沖縄平和運動センターとの交流会に参加して
越後交通労働組合 三浦 満
今回5回目を迎えた沖縄との交流会を実施するにあたり、ご支援・カンパをしていただいた、長岡平和センター加盟労組の皆様にこの紙面を借りて御礼及び感謝を申し上げます。
さて、初めて行く沖縄!観光目的で無いのは承知の上。何の知識の無いまま、不安と心配を抱えたまま那覇に到着。岸本事務局次長の顔を見た途端、気持ちが楽になったのを鮮明に覚えています。2泊3日の行程で見学した中で特に印象深かった場所2〜3ペンを取らせていただきます。
沖縄とは「基地の中に沖縄がある」とよく言われます。「安保の見える丘」から見た米軍基地は嘉手納町の80%を占め、東京ドームの400倍、面積20平方km、4,000mの滑走路が2本、羽田APより大きく、我国最大の空港機能を持つと言われております。これが有名な米軍嘉手納基地です。普天間基地も近くにあり、これら2つの基地から戦闘機・輸送機が月〜金曜日まで昼夜関係なく離発着を繰り返し行われているため、騒音はハンパではなく、付近の住民は常にこの騒音に悩まされているのが実態です。この事については、砂辺の公民館長から熱弁で語っていただきました。これら2つの米軍基地の広さにただ唖然とするばかりで言葉も無いくらいでした。米軍基地は2か所ばかりでなく、沖縄本島の方々に点在しています。用の無くなった基地は切り売りする形で返還し、攻撃に重要な基地は将来返還の見通しは全くたっていないそうです。
2日目にこの場所を見学したことにより、私はこのことを度々思い出すでしょう、昼食前に見学したあの アブチラガマを、電池を持って入りました。当然無ければ歩けません。当時このガマ内で想像を絶する生活・避難・治療その他が、非常に足場の悪い真っ暗闇で行われていたことはとても言葉で表現することはできません。衝撃の一言につきます。その他の見学地でも岸本さんから細かく丁寧に説明をしていただきました。
沖縄戦から現在まで沖縄の人達が平和を強く求める気持ちが痛い程わかりました。まさに百聞は一見に如かず、本当にためになった交流会でした。また、この交流会に際し参加された皆様から色々ご協力いただき感謝申し上げます。ありがとうございました。
沖縄平和交流を終えて
長岡水道労組 青柳 真樹
“沖縄”からどんなイメージを思い浮かぷだろうか?南国リゾート、アフターズスクール、沖縄民謡、なごやか(ゆっくりと時間が進んでいる)という明るい面と戦争血戦地、米軍基地問題、高失業などの負の面がある。
今回、私は後述を学ぱせてもらう機会に恵まれ感想文を書いている。読んで頂く皆さんの“考えるキッカゲとなれば幸いである。
沖縄空港から市街地に向かうと直ぐにフェンスに囲まれた敷地が見えてきました。車で二十分位の移動で何箇所を出てくるのです。それも、小さな町がすっぽり治まってしまう広大な敷地です。それに対して沖縄の街は一見すると集約された都会のような商業地、密集している居住地と歴然たる違いに驚きを感じました。
嘉手納基地が見える丘(別名 平和の丘)からは戦闘機の飛行・着陸、それに伴う轟音を確認、居住地の近くを飛ぶ姿に違和感をおぼえました。沖縄の空は一番上空を米軍、真ん中を自衛隊、低空を民間機が利用ときまっていて管制も沖縄本島周辺は米軍管制に切り替わる為、非常に飛行が難しくニアミスなどは日常的にあるとのことでした。また、騒音問題では住居を二重サッシにして音を遮断するが代わりに冷房費がかさむが保証されない。移転補償額も充分でないなどの反面、在日米軍は”おもいやり予算”のため光熱費はタダ (本国への電話代は個人負担)、住居なども米式のため同じ2LDKなどでも大きさが全然違うとのことでした。
さらに“日米地位協定”のため、在日米軍が交通事故を起こした場合泣き寝入りになるとも伺いました。
お隣の韓国ではW杯中、中学生が米軍車両に引かれ亡くなりました。マスメディアの取り上げ方や抗議運動をみると、日本は本当に独立国なのか疑われると思います。政府は湾岸戦争で諸外国から「金は出すが行動(人)は出さない」と非難を受けた経験からイージス艦を派遣しました。しかし、本当に非難されるべきは国民の権利を守れないことにあると思います。
