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歴史散歩(3)−大化の改新と上総国

いすみ市在住  川口和也
2010年4月1日

弥生時代以来の半独立国であった房総各地の豪族の息の根を止めるような大事件が645に中央でおきました。大化の改新です。
中央の大豪族であった蘇我氏でさえ滅亡したのですから地方豪族は手も足も出ません。
全国は朝廷の一元的支配下に置かれるようになり、上総国はこの時の行政改革によって生まれました。

国造位置村田川流域の菊間(きくま)、
養老川流域の
上海上(かみつうなかみ)、
小櫃川流域にあった
馬来田(まくた)、
小糸川流域の須恵(すえ)、
太平洋岸の作田川流域の
武社(むさ)
夷隅川流域の伊甚(いじみ)の
六カ国が統合されて上総国
なります。
平成の大合併どころではない
大々的な大合併でした。

各地の「国」は「郡」となり、豪族は郡司(現地採用の地方公務員)に格下げになり、国家主権を奪われました。
公地公民制度ですべての土地と人民は朝廷に直接所属することになり、中央から見知らぬ貴族が上総全体の新たな支配者(国司)として赴任してきました。

上総国分寺七重塔復元模型上総国の国府(県庁に相当)は内房の上海上(現市原市)に置かれ、その後、聖武天皇の命令によって国家を守るための国分寺と国分尼寺が市原の高台に建立されました。
それは豪壮華麗で当時の人々にとっては想像を超えた巨大超高層建築群です。
国分寺七重塔の高さは先端の九輪まで含めると高さ60m、現在の20階建てビルの高さに相当します。法隆寺五重塔の高さ2倍。絢爛豪華・全国屈指の規模でした。
一般庶民の住宅が竪穴式、あるいは掘立て小屋だった時代にです。

ではなぜ上総国分寺は全国有数の規模だったのでしょうか?
地図で分かる通り、内房地帯はいくつもの国々が隣接していました。開発が進んだ豊かな穀倉地帯・先進地域だったことがわかります。
その経済力を背景にしたのは事実でしょうが、その見方は皮相です。
その真の目的はその経済力を浪費させ、朝廷に対する反抗心をくじくことにありました。

関東周辺には潜在的な反朝廷勢力である出雲系氏族が統治する国が多く、その中でも房総半島はきわめて密集しております。
  (赤字で示した地区)
朝廷は先に謀略によって出雲系伊甚国を朝廷直轄地にし、外房から内房に睨みをきかせる体勢を作り上げていました。(歴史散歩2参照)
伊甚駐屯の軍事力を背景に内房の盟主格であった上海上国を屈服させ、その中心地に大和朝廷のシンボルとも言うべき超巨大建築群を建てることで朝廷の絶大なる権力を誇示し、反抗する地元の意志を押さえ込んだのでした。

朝廷のもう一つの目的は上総国を東北地方侵略の拠点=兵隊や武器・食料の供給基地・前線基地として再編することにありました。
東北地方を征服することは伝説の日本武尊以来の朝廷の悲願です。
坂上田村麻呂らによる東北制圧の軍事行動の下準備として、上総地方を徹底した朝廷管理地区に再編する必要があったのです。

こうして神話の時代から半独立状態を維持してきた氏族を中心とした古代各国は大和朝廷に丸ごと接収され、律令国家体制が完成していきます。
しかし、どんなに豪華で立派な建物が建ってもそれは庶民のものではありません。
支配者の豪壮華麗な建築群を作るために庶民は重税を課せられ、年間60日の無料労働奉仕も義務づけられました。
国分寺造営だけでも20数年間も酷使され続けたのです。

再建上総国分尼寺当時の仏教は国家(=天皇)を護持するために存在し、庶民を救うための宗教ではありません。
300年後、公地公民制度を基盤とする律令制度が崩壊すると、国府も国分寺も国分尼寺も崩壊して土に埋もれ、もう二度と復活することはありませんでした。
国分寺と国分尼寺は発掘調査が進みましたが、国府跡は今だにその正確な位置さえわかりません。それほど庶民に嫌われ、無視されていたのでしょう。
房総が最も華やかな時代は砂上の楼閣。
庶民にとって最も苦しい時代でした。

写真説明:上総国分寺七重塔復元模型 (市川市役所ロビー)
同 国分尼寺復元建築   (市役所隣り)

                                      (つづく)

 

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