My Good Match horses
このページは私が今までそして今お世話になっている馬の中から、特に縁の深かったお馬さん達への感謝のページです。
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| アスワン |
ホクトヘリオス |
メジロパーマー |
ダイユウサク |
ヤマニンゼファー |
サニーブライアン |
ヒシミラクル |
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父ノーザンテースト、母リリーオブザナイルの子として1981年デビューしたアスワンは吉永正人(現調教師)を背に2戦目で新馬戦を勝ち上がりました。アスワンと言う名前に惹かれ、また、その鋭い差足に魅了されました。その後、3戦目の京成杯を1着(2着ダッシングハグロ)し有力馬の1頭として脚光を浴びる事となりました。当時、今のサンデーサイレンス産駒の如く、一世を風靡していたノーザンテースト産駒の代表馬として続く弥生賞で3着と好走したアスワンは皐月賞へと駒を進めました。しかし、3番人気のアズマハンター、4番人気のワカテンザンに1,2着され不本意な8着となってしまった(当時1億円馬として話題になったハギノカムイオーは16着と言う散々な成績であった)。雪辱の舞台となったのは東京芝2000mのNHK杯。当時のNHK杯は現代のマイルG1になる以前、ダービートライアルとしての位置づけレースでありました。そこでアスワンは7番人気と言う低評価をあざ笑うかの様に皐月賞馬のアズマハンター以下を見事な末脚で見事完封して見せた。しかし、有力馬の宿命か、レース後故障発症。ダービーの夢はついに叶わなかった。そのまま引退を余儀なくされ、種馬としての道を歩む。ノーザンテーストの後継馬として種馬生活も20年余り。主な産駒として、ダービーでサクラチヨノオーの2着、高松宮杯優勝、翌年の天皇賞でヤエノムテキの2着になったメジロアルダン。ラジオたんぱ賞勝ちのツルマイアスワン。新潟3歳S勝ちのパーソナリティワン。その他地方競馬での活躍馬も多数輩出。最近は重賞レースを勝つ様な馬が見当たらずダート馬のイメージが強く、力のいる馬場で穴を開ける産駒がいる傾向でしょうか。そろそろ種馬も引退近しですが、私の競馬デビューと共に過ごしたアスワンは北の大地で馬生をエンジョイしています。ご褒美を沢山くれたアスワンに心から乾杯です!
父ノーザンテースト、母リリーオブザナイル(Never Bend)
頑張ったレース ・・・ 京成杯1着、弥生賞3着、NHK杯1着(以上82年)
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ホクトヘリオスのデビューは1986年の8月。デビュー戦はメリーナイスの3着だったが、2戦目から3連勝(泥んこ馬場の函館3歳Sで重賞初制覇、京成杯3歳Sも難なく勝ち、朝日杯3歳Sへ駒を進る)し、1番人気で朝日杯3歳ステークスを迎える。しかしここでもまたダービー馬メリーナイスの2着となる。4歳時のクラッシック戦線は距離適正の関係で全く振るわずマイル以下の路線へ活路を見いだす。 ホクトヘリオスの脚質は追い込み。まだ若かった柴田善臣はホクトヘリオスを怒涛の追込み馬として定着させました。その結果、翌88年の京王杯オータムハンデで1年振りに重賞を勝った。続くG1マイルチャンピオンシップで尾花栗毛の流星サッカーボーイに届かずの2着。なかなか勝ち切る事はできなかったが、直線では必ず追い込んで来るホクトヘリオスに私の様なファンは魅了されていった。 ホクトヘリオスに注目して圧巻だったのが引退間近の90年2月の東京新聞杯。凡走続きの挙句の1年5ヶ月ぶりの勝利。直線だけで一気にごぼう抜きし、リンドホシを差し切り、勝利を飾った。次走の中山記念は8頭立てながら、距離延長が嫌われたため4番人気だったが、いつもより前目の5番手を追走し、2着レディゴシップに1馬身差をつけ完勝した。 その後もG1戦線の名脇役として活躍するが安田記念ではオグリキャップの5着、宝塚記念の7着を最後に引退した。皆に期待され種牡馬となるが残念ながら成功せず、1999年死亡しています。 近代競馬の先行差し中心の安全なスタイルは取らず、一か八かの追込みに賭けたレースに悲喜こもごもしていたのを今も思い出します。葦毛の君はいつも輝いていた。ご冥福。