近頃、夕力派と呼ばれる人たちの言動がよく取り上げられています。しかし、本当に軍隊は国民を守るのでしようか?北朝鮮、アフガニスタン、インドネシア、戦前の日本extとても国民を守っていたとは思えません。軍は国民を守るのではなく、権力機構を守る為に存在があるのではないでしょうか。軍隊の必要性を説く人たちは、自分が戦場に赴くでしょうか?自分は行かずその他大勢の人に犠牲をしいて行くような気でなりません。
皆さんが良く知っている「ひめゆりの塔」の資料館も見学させていただきました。ひめゆりか有名ですが多くの学校が学徒動員で亡くなっています。資料館では当時の生存者の方がポランティアで説明をしています。修学旅行の生徒さん達が泣いていました。そして記載室と思われる所で大勢が心に感じたことを書いていました。
また、自然の防空壕(沖縄ではガマ)も見学しました。多いところでは何千人もの人たちが暗闇と飢えと恐怖の中で何ヶ月も暮らしていたとは、私では数日も耐えられそうにないと感じました。ガマの出口では米軍による火炎放射攻撃の黒い痕が残っていました。沖縄の小学校もあまりガマには見学に来ないし、知らない子供も多いとのことでした。戦争体験の方があまりにもむごい体験をしたため、話したがらなかったという面もあるようです。
最後になりますが、有事法制論議が現政権では大変盛んです。それぞれの考えはあると思いますが、沖縄の過去・現在を実際多くの方が自分の目で見て、感じて論議されることを願います。貴重な体験をさせていただきありがとうございました。
沖縄平和交流に参加して
長岡水道労働組合 久保 憲二
私は11月19〜21日の3目間、沖縄平和交流に参加してきました。
今回で私は二回目の沖縄でした。初めて沖縄に行った時は、有名どころを巡る一般で言う観光旅行そのものでした。
しかし今回は、一般の観光旅行ではなかなか行けない場所を見学させて頂きました。`
そのひとつは米軍基地(嘉手納飛行場と普天間飛行場)です。
市街地のど真ん中に広がる莫大な土地から、F15などの戦闘機が次から次へと沖縄の空へ飛んでいきました。その飛行の際に出る爆音と言ったら、ものすごい音で短時間いるだけでも耳が痛くなりました。この付近に住む人たちは、この爆音を毎日のように聞かされていることを知りました。騒音によるやかましさは酷いものです。また、いつ何が起こるかわからない状況の中で生活していかなければいけないと思うと、憂うつ感と怒りを覚えました。
つぎにガマ(鍾乳洞)です。私は聞くまでは知りませんでしたが、それは米軍の10
・ 10空襲やそれ以降の米軍のすさまじい艦砲射撃、空からの機銃掃射などの際に、人々が逃げ込み身を守った避難豪です。
ガマに入った感想は、、前も見えないほど真っ暗で、それに足元が滑って歩きにくく怖かったです。そんななかに炊事場や寝床などがありました。
現地の方から案内してもらい、そのガマの中で戦争を体験したお話しを身振りで聞かせて頂きました。そのお話の内容は、私が想像している以上に戦争は残酷なもので、改めて平和の尊さを感じました。
私は今回の沖縄に来る前、何かの参考になるかと思って、ビデオ店で「ひめゆりの塔」というビデオを借りて観てきました。その内容にはガマも紹介されていました。沖縄の戦争について多少なりとも勉強になりました。次回参加される方はぜひ参考にして下さい。
最後になりましたが、このような場所に見学させて頂き、また現地の方から直接お話しが聞けたことは、私にとって大変貴重な体験をさせてもらいました。これからはこの機会を気に、ニュースや新聞で掲載される平和に関する記事には今まで以上に目を通して、問題意識を持ち、平和について考えていければと思っています。
沖縄平和交流に参加させて頂き、本当にありがとうございました。
沖縄の視察を終えて
畔上 学
