フェリックス・メンデルスゾーン(1809〜1847)
            ドイツ
1809(0歳) 2月3日、裕福な銀行家の長男としてハンブルグにて生まれる。
1811(2歳) ベルリンに移住
1814(5歳) 姉のファニーと共に幼い頃からピアノ、作曲のレッスンを受け、早くから恵まれた天分を発揮し、周囲を驚かせていた。
1820(11歳) ベルリンアカデミーに入会
1825(16歳) ケルビーニに認められ、プロの音楽家を目指す。弦楽八重奏曲 Op.20、を作曲
ベルリン、ライプツィヒに引っ越す。
1827(18歳) ベルリン大学に入学
1829(20歳) ベルリン・ジングアカデミーでバッハの「マタイ受難曲」を復活上演で指揮する。
イギリス、スコットランド、ヨーロッパ各地を旅行し積極的に様々な人たちと交流し,有名になるチャンスをつかもうとしていた。
それまでのメンデルスゾーンは確かに順風満帆ではあったが、この若くて才能がある裕福なユダヤ人に対する風当たりは強かった。
1830(21歳) 10月、イタリア訪問。ベルリオーズに会う
1832(23歳) ジングアカデミーの指揮者の後任に立候補する。
1833(24歳) ジングアカデミーの選挙で敗れる。
デュッセルドルフ市音楽監督に就任。
ブラームス誕生
1835(26歳) ライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会の指揮者に就任。シューマン、クララヴィークと親交を結ぶ
11月19日、父の死
1837(28歳) 3月28日、セシリア教会の歌手セシル・ジャンルノーと結婚
非常に忙しい生活ではあったが、幸せな家庭生活を手に入れ、「言葉で言い表せないほど、幸福である」と語っている。
1841(32歳) フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の招きに従いベルリンに赴任
ベルリンでメンデルスゾーンを待ちうけていたものは、保守的で抑圧された空気、オーケストラ団員の敵意、物事の遅滞、障害、そうした問題に対する宮廷の官吏たちの言い逃れであった。メンデルスゾーンは家族といる時以外、気の休まることがなく、次第に疲労し、健康をくずすようになり、1844年、やっとの思いで王に辞任を申し出た。
1847(38歳) 5月、イギリスで、『エリア』の改訂版の指揮、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏、その他、音楽的、公的な様々な仕事をこなした。そして、疲労困憊でライプツィヒに帰る途中立ち寄ったフランクフルトで、弟パウルから、姉ファニーの突然の死を知らせる手紙を受け取った。大切な姉ファニーを失い、メンデルスゾーンはすっかり気落ちしてしまった。
10月、以前から頭痛に悩まされていたメンデルスゾーンは発作を起こし倒れた。そして、ファニーが亡くなってから約半年後11月4日、家族や友人たちに見守られ、38才の生涯の幕を閉じた。