![]() |
フレデリック・フランソア・ショパン (1810〜1849) (ポーランド) |
|
| 1810 | 0歳 | ポーランド、ワルシャワ郊外にて、陸軍学校でフランス語を教えるフランス人の父とポーランド人の母の間に生まれる。4人の子供たちの唯一の男子であった。(同年:シューマン誕生) |
| 1814 | 4歳 | ピアノを始める。 |
| 1816 | 6歳 | ピアノの演奏法を習い始めるが、習わなくとも優れた演奏をするフレデリックを師であるジヴィニーは、決して型にはめることはしなかった。 |
| 1822 | 12歳 | ワルシャワ音楽院校長に和声法と対位法を学ぶが、この師もすぐにショパンの才能を認め独創性を尊重した。 |
| 1826 | 16歳 | ワルシャワ音楽院入学。 |
| 1828 | 18歳 | 会議に出席するためにベルリンに赴く父に同行。数多くのオペラを見物し、得るものがあった。作曲、演奏面で著しい成長が見られた。 |
| 1829 | 19歳 | ワルシャワ音楽院卒業。ウィーンに行き、変奏曲を出版すると共に演奏会を開催する。初恋のコンスタンテァのためにピアノ協奏曲へ短調op21を作曲。 |
| 1830 | 20歳 | フランス、イタリア訪問のため、ワルシャワを出発。途中、ウィーンでコンサートを開く。フンメル、タールベルク、ツェルニーなど有名なピアニストと親交を深める。ポーランドに革命が起きる。 |
| 1831 | 21歳 | ウィーンを去り、パリに行く途中、ポーランド革命の失敗を知る。失望の中で、エチュード<革命>を作曲。9月、パリに到着。以後、故郷ポーランドの地を踏むことはなかった。 |
| 1832 | 22歳 | パリにて、デビューコンサートを開く。メンデルスゾーン、リストらが賞賛するが、生活は苦しく、経済的に安定するため、貴族の子女にピアノを教えていた。 |
| 1835 | 25歳 | ワルシャワ時代の友人、マリアと婚約するが、この時すでにショパンは結核を患っていたために、周囲の反対により破談する。<別れのワルツ>はこの時作曲された。 |
| 1836 | 26歳 | リストの紹介で、男装の麗人ジョルジュ・サンドに出会う。ショパンよりも年上で、活動的で支配的なサンドはショパンの病気のことにも気を配り、何かと世話を焼く。サンドとともにマジョルカ島、ノアンなどで暮らし多くの名曲を作曲する。 |
| 1846 | 36歳 | サンドの子供たちとのことが原因で、サンドの下を去る。 |
| 1848 | 38歳 | 経済的な理由で、イギリスに渡り、コンサートを開いたり、個人の催しでもピアノを弾いた。パリに戻るが病状は悪化するばかりであった。ワルシャワから姉が看病に来る。 |
| 1849 | 39歳 | ピアノの詩人はプラス・ヴァンドームの寓居で他界する。 |