今回の視察で、初めて沖縄に行かせてもらいました。自分の中のイメージは、観光地ですごく華やかな所と思っていましたが、そのイメージを覆す戦争が残していったものが数多く残っていました。
那覇空港を出発してすぐに目に人ったものは、鉄柵に囲まれた基地。空港の隣に基地があるなんて、想像もしていませんでした。那覇空港の上空では、民間旅客機と戦闘機が衝突しないように、民間旅客機が低空飛行をするという危険な状態が続いています。一つ間違えれば大事故になりかねません。自分たちが乗ってきた飛行機もそんな状況で飛行をしていたと思うとぞっとします。
視察地に向かう途中で、長岡では見慣れない車のナンバーがありました。聞くところによると、アメリカの軍人が所有している車のナンバーで、その車が事故を起こしても修理代などの支払い義務が無いそうです。現地の人は、その車を見たら近寄るなと言うくらいです。そういう車と一緒に公道を走ることは、自分にはできません。沖縄の人たちが毎日どんな気持ちで運転しているのかを考えると、心が痛いです。
自分が沖縄を視察した中で一番驚いたことは、嘉手納基地から飛び立つ戦闘機の騒音。訓練という名のもとに、日中爆音が鳴り響いています。そんな環境の中で勉強をしたり仕事をしたりしている人たちがいるという現実です。爆音に耐えられず引っ越す人も後を絶ちません。今もなお、裁判で戦っている人もいます。
今まで戦争や平和について、何も考えたことかありませんでした。そんな自分がすごく恥ずかしいです。沖縄だけではなく日本中に、まだまだ戦争で傷ついた人々がたくさんいます。そういう現実から目をそらさずに、これからは戦争や平和のことを考え、自分を含め人々ができることがあるかを考えていきたいと思います。
平和交流に参加して
木村 秋津
「何も知らないほうが、たくさん詰め込めると思いますし、いろいろと学んで来たいと思います。」一番初めの顔合わせ会の時、こんな様なことを話したと記憶しています。確かに今回の交流会で体験したりして学んだニとは、全く知らなかったことも多く、問題意識のかけらも無い毎日を、反省する良いきっかけになりました。
まず、現在の沖縄についてです。とにかく基地の規模の大きさには驚きました。キャンプ地も含めれば基地の中に沖縄県があるといつか感じをも受けるくらいでした。その基地の爆音訴訟のことは一応知ってはいました。ですが、次々と戦闘機が離陸して行っては物凄い爆音をたてて通り過ぎる、その音の大きさと言えば想像を絶するもので、耳が押しつぶされるほどの大きな音でした。この場所で暮らしている人は毎日こうなのかと考えると、憤りとやるせなさでいっぱいでした。
そして、戦時中の沖縄についてもたくさん学ぶことができました。恥ずかしいことに、今回の交流会の日程表の中で初めてガマという言葉を知りました。説明してもらって大体こんなものではないだろうか?と想像して行ったのですが、中に入らせてもらった上、その中で本当に戦争を体験した方々の説明を聞くと、想像よりすっと冷たく湿った感じに思えましたご説明を聞いたといえば、ひめゆりの塔の資料館で、木当にひめゆり部隊に所属していた方の話を聞くこ痩ができました。「あの頃はみんなそう教えられていたから、殺されるならいっそ自害しようと、一度、手榴弾を手に持ったけど、末っ子だったから姉に甘えて死にたくないとせがんだのよ。」と、その方は話してくれました。人の命ってそんなに軽く扱われてしまうのかと、本当に考えさせられました。
長岡に帰ってきてから、今回の交流会ではいろいろ詰め込むことが出来ただろうか、と自分なりに考えてみました。詰め込むもなにも、忘れられそうに無いくらいの衝撃的過ぎる話ばかりだった様に思えます。そういうことを知るのは少し恐ろしいことかもしれません。ですが、知らないということはもっと恐ろしいことのように思えます。平穏すぎる毎日の中で、見失っていることや実は間違っていたりすることも、何かをもっと知ることによってふと気づくものかもしれない。そんなふうに考えると、この交流会で学んだことが何かにきっとつながるはず…と信じています!
