押し寄せてくるのを感じた。目の前で家族を失う、友人が目の前で殺される。味方のはずの日 本軍に銃を突きつけられる。そういった非現実的な世界が現実として受けとめざるを得ないものとして迫ってきた。 もう一つ は、散弾銃で打たれ手足バラバラになった沖縄の少年の断片を、自慢気に持って写っているアメリカ軍兵士の写真を見て、異常 な世界だと肌身で感じた。戦争がなかったらそのアメリカ人だって家族と沖縄観光に来て、おいしいステーキや郷土料理を食べ て、きれいな海でバカンスを楽しんだかもしれないのに、戦争によってきれいな海岸を戦車で踏みつけて、現地の罪もない子供 を殺す事になってしまう現実がその写真からつたわってきた。 資料館のすぐそばに断崖絶壁の海がある。最後に追いつめられ た日本軍や民間の人たちはアメリカ軍に捕まることを恐れ、その断崖に身を投げたという。こんなきれいな海なのに、もの悲し い雰囲気がそこにあった事も印象的だった。
 つぎに行ったその日最後の見学地、アブチラガマは平和交流の中で一番衝撃的な場所だった。 アブチラガマは沖縄に点在す るガマの中でも大きな方で、軍の野戦病院として使われていた。多いときには1,000人もの人が避難していた程大きくて、 中に三階建ての病院を建てた程広いらしい。でも、傷ついた人がほとんどで破傷風にかかり手がつけられない状態の人は、奥の 死体置き場と一緒に置かれたりして、亡くなった人もたくさんいたという。さっそく懐中電灯を持ってガマに入る。入り口は狭 く中からなま暖かい風が吹いてきてすでに息が詰まりそうだ。回りの岩は湿っていて所々滴が垂れてくる。足場は濡れていて滑 りやすく、光なしでは普通には歩けない状態だった。
 しばらく身をかがめて歩くと、急に広い場所へ出る。看板が立っていて「病室」「医務室」「珍察室」など、立ててある。懐中 電灯以外真っ暗で、湿った暖かい空気がたちこもるガマの中は深呼吸すらできない状態だ。この真っ暗な中で三ヶ月も共同生活 をし、死体の臭いと汚物の臭いのたちこもる湿った、よどんだ空気の中、薬もほとんどなく毎日傷口や死体から湧くウジムシ掃 除が仕事のほとんどだったという。果たして人は尋常でいられたのだろうか?現代の何でも便利な時代に生まれた私たちは、一 日としていられないだろう。
 このガマもやがてアメリカ軍に見つかり、説得したり、入り口から油をかけられ火をつけられたりしても応じなかったという。 なぜならアメリカ軍はガマの中に入れなかったのだ。ガマの周辺にまでその臭いはたちこめていて、とてもガマに近づくことは できない程、異臭がひどかったらしい。
実際ガマの中に入って、黒くなつた炊事場の跡から避難する人たちの「生きたい」という思いが強く感じられた。どんなに臭く ても、真っ暗でも、懸命に飯をほおばり、生きようとする人たちの思いがひしひしと伝わった体験だった。
 夜は現地案内の人に、本湯沖縄料理を出すおすすめのお店に連れていってもらった。流球の民家に似せた雰囲気の店内で食べ る沖縄料理は、ホントに美味しかった。ゴーヤチャンプルといったニガウリの野菜炒めは絶品で、落としても割れないくらい堅 い豆腐にも味が付いていて最高だった。炒めるときの調味料に天然の粗塩を使いマイルドに、そして少し甘く仕上げてあり、そ れに鰹だしと、たぶん昆布だしが利いていて、止まらない美味しさだった。
 戦争によって街が荒らされ、琉球という独自の文化が一時なりともストップしなければ、もっとおいしい料理が生まれたかも しれないと思うと、なおさら残念に思った。
 翌日は朝早く八時ロビーに集合。お酒の残った体を引きずり見学コースをまわる。心なしか現地案内の人も一緒に深酒をした ため疲れている。そんなこんなで普天間基地を見学。あまりに広すぎて日本ではないような気がした。そんなこんなで普天開基 地を見学。あまりに広すぎて日本では無いような気がした。たとえ50年前の戦争とはいえ今もそのままの領地というのはおか しい。日本が負けて」経済が自立した時点でもう離れてもいいのじゃないか?
タクシードライバーから聞いた話だが、沖縄は占領地という意識が今にもあるようで、アメリカの兵隊は現地人を人と思ってい ない。むこうの兵隊は沖縄を「ロック(監獄)」と呼ぶそうだ。しばらく沖縄という監獄で訓練をして部隊に戻るための訓練地 にされているらしい。マナーも悪いらしく、五年前の少女拉致事件などは有名だが、それは氷山の一角で、表沙汰になっていな い事件は非常に多いと聞いた。
 沖縄戦最大の激戦地であつた高台に登って町を見下ろしてみて、そんか占領された地、沖縄でも昔から住んでいた現地の人た ちは、そこが故郷であり、先祖代々譲り受け、守ってきた土 地なので、例え近くに飛行湯があってうるさくても、住んでゆかなければいけないという現実が町並みから感じられた。
 全国各地から集結した守備兵の塔があちらこちらに見うけられる。トーチカは残っていたが、ぶ厚いコンクリートが破嬢され、 激戦の様子が垣間見れた。その丘はアメリカ軍から最も恐れられ、何日も足止めを食らった程激戦だったそうだが、そこも長く は続かなかったようだ。先祖の地から速く離れた所で死んでいった人はどんな思いでこの高台から沖縄を見つめているのだろう か?
 この沖縄平和交流を通して学んだことは非常に大きかった。いままで戦争とは遠い昔の出来事として学んできた覚えがあるが、 自分の家の家族は東京に住んでいて戦争で新潟の実家に戻った三日後に、東京大空襲があったり、祖母が父を抱いて村民避難所 から赤々と燃える長岡市街を見ていた話、母方の祖父が戦地に出て、広島側の山が光った後ドカーンという地響きがして「隣の 広島でばかでかい爆弾が落ちた」と聞き、次の日広島市内に行った時、皆焼け爛れて黒焦げになった人達の行列や死体の山を目 の当たりにした話などを聞くと、直面した現実として考えさせられる。
 同様に日本も勧告や近隣諸国に対し侵略戦争を行い、日本語教育や文化の強要などひどい事を繰り返してきたので、一概にア メリカが悪いとか言えないけれど、国を引っ張ってゆく政府が国民を操作して戦争という無意味でどんな文化や経済発展をスト ップさせるような行動に持ってゆくことは、これから将来あってはならない事だと実感した。情報を操作して嘘にまみれた新聞 や、天皇崇拝を重視した内容の教育など、真実が見えない中で戦わされ、死んでいった多くの人々のことを思うと、これから先 私たちがすべきことは、あらゆる情報を自分で学び、いろんな人々と出会い、いろんな部分を吸収し、正しい道、あるべき自分 を見つけ、二度と過去を繰り返さない未来を作るべきだと思った。