父パーソナリティ、母ホクトヒショウ(Baldric)
頑張ったレース ・・・ 函館3歳S1着('86)、京成杯1着、朝日杯3歳S2着(以上86年)、東京新聞杯2着、スプリンターズS3着、京王杯AH1着、マイルCS3着、ダービー卿CT3着(以上88年)、中山記念1着(以上89年)
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メジロパーマーと言うお馬さんは障害レースを使った後に宝塚記念、有馬記念を勝つという離れ業をやってのけた偉い馬なのです。1989年デビューし、4歳クラッシックとは無縁に過ごした彼は5歳の6月札幌記念で初重賞制覇した。しかし、巴賞、函館記念、京都大賞典を不本意な成績で終わった彼を復活させる策として大久保洋吉調教師は腰の甘さを解消する障害レースを選んだのである。1戦目を1着、2戦目を2着した後、平地芝に戻り春の天皇賞へと駒を進める(7着)。このレースより主戦ジョッキーとなる山田泰誠との迷コンビはメジロパーマーの逃げ馬としての資質を開花さるべく突き進む。次走新潟大賞典を勝ち、あの宝塚記念へと駒を進めるのであった。この日(H4/6/14)、友人の結婚式で青森に前日より行く事になり、後楽園ウインズでお祝いに、メジロパーマーの単勝、複勝、カミノクレッセとの枠連と馬連を買って駆けつけたのを今でも記憶しています。逃げ馬の故、成績は安定せず、京都大賞典9着、天皇賞(秋)は17着と言う大惨敗。当然次走の有馬記念は16頭立て15番人気。しかしここから世紀の大逃走劇が始まる。1番人気トウカイテイオー、2番人気ライスシャワー、その他レガシーワールド、ナイスネイチャー、レッツゴーターキンなどで沸いた有馬記念。2枠3番のメジロパーマーは抜群のスタートを切るや、あれよあれよという間に10馬身、いや20馬身は離れたであろう、山田泰誠と共に中山の向正面を爽快に逃げるメジロパーマーを『その内捕まる』と皆思っていた。3コーナーでまだ10馬身近くあった。4コーナー、レガシーワールドがこの危機的状況を知るがその差はまだ5馬身。最後の急坂を越えた所で流石に足色が鈍る。レガシーワールドが迫る、ナイスネイチャーが迫る。後100m、50m。1馬身、半馬身、首、頭、ゴール。レガシーワールドとのその差、世紀の鼻差。忘れる事のできない私の名馬となりました。
父メジロイーグル、母メジロファンタジー(Gay Mecene)
頑張ったレース ・・・
札幌記念1着(91年)、新潟大賞典1着、宝塚記念1着、有馬記念1着(以上92年)、阪神大賞典1着、天皇賞(春)3着(以上93年)、日経新春杯2着(94年)
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7歳になったダイユウサクは未だ重賞レース未勝利。熊沢重文を背に差し馬としてオープンクラスにいるだけの馬であった。正月恒例の金杯でついにその遅咲きの花を咲かせ、その後大阪杯でホワイトストーンの2着と頑張ったダイユウサクだったが、その後裂蹄を発症し、半年の休養を余儀なくされた。引退の影が近づく中、最後の賭けに出た。内藤調教師は有馬記念出走権をかけて2週前の阪神競馬場新装記念(OP)で見事1着させ、勝ち味をもう一度思い出させたのである。1991年12月22日晴天の中、第36回有馬記念がスタートした。1番人気の武豊メジロマックイーンは菊花賞を勝ち、翌天皇賞(春)も勝ち、勝ったはずの天皇賞(秋)を進路妨害によるG1初の18着降着した馬である。。その他、名脇役のナイスネイチャー、不運の天皇賞馬プレクラスニーなどなど。ツインターボの逃げで超のつくハイペースの展開となる。中段待機のメジロマックイーンは4コーナー先頭のプレクラスニーを捕まえにかかる。その時黄色帽子の鹿毛馬がインコースを突き抜けてくる。出走している事さへ忘れかけられていたダイユウサクであった。「あっと驚くダイユウサク」は当時かなり有名になったフレーズである。未だレコードの2分30秒6。この年ダイユウサクは、1年の始まりである金杯と締めくくりの有馬記念を制し、「ダイユウサクに始まり、ダイユウサクに終わった」1年を自作自演した。なお、松田優作氏がこの年なくなったのも何かの因果。8歳で引退した彼は今、北海道の浦河町にある競馬観光施設「AERU」にいる。ダイユウサクに あ え る のだ。