最後にこの交流会でたくさんの方々出会い、為になるお話を聞かせていただいたことに心から感謝したいと思います。ありがとうございました。
「第5回沖縄平和交流」に参加しての感想
全農林中越分会 佐藤勝
今回の平和交流参加にあたっては、前回参加者の薦めもあり、折角の機会でもあり仲間に入れていただいた。
沖縄の問題に関しては学習会などを通して,、ある程度の認識を持っていたつもりであるが、今まで実際に沖縄には行ったことはなかった。
実際に沖縄に降り立ち初めに思ったのは、ここが沖縄なのかと、やはり観光地をイメージしてきており、基地の街と聞いていても「玄関ロ」はそれらしいのだろうと思っていた。
しかし、空港内ではそれらしい「お出迎え」があったものの、外に出てみればすぐに基地やら軍港であり、全然沖縄らしくない。いや、これが実際の「沖縄らしい」なのか。
案内をしていただいた岸本氏の話の中で印象に特に印象に残ったのはふたつ。
ひとつは、自治体が米軍に対して闘っているといること。米軍航空機が上空を通過する所に高層ホテル(私らみたいのが格安で泊まれるらしい)を建設中であったり、返還が決まった土地(正式には返還されていない)に役場庁舎を作ってしまったり,これらの場所ではまだ、各種訓練がされるということだが、当地区の首長等いわく、「訓練できるものならやってみろ!」と言っているとのこと。心強い。
いまひとつは、岸本氏がしきりに言っていた「思いやり予算」という言葉。この施設を作るのも「思いやり予算」で、あれをこうするのも「思いやり予算」で、という具合。最後に「思いやり予算は、,結局はあなた方が納めた税金、その税金が使われているのだから、沖縄県だけの問題ではなく、国民全員の問題です」。まさにそのとおり。普段身近に感じていないから、あまり関心を待ってないのかもしれないが、沖縄の問題は私たち全員の問題なのであると、改めて意識した。
今回、実際に現地に触れ、運動をしている方や住民の方の話を問いたことで、またひとつ意識を深めることができた,機会があればもう一度行ってみたいが、沖縄に行ったことのない方はもちろん、「観光で沖縄に行ったことはあるけど」いう方など、いろんな方たちから参加してもらいたいと思っている。持っている沖縄のイメージとのギャップは激しいですよ。
第5回沖縄平和交流に参加して
総合生協労組 和田清市
実を言えば、前々から沖縄には憧れがあり、是非一度は行ってみたいと思っていた。しかし「飛行機が怖い」日本の農家を背負う私には大地から足が離れることを想像すると、潜在的に鳥肌がたつのだ。しかも業務も多忙を極め時間の余裕もなかなか作れなかった。
今回、上司の係長(労組支部長)の「気晴らし、気晴らし。仕事のサポートはまかせて!」という暖かい言葉で決断でき、この沖縄平和文流に参加することになった。人生はじめての「テイクオフ!」私はまた一歩成長した。
初日、、11月の秋というより冬と言うべき新潟の天候(気温5℃)の中を出発、向こうは暖かいという言葉につれられ薄着にしたことを少し後悔した。でもやはり沖縄、現地に着くと何もしなくても額に汗がにしむ20℃、また、出迎たの平和センター岸本事務局次長の濃い顔(???)を見ると「沖縄なんだ!」と妙な実感が沸いてきた思いがしました。
しかしこんなウキウキ・ワクワク気分もほんのつかの間でした,,実際にバスで移動をはじめると、まるで基地の中を走っているような底知れぬ恐しさといえば大袈裟ですが、そんな嫌な気分な味わいました。岸本さんの「良い場所は、全て米軍関係が使用しているんですよ,」という言葉からも、私たちがあまり気づかないだけで実際にはものすごい事態になっているのだということを認識させられ、強烈な印象になりました。最初の見学地の嘉手納基地ではものすごい爆音で、普段の私たちでは想像できないぐらいものすごい劣悪な環境で生活していることに正直言って恐怖感を覚たました。
一時は暗い気持ちになりましたが、そんな中でも夜の交流会では、沖縄の皆様のパワーにはびっくり、楽し.いひとときが過ごせました。もちろん沖縄の料理・お酒のおいしさにも感動しました。減量中だったのですが、お腹も益々膨らみました。