沖縄平和交流に参加して
県職労長岡支部高校分会 加藤隆夫

 沖縄とは一体なんだろうか?基地の島、アジア・太平洋戦争における国内唯一の地上戦が行われた最大の激戦地、いずれも正 しい答えであると思う。
 那覇空港に着いてまず目についたのは、胴体に日の丸のついている自衛隊の飛行機であった。基地の島に着いたんだなあーと 感じたと同時に、異様な光景として目に映った。 聞けば那覇空港は軍民共同の空港であると同時に、陸・海・空の3自衛隊の 合同舞台が存在する唯一つの空港であるとのこと。自衛隊機が多いのは当然であると同時に、危険と隣り合わせであるというこ ともうなずける。
 私たちの視察の案内役を努めてくれた沖縄平和運動センターの岸本さんによれば、ニアミスとは運輸省の決まりでは300メ ートル未満の接近のことであるが、ここでは200メートル未満に接近したときに限定されている危険な飛行場であるとのこと である。何ともいえない基地の島の厳しい現実が伝わってきた。
 私たちは早速、沖縄平和運動センターの用意してくれた車内マイク付きのマイクロバスに乗り込んだが、このバスが宜野湾市 職員労働組合のものであったことに驚いた。きっと私たちのように全国各地からやってくる仲間を案内し、沖縄を知ってもらう ために多額の財政を投じて購入したものと考えると、平和運動にかける熱意が伝わってきた。
 最初の見学地は平和祈念資料館であったが、見学時間が1時間であったためほんの一部しかみることができなかったことは残 念であった。今度もし機会があればじっくりと見学したいところであり、今後沖縄平和交流を企画するのであれば時間配分を検 討したほうが良いのではないかと思う。
 資料館は大田けん制から稲嶺県政に変わったために少し展示物が変わったとのことであるが、沖縄戦の生々しい実態を学ぶこ とができるし、平和の礎に代表されるように、平和にかける沖縄の人々の思いを感じることができる貴重なものである。とりわ け胸を打ったのは、展示のむすびの言葉で、沖縄戦の実相に触れ「この なまなましい体験の前では いかなる人でも 戦争を V肯定し美化することは できないはずです」と述べていることでした。
 次に訪れたアブチラガマは、入り口は小さく、頭に気をつけながら入らなければならないほどである。しかし中に入ると大き な空間が広がっていて、陸軍病院の分室として使用されたということである。天井からは水滴が垂れ、お陰で水分補給ができた ということだそうだが、湿気が多くとても健康的とは言えず、もって入った懐中電灯を消すと、本当に真っ暗闇が広がっている というこのガマで、米軍からの攻撃をたびたび受けながら生産を極めた地獄絵が展開されながらも、逃げることさえできないで いたということは想像を絶するものとして大きなショックを受けた。
 翌日は、普天間基地と嘉手納基地を見学したが、普天間基地は移設が検討されているが、米軍にとっては古くなった基地を新 しい機能を持った基地への更新と考えていて、とても整理縮小ではなく、まったくのまやかしであるということを知って、沖縄 のことが私たちには正確に伝えられていないということを実感した。また、嘉手納基地は「安保の見える丘」から見ると、見渡 す限り広く、まるで地平線が見えるようなあまりのひろさに驚いた。しかし岸本さんの話によれば隣接している弾薬庫の基地は 、嘉手納基地よりもっと広いということである。こんな膨大な土地が、終戦後住民を収容所に隔離して、その間に接収してしま ったということを聞くと、あまりのもひどすぎる仕打ちと思わざるを得なかった。住民の四人に一人が亡くなったといわれる戦 争が終わってみれば、住む家もなく土地も奪われてしまったという中で、またしてもどん底の生活を余儀なくされた住民のこと を思うと言葉も出なかった。
