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第4回戦争体験語りべの集い

東金市在住 みよちゃんレポート
2010年4月1日

3月10日は65年目の東京大空襲の日です。アメリカのB29戦闘爆撃機300機による大爆撃により、一晩にして10万人が焼け死に、東京が一面焼け野原になったと言われております。
そこで、3月10日午後6時より東金市中央公民館にて「第4回戦争体験語りべの集い」が開催されました。主催は「戦争体験語りべの会」です。
東金市教育委員会の後援も頂きました
会場には、小中学生・若い方・戦争体験のない方・戦争体験者・遠くは四街道市から参加された戦争体験者の方もおられました

はじめに「戦争体験語りべの会」高橋会長さんから「悲惨な戦争を絶対に起してはいけない。これからの若い方には、平和の尊さをかみしめて命を大切にしてください」というご挨拶があり、3人の語りべによる戦争体験が語られました。
皆さん手元の資料を見ながら真剣に耳を傾けておられました。特に、残酷で生々しい東京大空襲の体験は想像を絶するお話でした。
私なりに3人の体験談をまとめてみました。

山中さん(82歳)昭和2年9月台湾で
語りべ(山中さん)生まれる。18歳で東京大空襲を体験
『東京大空襲―戦火をくぐり抜けて』
中学2年の時、太平洋戦争が始まりました。当時は軍国少年で日本は必ず勝つと信じていた。学校へ行っても勉強は殆んどしなかった。
軍からの配属将校が各学校に来て軍事訓練が行われ、手榴弾投げをやらされたが体力がなく投げても飛ばなくて恥をかいていました。
学校へ行くために上京して、学校から軍事訓練のために富士の練習場に行かされ、戦車の木の模型を作って肉弾攻撃の訓練をしているのを見て、それでも日本は負けるはずがないと思っていた。
今考えると自爆テロですよね。

3月10日の未明、空襲警報が鳴って飛行機が数機やってきたが、すぐ引き返したので安心していた。そのあと、B29の戦闘爆撃機が空を覆うようにやってきた。大きな化け物の様に見えた。焼夷弾が雨あられのように落ちてきた。焼夷弾は日本の家屋を焼くように作ってあり、最初から家も人も殺すつもりだったのではないかと思う。
犠牲者は殆んどが民間人です。民間人は戦闘に巻き込んではならないはずなのに。一夜にして10万人が焼け死んだ。

消火訓練で良くバケツリレーをしていたが、そんなものは全く役に立たない。下町は家が密集しているので燃えやすくたちまち火の海です。
空気が温まると嵐のような風が起こり、物が飛んで行き吹雪のように火の粉が舞う。防空頭巾も焼けてしまい、空気が熱くて素手を出していると火傷をしてしまう。みんな風下に逃げた。
逃げても逃げても火が追いかけてきて、まるで火炎地獄です。

私は逃げ回っているうちに、やっと3階建てのビルに逃げ込んだ。「やれやれこれで助かった」と思ったとたん、風の力で窓ガラスが割れて煙や火の粉が入ってきて建物の中の物が燃えて息が出来ない。
衣類を防火用水につけて吸うことでしばらくは息が出来るが、又息が出来なくなる。いたたまれなくなって又、飛び出したが火の海です。
ビルの外壁にしがみついていた。この時死ぬと思ったが、死と向かうとこんな所で死にたくない、生きたいと思った。やっと夜が明けて「ああ、自分は助かったんだぁ」という実感がわいてきた。

そのあと、焼けた死骸が累々とあり、真っ黒に焼けて炭化して見分けがつかない。炭の人形みたいなもです。足の踏み場がない。本当に地獄です。
こんな所で助かったのが不思議な感じがしました。
焼きつくされて何もない、一面焼け野原です。この現実は体験した人でないと分からない。(資料の写真を示しながらのお話と、朝日新聞に投稿された方の東京大空襲の体験談も読み上げながら)