2日目、なんと言っても「アブチラガマ」は衝撃的でした。ガマの中での生活を想像するとあまりの恐ろしさに戦慄さえ覚え、戦争の悲惨さを痛感しました。後は「ひめゆりの塔」などを見て回りました。沖縄の華やかな観光的な側面の裏には「戦争と言う悲惨な体験」「基地という現実」、そういう悲しい面を併せ持っている真実をあらためて痛感しました。しかも今回のような体験は、言葉や文章ではどう表現しても正確には伝えられないでしょう。もどかしさがつきまといます.百聞は一見にしかず、是非多くの人たちにも体験できればといことで、こういった機会を与えてくれ,た方々には感謝しますし、反面では現在の私たちは戦争のない平和な世界に暮らしているのたと感じました。だからこそ、戦争の悲惨さを後世に伝えることが私達の大事な役目であると思いましした。今後もこういった活動に積極的に関わり、自分のできる範囲で頑張りたいと決心しました。
第5回沖縄平和交流に参加して
総合生協労組 川崎努
今回はじめて参加させていただいた、楽しかった沖縄交流について報告をいたします。
日程は11月19日から21日の3日間で.、新潟ではもう肌寒い時期でしたが、沖縄はやはり暖かく、明るい雰囲気を体いっばいに感じました.また沖縄の人々の顔の彫リの深かさが印象的でした。(案内して頂いた岸本さんは特に)
初日は、勉強になった公演とメインというべき懇親会です。懇親会では、沖縄の組合の方々からも参加して頂いたので大変な盛り上がりになりました。沖縄の人もすぐに打ち解けて様々な話ができて、充実した時間を過ごせました。
2回目は、「アプチラガマ」や「ひめゆりの塔」などの見学をさせて頂きました。今回の平和文流会で一番の衝撃を受けたことは、ガマ(大きな洞窟)のような所で集団で3ヶ月間も身を寄せ合った過ごした当時の歴史を、実際に私たちが実体験をしたことです。僅か数十分間そこにいただけでも精神的におかしくなる気がして恐ろしくなりまし。結局、戦争なんて始まればなんの得もない上に、弱い人たちか辛い想いをするだけなのです。「絶対戦争はしてはならない」と認識しました。もし不幸にも戦争などが起きてしまったとしたら、私の持論ですが、命令した人間から率先して戦地に行くべきだと思います。
最終日は、自由行勧だったので沖縄、名物「シークヮーサ一」といった「泡盛jと混ぜて飲むといくらでも飲めてしまう一品を買って帰りました。
今こそ戦争のない平和な世界を確立しなければならないと強く感じました。
沖縄平和交流に参加して
長岡水道労働組合 木村 晶子
沖縄に行くのは、この平和交流で二度目でした。初めて行った時とは違い、今回の沖縄は楽しくなかったです。11月でも色とりどりの花が咲く、明るい美しい島の様子とはうらはらに、2日間の日程を終えた私の心は暗く沈んでいました。1日目は、岸本さんがおっしゃられた『基地の中の沖縄』という言葉が印象的でした。いくつかのキャンプを回り、キャンプにつけられている名前は、沖縄戦で活躍した軍人の名前であるということを教えてもらいました。米軍にとっては活躍でも、沖縄にとってはそれだけ多くの住民や軍人が殺されたということです。そのような名前をつける米軍の無神経さに怒りを覚えました。米軍の基地を移転し、また新しく建設するのも私達の税金からその費用にあてられるということに、強い憤りを感じました。それから、安保の見える丘に行きましたが、そこは、私が想像していたところとは違っていました。コンクリートで舗装された階段を登ると、基地が見渡せる高台に出ました。広々とした基地に追いやられるようにある、狭苦しい市街。対称的でした。それまで、市街地しか見えていなかったので、都市部はやはり密度が高いと、のん気に考えていた自分が恥ずかしくなりました。私達が見学していた十数分の間にも、ごう音をたてた戦闘機が上空を何度か旋回して行きました。私はその光景に圧倒されました。その戦闘機に見とれてしまいました。我に返り、この爆音で被害を被っている住民のことを考え、感動している自分に罪悪感を感じました。しかし、ああいう戦闘機を見てかっこいいと思い、憧れの念を抱く人はいると思います。どんな大義名分があるにせよ、人を殺すゲームや映画はこの世にあふれています。