 しかも、沖縄をはじめ多くの尊い義性の上に成立した日本国憲法は、最大の激戦地であった沖縄の住民には適用されず、アメ リカの施政権に組み込まれ、もっとも平和を願う沖縄の住民の前にアメリカ軍のアジア戦略の要である基地が存在するという矛 盾に満ちた生活を住民は余儀なくされている。
 戦争とは何か、平和とは何かという貴重な体験をさせていただいた今回の沖縄平和交流の旅は、私にとって今後の大きな財産 になるものと思います。
 交流団の最年長であるにもかかわらず、参加者の皆さんのお陰を持って有意義な交流会をさせていただいたこと、そして企画 をしていただいた長岡平和センターと、団長として私たちのお世話をいただいた中沢事務局長に感謝申し上げます。
 最後になりましたが、那覇市長選の疲れも癒えないのに私たちにお付き合いいただき、しかも適切な説明とご指導いただいた 沖縄平和センターの岸本さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。

 (追伸)

 夕食交流会や泡盛のことなど、まだまだ報告することは多くありますが、またの機会とさせていただきます。




第4回沖縄平和交流に参加して
県職労長岡支部 横山松美

 2000年11月23日より、初めて沖縄県に平和交流を目的としていってきた。
 暖かい気候であり修学旅行者や観光客も多く、平和という思いの見方がなければ、日本で唯一の地上戦が行われたことを忘れてし まうすばらしい南国ではないかと思う。
沖縄平和センターの岸本さんからご案内を頂き、目で見たことの背景にある悲惨さと問題点を詳しく説明してもらい、つくづく 戦争をしてはいけないことをあらためて感じさせられた。
ガマ(洞窟)を案内してもらった。米軍上陸により避難し、抵抗をするために日本軍や一般人が入ったところである。説明をして もらい、恐怖や餓えは想像を絶することだったんだろうと思う。昨年6月、「はぐるま座」の「南の島から」の公演を鑑賞した。
まさにその公演を思い出した。舞台では小さなガマであったが、実際は数百人単位で入れる規模で病院としても使われていたそうで ある。全員で懐中電灯を消すと真っ暗となった。闇の中では上下の関係、恐怖や餓えから人間が人間で無くなることが生じていたと思 う。公演では「赤ん坊が泣けば敵に見つかる、出て行け」と日本兵から言われる場面があったように記憶している。見学した2ヵ所目 のガマの碑には80名余の集団自決とその内6割が十八歳未満と記載されていた。また、道沿いにちょうど一軒分くらいの空き地が点 在しており「何だと思いますか」との問いがあった。「家族すべてが帰らぬ人」となった家跡だそうです。戦争の悲惨さのほんの一部 であり、当時はもっと多くの惨劇が起こっていたと思う。すべて私たち人間の行った戦争での結末であり、二度と行ってはいけないこ とと思う。
普天間と嘉手納基地も案内していただいた。広大な敷地を占めており、危険性や地域の発展を妨げているが反面、多くの雇用を抱え ているとの現実もあるようである。しかし、戦争のための基地であることには間違いない。
沖縄の海はブルーやグリーンで美しかったが、55年前の悲惨な戦いとその後もそのことを引きずっている現実を忘れてはいけない 。貴重な見聞をさせていただいた。戦争を引き起こすのは人間である。平和と自然を守るため、多くの人たちと思いを同じくしていか なければならない。