死体の処理はトラックが来て、シャベルで死体をゴミのように荷台にほうり投げる。戦争は人権も命の尊厳も何もない。
戦争中「お前達は1銭五厘でいくらでも集まる」「馬は金を出して買わないといけないからお前達よりも大事だ」と、暴言を吐いた上官がいたそうです。「1銭五厘」とは、ようするに赤紙のことです。
物は無くなり、強制疎開があって、家が延焼をしないように間引きして壊される。何の補償もなしに・・・。
隅田川の橋のたもとに、若い母親が幼い子供を抱きかかえるようにして亡くなっていた。それも真っ黒焦げになって。この光景がいまだに脳裏に焼きついて離れない。

その後、広島と長崎に原爆が落ちた。一瞬にして高熱で人間は溶けて無くなってしまう。そんな爆弾を平気で作って平和なんてありえない。戦争は女性や子供など、弱い者が犠牲になる。
権力者はいつでも安全な所にいて、戦争を指揮した人は戦後のうのうと生きている。こんな理不尽なことはない。
私たちは全財産を失っても国家から何の補償もない。
若い人たちは戦争をバーチャルで見ているが、戦争は人と人との殺し合いであり、戦争の残酷さを知っていただきたい。
私はあえて訴えたい!平和に対する関心が高まり、皆さんの心に少しでも平和に対する気持ちが芽生えてくれることを。平和って、すごく尊いものだということを。平和を愛してください。

●質疑応答の中でのお話
終戦後、上野の地下道に行き場のない戦災孤児がずらっと寝ていた。
中には餓死する人もいた。誰も助けてくれないから、かっぱらいか物乞いをするしか生きる道がない。闇市に子供たちが自転車に乗ってくる。
腕に時計を何個もはめている。それは全部かっぱらったもの。酒がないからメチールアルコールを飲むが、目がつぶれてしまう。食べるものがない。
食券がなくても食べられる雑炊食堂に並んだ。水のような雑炊に菜っ葉が一つぐらい浮いていて米粒なんか殆んどない。
すぐお腹がすくので又並んだ。そこにあるものを食べられれば上等だった。それでもこうして生きている。

今の人は物があり余り、農薬、添加物、スナック菓子などで身体を壊している。もっと自分の身体を大切にしてほしい。
「ひもじい」ということを知っていますか?「ひもじさ」がどんなに辛い事か。"物にありがとう"という感謝の気持ちを持ってもらいたい。
感謝する心が平和につながります。

石川さん(70歳)
語りべ(石川さん)『戦争と遺された家族』
1.自己紹介
自己紹介をさせていただきます。私は昭和14年8月現在のソビエト領のサハリンで生まれました。昭和20年7月に最後の引き揚げ船で北海道の稚内に引き揚げてきました。
昭和21年に小学校へ入学。貧しさと飢えの中で義務教育を学びました。
昭和30年に中学を卒業して札幌市内の靴屋で5年間でっち奉公を勤め、1年間お礼奉公をしたのちに、定時制高校へ通い編入試験を受けて通常4年のところを3年で卒業しました。

その時に、刑務所で受刑者を扱う「刑務官」の公務員試験を受けて合格し官報に私の名前が載って、昭和39年(東京オリンピックの年)に東京に就職しまして36年間勤めて定年退職しました。
私は戦争の具体的な体験はありませんが「貧しさ」という点では、今思い出しても辛い思い出が沢山あります。
レジュメに沿ってお話させていただきます。

2. 幼児期の戦争体験
(1) 0歳から6歳までの記憶
ソビエト領のサハリンで過ごしました。4歳の頃、灯火管制で、爆撃機の音がすると電気に黒い布をかぶせて真っ暗になる。
母親の竹やりを使っての軍事訓練や、兵隊さんが吹雪の中で銃を持って訓練をしている姿を覚えています。竹やり訓練はロスケ(ロシア兵)から自分の身を守るためにしていたんだと思います。

(3) 可愛い妹の死
5歳の時に、妹が風邪を引いて肺炎を起こして薬もなく医者にもかかれずに亡くなりました。味噌を素手でつかんで口に入れる姿が、今でも鮮明に思い出されて辛い思い出です。

