富士山・自然遺産の候補にならない三つの理由



 記憶にある限り山本知事の最大(唯一?)の公約は「富士を世界自然遺産に」でした。知事選当時は「ほかに考えることはないのか」と思ったものでした。そして案の定、国の検討会によって門前払いになりました。その理由は山ろくの開発やごみ・し尿問題だということです。
 本当にそれだけか、考えてみました。

まずは演習場の解消

 なによりも最大の障害と思われるのは演習場です。富士山を思い浮かべるときに広大な裾野を無視するわけには行きません。そこに自然破壊の見本のような軍事施設があって、どうして世界遺産に登録できるでしょう。頂上からは四角に切り取られた演習場がくっきり見えます。
 自然遺産の候補地となれば、世界中にこの問題が知られてしまいます。日本の恥です。国が候補地にしないのは当然でしょう。

開発の始まりは

 スバルラインを通って、ある時、料金所が移動したことに気がつきました。開通当時にはスバルラインの入り口にあった料金所がずっと上に移動しているのです。その後、この移動した間の周辺の土地に別荘などが急増しました。
 それ以前に、スバルラインと平行してある観光会社が経営するスケート場に直行する県営の「産業道路」が建設されました。上から見て二本並んで建設された道路は異様でした。しかし、その後、料金所を移動するというさらに大胆な手段によって青木ガ原の一部は観光会社に利用されるようになったのです。私は政治家の介在があったと考えています。もしそうであるなら、これも門前払いの大きな理由になるでしょう。
入山規制が必要

 もともと富士山は信仰の山でした。江戸時代には江戸から八日間くらいの日程の集団登山が盛んになりました。有名な富士講です。
 私が初めて富士山に登ったのは高校卒業の翌年でした。そのころは山小屋への荷物はまだ強力(ごうりき)が背負い上げていました。下山時に通った砂走りはさらさらの砂で、一歩で数メートルも下りました。その快適さは格別で、これも富士登山の楽しみの一つかと思ったものでした。六合目まで下って気がつくと身に着けているもののあらゆる隙間に細かい砂が入り込んでいました。
 ところがその五年後に登ったときは、砂走りは小石がほとんどを占める砂礫(されき)になっていました。さらにその十数年後、十二人の犠牲者を出す崩落事故が起き、砂走り下山は禁止になりました。事故直後に「赤旗」の要請を受け五合目で目撃者の取材をしたことや岡猛県議に随行し八合目まで視察したことを思い出します。
 現在、登山者は年間三十万人といわれています。強力の仕事はブルドーザーに取って代わられました。砂の山といってよい富士山は登山靴とブルドーザーによって年々削られています。
 人が入ることによって自然は荒れます。諸外国でやっているように登山者の数を制限すべきです。そうすれば排泄物も少なくなります。もちろんブルドーザーなどもってのほかです。
政治を変えなければ

 演習場と金もうけ第一主義に目をつぶる一方で、「結果」の改善にばかり振り回されていたのでは、富士山は世界自然遺産どころか永久に候補地にもなれないでしょう。