父ノノアルコ、母クニノキヨコ(ダイコータ)
頑張ったレース ・・・ 京都金杯1着、大阪杯2着、有馬記念1着(以上91年)
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4歳の3月にデビューしたヤマニンゼファーが世間の度肝を抜くのは92年の安田記念でした。羅生門ステークス(ダート1200m)で4勝目を挙げ、ようやくオープン入りした彼の勝鞍はすべてがダート1200mで挙げたものであり、安田記念での人気は18頭立ての11番人気というものであった。ダイタクヘリオスやダイナマイトダディ(ダイユウサクも出走していた)などの快速馬達の間をすり抜け、直線で外目を豪快に突き抜けるとカミノクレッセの猛追を3/4馬身退け先頭でゴールした(馬連\16,210の万馬券)。父がニホンピロウイナーのため短距離馬のイメージが強かったのか。翌年の安田記念もニシノフラワー、シンコウラブリイなど、並居る強豪を退け見事連覇して見せた。なお、2着には14番人気のイクノディクタスが絡み、世紀の大波乱となった(馬連\68,970)。マイルまでの実績を重ねていった彼は更に400m先の栄冠めざして突き進む。またも距離不安を指摘する声。ライスシャワー、ナイスネイチャが人気で、ツインターボの強引な逃げで始まった秋の天皇賞はまたも彼の好物のハイペースとなり、府中の坂上からセキテイリュウオーとの競り合いの末にハナ差で盾を手に入れた。父ニホンピロウイナーが手に入れられなかった(3着)天皇盾を孝行息子がギリギリのところで掴んだのだった(馬連\5,800の中波乱)。7歳で引退した彼は父となり、ジャパンカップダート2着のサンフォードシチーなどを輩出しました。目標に向かって東京府中の直線ですべてを克服したヤマニンゼファーは私の名馬中の名馬です。
父ニホンピロウイナー、母ヤマニンポリシー(Blushing Groom)
頑張ったレース ・・・ 京王杯SC3着、安田記念1着、セントウルS1着、スプリンターズS2着(以上92年)、マイラーズC2着、京王杯SC1着、安田記念1着、天皇賞(秋)1着、スプリンターズS2着(以上93年)
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サニーブライアンと大西騎手の関係はその10年前、メリーナイスのダービーで2着馬したサニースワローまで遡ります。デビューからあまりパッとしなかったローカル専門騎手の大西騎手がちょっとだけ桧舞台に近づいた瞬間でした。北の大地でその血は受け継がれ、穴党も忘れかけていたその時、ドラマは始まりました。あれから10年目、大西騎手にサニーの馬が巡ってきました。10月の新馬戦勝ちをした後、翌年のジュニアCで2勝目を上げ、弥生賞で何とか3着に入り皐月賞へと駒を進めた。逃げる事で勝利してきたサニーブライアンと大西騎手は11番人気の皐月賞でも果敢に逃げた。人気馬はみな追込み馬。4コーナーを回ったところでも人気のランニングゲイル、メジロブライトはまだ後方のまま。「1番長い直線だったねー」と勝利騎手インタビューで答えていて大西騎手。ついにG1タイトルを手に入れた、それも10番人気のシルクライトニングを連れて(馬連\51,790)。当然の如く、フロック視されたまま迎えた第64回ダービー。「1番人気はいらない、1着だけがほしい」の名言を吐いた大西騎手はマイペースの逃げで後続を引離す。気性の荒かったサイレンススズカは失速。シルクジャスティス、メジロブライトはスパートのタイミングを計っていた。府中の直線で各馬一線になって追込んでくる中、サニーブライアンと大西騎手は4,5馬身先を独走。シルクジャスティスが抜け出してくるが間に合わない。「サニーブライアンだ、サニーブライアンだ、これはもうフロックでも何でもない、2冠達成!」というアナウンサーの声が響く。レース後骨折が判明し3冠は夢と消えた。同世代のシルクジャスティスは有馬記念を、メジロブライトは天皇賞(春)を、サイレンススズカに至ってはその快速を遺憾なく発揮した。その中で2冠を達成したサニーブライアンは絶対に強かったんだ!