(4) 兄の戦死
4人の兄が戦争に行きました。2人の兄は戦死し、1人は復員後栄養失調と病気で1年半後に亡くなり、もう1一人の兄は捕虜になりソビエトで5年間抑留生活を送り帰って来た時は骨と皮だけでしたが、現在87歳で生きています。身内を戦争で亡くすのは辛い事です。
戦争は人間の神経を麻痺させてしまいます。

(5) 昭和20年7月最後の引き揚げ船
6歳の時、昭和20年7月、最後の引き揚げ船で北海道の稚内に引き揚げて来ました。この引き揚げ船に乗れなければ今の私はありませんでした。

3.戦後のひもじさと貧しさ
(1) 極貧生活「食べ物、着るものがない生活・つぎあての洋服・わら草履と、素足のゴム靴」
食べる物が無く、じゃがいも・南瓜・とうもろこし・えん麦(馬の飼料)を塩だけで食べました。えん麦は何回煮ても固くてまずい。南瓜は手が黄色くなるほど食べました。
わらび・ぜんまい・ふきなどの山菜を採り保存食として食べていました。雑草も食べられるものを農家の人に聞いて食べました。
履物は、わら靴やゴム靴を素足で履き、足にあかぎれが出来て血が出るほどで片道6km歩いて学校に通いました。
衣服は母親が自分の着物をほどいて作ってくれ、切れると何回もつぎを当てて着ていました。
戦争のない世界を一人一人が作って行く。それには、我々が選挙権を行使する際に、良く考えて投票する事が大切です。

4.写真で見る戦争
写真資料 (1)戦地からの引き揚げ船  (2−1)自決  (2−2)戦傷
       (2−3)降伏
石川さんから上記の写真資料の説明もあって、戦争の悲惨さが一目で分かり、改めて平和の尊さを感じました。

山高さん(87歳)
語りべ(山高さん)『日中15年戦争の果てに・・・』
昭和4年に尋常小学校に入学し、尋常高等小学校を卒業した後、東京鉄道局(場所が今の東京駅)に14歳で就職しました。昼間働き、夜は学校で勉強しながら兵隊に行くまで「運転部列車課」にいました。
「運転部列車課」はダイヤの組み替えや運行計画が主な仕事で、私はまだ子供ですから書類を持って回ったりと手伝いをしていました。
軍隊輸送も日常で、12月8日の開戦前は、もう戦時体制の輸送が密集しており、他にお召し列車の運転もありました。

20歳の時、徴兵検査で甲種合格。昭和19年1月5日、東部64部隊に入隊してまもなく、1月14日頃満州に送られました。
当時は石油が不足していがアメリカ軍がいたので、日本軍の上陸打通作戦により石油を運ぼうとした。石油を運ぶには、黄河と揚子江を渡らなければならない。そこには強固な中国軍がいるので、その一部を分散させる為に日本軍は黄河に沿って西(洛陽方面)に向かって牽制行軍をした。

その時すでに私は病気になっていて、担架で運ばれ北京病院に入院しました。ろくな治療もなく1ヶ月が経って退院させられ南京へ行った。
船で漢口(かんこう)に行き後は行軍した。道端の水を飲んだり水筒にも詰めたが、馬の死骸があって水が異様な匂いがした。
6月中旬以降ひどいマラリヤにかかって、平江(へいこう)に行った時には物も食べられない状態であった。再入院命令を受けて漢口に向かった。
途中には中国の大部隊がいて襲撃され、日本人では私一人が生き残り、他は全員戦死した。

ここで私は捕虜になった。(中略) 最後は重慶の収容所に行き、日本へ戻ることが出来ました。重慶の収容所にいた時に、支給されたちり紙を大事にためてメモ用紙として使い、日記や詩を書き溜めた。
上海で乗船前に荷物の検査があり、兵隊用のテントの下にすかさずメモ帳を隠して、幸いにも見つからずに持ち帰ることができました。

その中の一つの詩をご紹介します。
『ひと枝の桃の花 うす紅のその色に ふるさとの春をしのぶ
  頬よせて なつかしむその香り ふと浮かぶ 妹の顔』

まだ語りつくせない事が沢山ありますが、またの機会にお話いたします。

 

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