そんなことを考えていくと、戦争なんてなくならないのではないかと、平和に対して絶望的な気持ちになってしまいました。北谷砂辺公民館では、爆音訴訟問題について聴き、その後ガマへ案内してもらいました。初めて入るガマでしたが、中はライトで照らされ足場も砂利がしいてあり、思っていたより明るくきれいでした。そこで、沖縄戦の実体験をお話していただき、その生々しさと悲惨さで重苦しい気持ちになりました。米兵に暴行され放置少女の遺体。負傷してガマに残らざるをえなかった老人。「戦争は女性と老人には特に惨めですよ。」と言われた言葉が忘れられません。2日目には、日程の中で一番行きたくないと思っていた南風原陸軍病院壕跡、アブチラガマへ行きました。行く前から緊張していました。前日に行ったガマと違い、アブチラガマの中は真っ暗でした。手すりもところどころ無く、足場も滑り、そういう状況が既に私にとって恐怖でした。助かる見込みのない重傷者、息絶える人、多くの人でひしめきあい、食料も死ぬための青酸カリもわずか、そんな苦しみの中でじっと耐えるだけです。まさに地獄絵図だったと思います。そんなひどい状況だった場所に今いるのだと思うと心苦しくなりました。明かり一つない中、頼みの懐中電灯を全員で消してみました。本当に真っ暗闇に閉ざされ、しばらくしても目がなれず、身動き一つできないような状態でした。もう恐ろしくて早く地上に出たかったです。説明は明るいところで聴かせてもらうので、とにかく、とりあえずここから出たいと思いました。出口の明かりが見えてきた時は、やっとここから出られるとほっとしました。とても怖かったので、多分この先行くことはないと思います。ただ暗いとかそういうことではなくて、想像を絶するような悲劇が起こっていて、苦しみ、悲しみ、恐怖や憎悪様々な思いがうずまき、今もなお残っているような気がして恐ろしく思えました。ただ、救われたのは、あのような極限状態の中でもガマにいたことで生き残ることができた人がいたという事実です。その日の午後からは、平和祈念公園といくつかの塔などを巡りました。沖縄の戦争資料館は証言がテーマになっている、ということを教えてもらいました。とても全部は読み切れませんでしたが、年表や当時の新聞記事などとはまた違い、住民の体験談や感情が記されていて、戦争の残酷さを生々しく伝えていました。作り話ではないその内容の凄まじさに、ショックを受け、読むのが辛くなってしまいました。写真よりも、映像よりも、淡々とした証言の方が、私の心に深く突き刺さりました。ひめゆりの塔にも、証言がありました。さらに、そこには実際に生き残られた証言者の方もいらっしゃいました。まさか、実体験者から直接話を聴けるとは思っていなかったので、驚き、話に聞き入りました。当時16才だったそうです。逃げ惑い、ついには手榴弾で自殺する覚悟を決めたそうです。自分がその年齢だった時と照らし合わせてみると、とてもかわいそうになりました。若くて一番楽しい時期なのに、そんな辛いめに合わなければならなかったと思うと、気の毒でなりませんでした。ひめゆりの塔は観光地化していると賛否両論ありますが、私は観光地化しても、一人でも多くの人がこういう現実と向き合い、戦争の罪深さを感じて帰ることができればいいと思います。その他に案内してもらった三つの塔は、恥ずかしながら、初めて聞く名前の塔ばかりでした。さらにいくつかの塔を車窓から発見し、その存在の多さに驚きました。年齢性別に関係なく、それだけ大勢の住民を亡くしてしまったということです。この沖縄平和交流は本当に盛りだくさんな内容でした。これでもか、これでもかと見せられたような感じでした。2日目の終わり頃は、もう言葉も無く、溜め息が出るばかりでした。やはり戦争は苦しみや悲しみしか産み出しません。戦争は人間が起こすことです。人間の意志によって起こさないこともできます。あんな悲惨な思いを二度と味わってはならないとつくづく思いました。一方、今なお堂々と基地が存在し、爆音や兵士の犯罪などによって、平穏な日々が奪われている人々が数多く存在します。そのような被害を受け、闘っている人々がいる以上、戦争はまだ完全には終わっていません。沖縄の過去と現在をこの目で見て、基地問題にも無関心ではいられなくなったし、振り返って自分がいかに平和であったか認識させられました。過去は変えられませんが、未来は変えられます。沖縄で学んだ戦争と平和、基地問題について、各自が持ち帰って回りに伝え広める。そうすれば、沖縄からの平和の輪が大きく広がっていきます。平和への可能性を十分に秘めた沖縄をこれからも応援し、協力していきます。
