閑話
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作曲家に影響を与えた女性たち

コンスタンツェ(1762〜1842)
オーストリア
天才モーツァルト(1756〜1791)が26歳の時に、19歳で妻となり、4男2女をもうけ、29歳には未亡人となる。4人の子供たちはすぐに亡くしてしまったのだが、長く生きた二人の男の子たち 次男と四男は施設に預けていた。浪費癖もあり、モーツァルトの埋葬にも立ち会わなかったということで、世界3大悪妻の一人(他の2人はソクラテスの妻、トルストイの妻)といわれてる。しかし、悪妻というのは誰が決めたものなのか?





フォン・メック夫人 (1831〜?)
ロシアに最初の鉄道を建設した人の未亡人。夫の残した莫大な遺産で、経済的には豊かではあったが、音楽に愛を求める暮らしをしていた。若き日のドビュッシーをピアニストとして雇っていたのは有名である。そしてその頃、特に、チャイコフスキーの作品を気に入っていた夫人は、チャイコフスキーがお金に困っているということを耳にし、経済的援助を申し出た。その後、チャイコフスキーに13年もの間送金し続けた。援助の金額は年間6000ルーブル、当時チャイコフスキーがモスクワ音楽院から貰っていた給料の10倍であった。援助の条件は「お互い会わずにいましょう。」というもので、文通だけの二人の交流は1200通におよんだ。




ファニー・ヘンゼル・メンデルスゾーン(1805〜1847)
メンデルスゾーンの4歳上のお姉さんである。
ユダヤ系の大銀行家の家庭に生まれた姉弟は、当時の最高の英才教育を受け、ふたりは全く同じことを学んだといわれる。姉弟はベルリンの自宅で知人たちを集めて日曜音楽会開いていた。(そこにはゲーテやヘーゲルも出入りしていたとか。)
ファニーは24歳で宮廷画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚したが、作曲家の弟に代わって実家を守り、日曜音楽会も続けた。当時のドイツでは女性、それも良家の令嬢が職業音楽家になるなど、考えられないことであった。ファニーには、音楽はあくまでも趣味にとどめることが要求されていたが、彼女もたくさんの作曲をしていたといわれる。メンデルスゾーンの「無言歌集」の中には、ファニーの作品がいくつか含まれているともいわれる。
1846年にやっと自分の名前で歌曲集を出版、以後、多くの作品を発表し始めるが1847年5月、日曜音楽会の最中に突然倒れ、そのまま41歳の生涯を閉じた(くも膜下出血?)。弟フェリックスは姉の死に強い衝撃を受け、わずか6ヵ月後に亡くなってしまう。




クララ・シューマン(1819〜1896)
ドイツマルク紙幣に印刷されているので、ドイツ在住の人々、世界中の金融関係の方なら誰でも顔を知っているはず。19世紀最高の天才女性ピアニストでもあり、作曲家でもあった。ご存知の有名な作曲家ロベルト・シューマン(1810〜1856)の妻であり、終生シューマンはもちろんブラームスを支えた人物でもある。シューマンもブラームスもできた作品は必ずクララに見せて意見を求め、クララが納得するまで、改訂してから、出版したといわれる。




ジョルジュ.サンド(1804〜1876)
ショパンの恋人」「男装の麗人」といったイメージで知られている19世紀フランスの女流作家。彼女の本名はオーロール・デュパン、結婚後はデュドヴァン男爵夫人という。27歳のときに小説『アンディアナ(アンヂアナ)』で文壇に華々しくデビューして以来、71歳で死ぬ直前まで執筆活動を続けた。サンドは、60編以上の中・長編小説、多数の短編や劇作、エッセイ、そして近年まとめられた26巻におよぶ膨大な書簡集を残している。
マリー・ダグー伯爵夫人(1805〜1876)
ヨーロッパの各国語に通じ、ピアノを弾き、文学にも精通した才女だった。シャルル・ダグー伯爵夫人であったが、年が違いすぎる上に貴族の家柄を重んじた結婚であり、夫の職務上別居が多かった。1833年、ベルリオーズの紹介でリストと知り合う。彼女は家族と煩わしい社交界を捨て、ジュネーブのリストの許に走った。リストより6歳年上であったが、パリ社交界の中心的女性だった。その後文通を通じて恋愛関係になり、それが噂となってパリには居づらくなり、2年後1年半ジュネーブに隠遁する。
コジマ (1837〜1930)
リストとマリー・ダグー伯夫人(女流作家スターン)の間に生まれる。1857年ハンス・フォン・ビューローと結婚し、2子をもうけるが、1886年はじめにはワーグナーのいるドイツに行き、1869年ビューローと離婚,翌年ワーグナーと正式に結婚した。ワーグナーの死後もその遺志をついでバイロイト音楽祭を続けた。1909年ベルリン大学より、名誉博士号を贈られた。

ロマンツェ ブラームス