父ブライアンズタイム、母サニースイフト(スイフトスワロー)
頑張ったレース ・・・ 弥生賞3着、皐月賞1着、ダービー1着(以上97年)
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彼の周りにはいつも「ミラクル」がついて回る。10戦目のして未勝利戦を脱出した頃、同期のタニノギムレットは大活躍していた。神戸新聞杯で5着(1着シンボリクリスエス)した後、3/8の抽選で菊花賞出走を掴んだ好運。ダービー1・2着のタニノギムレット・シンボリクリスエスが不在で、混戦模様となった菊花賞でヒシミラクルの強さ(強運)を知った。1番人気ノーリーズンがスタート直後に落馬。さらに逃げたローエングリンの作った超ハイペース(1000m通過58.3)のおかげでスタミナ勝負のレースとなった。極めつけは16番人気のファストタテヤマの2着。馬連96、070円、馬単18、2540円、3連複が344、630円の大大波乱。その後お疲れモードの彼は有馬記念、阪神大賞典、大阪杯を見せ場もなくあえなく惨敗。さあどうする?ヒシミラクル。菊花賞と同じ舞台京都の天皇賞(春)。阪神大賞典を勝ったダイタクバートラムが1番人気、ツルマルボーイ2番人気(共に橋口厩舎)。最近の春の天皇賞では珍しい18頭立て。取立てた馬もいないのに7番人気。勝ちパターンの3コーナー手前からのロングスパートで直線半ばで先頭に立ち、サンライズジェガー以下の追撃を退けた。勝って当たり前のレースだと思った。世間からすればこれも「ミラクル」。菊花賞、天皇賞(春)と一流どころとの対戦がなかったために、正当な評価をされていなっかたヒシミラクルはいよいよ真の実力を世間に知らしめる機会を得る。前年度代表馬シンボリクリスエス、前年宝塚記念優勝馬ダンツフレーム、三歳二冠ネオユニヴァース、オールラウンダーのGT6勝馬アグネスデジタルなどが出走し、実力日本一決定戦となった第44回宝塚記念。1000万購入者がいても5番人気。タップダンスシチーやシンボリクリスエスが直線で先頭に立った瞬間、ヒシミラクルがぐいぐい伸びてくる。ツルマルボーイ横山典弘が矢の様に伸びてくる。スタートが遅れ、後方にいたネオユニヴァースも2冠の意地にかけて伸びてくる。でもヒシミラクルに勝てるものはいなかった。「また、また、ミラクル〜」「菊花賞も天皇賞もダテではない!」。杉本アナの声。さあ、夏を越したヒシミラクルがどんな姿で世間をアっと言わせるのか今から楽しみである。復帰第一戦の京都大賞典では安定したレース運びで強さを兼ね備えた様に感じた。しかし10/14、右前脚繋靭帯炎を発症したとのニュース。全治は不明。無事、来春の復帰を祈るばかりである。
2004年秋、ついに天皇賞でターフに舞い戻って来ました。1年以上のブランク。初の府中コースで不向きな2000M。結果はブービーでしたが、無事に走ってくれた事が1番。続くJCでは積極果敢なレースを展開し、アワヤと思わせるものでした。このまま年内休養する予定でしたが、色気が出たのか、JRAからの要請か、有馬記念に出る事となり、参加賞を取って来ました。 さぁ、ミラクルまであといくつか?
2005年、京都記念から始動開始。別定と言えどもただ1頭60キロを背負わされ、更に天候は雨。しかし今までとは違う。後方待機のまま4コーナーを回ったところからスパート。シルクフェイマスがもがく中、しっかりした足取りで先行馬に襲いかかり、天皇賞前の試走としては上々の3着となりました。ついに2年ぶりの淀の舞台に舞い戻ってきたヒシミラクルであったが、未だ不治の病は完治していなかった。
そして、運命の日がやって来ました。
■ヒシミラクルが引退
18日、1日の天皇賞・春(G1)のレース後、右前繋靱帯炎を再発症したヒシミラクル(牡6、栗東・佐山優厩舎)が5月20日付で競走馬登録を抹消する事となった。現在は北海道・早来の田口トレーニングファームで治療中で、今後は同ファームで種牡馬になる予定。
ヒシミラクルは、父サッカーボーイ、母シュンサクヨシコ(その父シェイディハイツ)という血統。01年8月にデビューし、初勝利までに10戦を要したが、その後は順調に500万下、1000万下を勝ち上がり、3歳秋には3/8の抽選を突破しクラシック3冠最後の菊花賞(G1)に滑り込み出走を果たすと、10番人気の低評価ながら、ファストタテヤマの追撃をハナ差振り切って初G1制覇を成し遂げた。暮れの有馬記念(G1・11着)、4歳初戦の阪神大賞典(12着)、大阪杯(7着、共にG2)を凡走するも迎えた大一番、天皇賞・春(G1)では、これまでの凡走が嘘だったかのような快走を見せて勝利、続く宝塚記念(G1)も制してG1・3勝目を挙げた。その後、右前繋靱帯炎を発症し、約1年間戦線離脱するも、昨年の天皇賞・秋(G1、16着)で復帰。ジャパンC、有馬記念(共にG1)共に結果は出なかったが、今年初戦となった京都記念(G2)では3着と好走し、復調の兆しを見せていた。勝利した重賞3勝は全てG1で、大舞台には滅法強かった。通算成績28戦6勝(重賞3勝)。 (netkeiba.comより)
父サッカーボーイ、母シュンサクヨシコ(Shady Heights)
頑張ったレース ・・・ 菊花賞1着(02年)、天皇賞(春)1着、宝塚記念1着、京都大賞典2着(03年)、京都記念2着(05年)
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