沖縄平和交流に参加して
日赤労働組合 長岡支部 熊倉 美奈子
今回、沖縄の戦争の悲劇とアメリカ軍による基地使用で様々な問題を抱えている沖縄の現実を学び、平和の尊さ・反戦・平和運動について考えようという目的で参加しました。私はまず、戦争というと祖父の話など、TVの中などでしか聞いたことぐらいで戦争の跡というのは実際にどんなものなのかわかりませんでした。また、基地のある地域の生活の様子も何が一番辛いのか、どういう状況なのか、見当もつきませんでした。沖縄に着き、空港から嘉手納基地が見える「安保の見える丘」まで行く途中は常にフェンスがある景色であり、基地から出る航空機の騒音にはとても驚き異様な感じを受けました。普段聞きなれている航空機の音とは別段に近いところから聞こえるので、本当に耳を塞ぎたくなるような感じで、こんなところでは生活できないと思いました。そして、実際に長年住んでられる北谷砂辺公民館の館長さんに爆音訴訟問題、空襲の話など聞かせて頂いたり、ガマ・ひめゆりの塔の見学もさせてもらい、ただ「悲惨」という言葉しか思えず、聞く、見るだけでもとても心苦しさを覚えました。ある話の中で「今も戦闘を行っている所に嘉手納基地から物資など運んでいるということは敵国から見ればアメリカの基地を置いている日本も参戦しているのではないでしょうか?」と言うことを聞き、沖縄だけの問題ではない、どこに基地があったって、日本の問題として考えなくてはいけないのだと考えさせられました。
第5回沖縄交流会に参加して感じたこと
日赤労組 長谷川 綾子
ある飲み会で突然、この交流会へのお話をいただきました。即答「行かせていただきます」でした。青い海とサンゴのイメージで参加した交流会でしたが、1日目、いや1時間せずに、自分の浅はかさに気付きました。青い海とサンゴが見てきた沖縄のつらい歴史でした。初めての沖縄に戦争や人の死について学習させられることとなり、正直言って重く苦しい研修でした。私は、仕事中に人の死や苦しみに触れなければならないことがありますが、それとはまた別の思いがありました。戦争中、女学生たちが看護婦として従事していたという話は小学校や中学校の授業で教えられる部分ですが、どんな場所、環境でどんな仕事をしていたのかは今回初めて知ったことでした。国の命令は絶対。いやだとは言えない、そのころの教育では言おうとも思わせないようにしていたのかもしれませんが。『戦争に参加した彼女たちはどんな思いだったのだろう。』そんなことを考え、手記を読みました。やはり戦争なんてやりたくないとはっきり書かれたものは私が読んだ中にはありませんでした。私は思いました。『この人たちを助けたい』と思いながら働いていた彼女たちは、命令のために助けたいと思う人々を死においやらなければならないという仕事を持っていました。こんな状況ありえない。今の日本では女性にも物事を正そうと発言する権利があります。もちろん私たち看護師も医師の指示があっても、疑問があれば質問し、意見することもできます。この戦争の時代に、女性、子供、だれでも、誰にでも意見することができたら、きっと別の歴史があっただろう、そう思ったのでした。こんな辛い歴史がありますが、沖縄の人たちはすごく元気。それが私の持った沖縄への新しいイメージでした。私の職場に沖縄の女の人が入院したことがありました。びっくりするくらい元気な人です。そしてもう1つ。沖縄の米軍基地撤退について、日本政府はどう考えているのかな、ホントのところは。ふしぎです。とりとめもなく書いてしまいました。最後に交流会の参加要項に書き足してほしいことがあります。それは持ち物に、軍手、懐中電灯、よごれてもいい運動靴、を入れて下さい。そして、たくさん歩くことを付け加えて下さい。それから、もう1日自由行動か楽しい観光の日を入れて4日の日程にして下さい。勉強させていただき、ありがとうございました。