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平和のつどい

東金市在住  みよちゃんレポート
2008年9月1日

毎年8月になると、日本の各地で平和への願いをこめて様々な行事が催されます。テレビでも、戦争に関するドキュメンタリーやドラマが放映されています。現在、戦後生まれの人は日本の人口の75%になったそうです。
先日テレビの街頭インタビューで、8月6日の原爆の日を知らないという若い人が大勢おりました。

この悲惨な戦争の大きな犠牲の上に今の平和があるということ、戦争の歴史を風化させない為に次の世代に語り継いで行くことが大切だと、多くの人たちが思っています。
私の住む地域でも、8月10日に「平和のつどい」が催されました。
40名あまりが集い、アコーディオンの伴奏で5〜6曲歌を歌ってから
絵本「松三の島」と紙芝居「ちいちゃんのかげおくり」が有志によって語られました。
自分たちで絵を描いて、配役を決めて台詞の練習をしたそうです。
皆さんの熱意が伝わってきて、 とても良かったです。

休憩を挟んで3人の方が戦争体験を語りました。
ご本人の了解を得て体験談を掲載させて頂きました。

山武市在住  K・Fさん
◆長崎での被爆
私は長崎で被爆しました。終戦の時は2歳でしたから被爆した時の事は全く覚えておりません。もの心がついた時には、養護施設におりました。
当時の施設はそれはひどい生活で、施設の職員からはお前らは食わせてもらっているんだと言われ、中学を卒業すれば施設を出されます。
中学校時代で一番辛かった事は、陸上部のクラブ活動で夏休みの合宿があり、当時は米1升と500円持って参加することになっていました。
自分にとって500円は大金で、施設の職員に出してほしいとどうしても言えずに初めて涙を流しました。

中学の卒業を控えて就職の手続をする時に、初めて長崎で被爆した事を施設の職員から聞かされてショックでした。
でも、その時は被爆がどういうものか良く知らなかったのです。
中学を卒業して名古屋へ集団就職をしました。
高校へ行きたいという願望があって、牛乳屋さんに住み込みで働いて朝・昼・夕と牛乳を配達しながら定時制高校へ通いました。
当時牛乳はビンに入っていて、夕方の配達をして重いカラビンを自転車の荷台に積んだまま学校へ直行し、いつも遅刻をしていました。

高校3年の時、無理がたたって入院しました。どうしても原因が分からないと医師に言われて、初めて被爆した事を話しました。
医師から命と学校とどっちが大事かと言われ大学進学をあきらめました。
血液に異常があり、無理するとすぐダウンする。
原爆症特有の白血病やガンにもなった。

ある程度の年になり、彼女が出来ても被爆の事は言えなかった。
結婚してもし子供が被爆二世になったら・・・と、非常に悩んだ。
これは経験した人でないとわからない。
体が悪くなり仕事も首になって誰も頼れる人がいない。親もいない。
半年ぐらい入院して、仕事もなく生活出来ない。

薬局で睡眠薬を一瓶買い、全部飲んで山に入った。
3日目に目がさめた。薬局の人が私の様子にうすうす感ずいて一番軽い睡眠薬をくれたのだと思った。
何で死ねなかったのか、死ねば楽になる・・・その気持ちが頭にこびりついている。それから放浪生活をして色々な事をやった。

結婚して幸いにも、二人の子供は健康で生まれた。60歳までは被爆した事は一言もしゃべれなかった。60歳を過ぎたころ、ある文化団体のサークルなどで自分が被爆者だという事を話すと、友達は離れて行った。
いまだに差別や偏見が残っていて、伝染病という感覚を持っている。
60歳を過ぎて5年経ち、今では何時死んでも良いという気持ちでいる。
被爆者の仲間も何人かいて交流している。機会があれば原爆の悲惨さを語り継いで行きたいと思っています。


東金市在住  N・Mさん
◆九条への思い
今、私は70歳です。終戦の時は小学校3年生でした。
終戦後しばらく経ってから、ある時突然運動場に招集がかかりました。
普通の朝礼の時間ではなかった。クラス別に並んで、朝礼壇の上に立ったのが校長先生や教頭先生ではなく、普通の先生でした。
その先生が「国が戦争をしないという事を決めた。これから一切日本の国は戦争をしないです」と、話された。
私は70年間生きてきて、この時ほど嬉しかった事はありません。
本当に嬉しかったです。
その時の空、雲の形までいまだにはっきりと覚えています。

その理由は、戦争当時、空襲警戒警報が鳴ると運動場に部落別に並んで集団下校をするのですが、小学校から400〜500mのたった1本の道が、田んぼの中を通っていました。
道の右側は小川を渡らないと田んぼに隠れられない。
道の中ほどの左側にガス会社があって、洋館のような家が1軒だけあり、そこに逃げるしかないのです。

その頃、B29が富士山を目指して東京湾から侵入してきたらしい。
小さく見える銀色に光る機体が、ピッ、ピッ、ピッ、と飛んで行くのが見えました。あれが爆弾を落としに来るんだと思っていた。
当時、私は小田原駅の近くに引っ越しましたが、小田原駅のホームをめがけて機銃掃射があり、薬きょうがトタン屋根にガラガラガラッと落ちてくる。弾が私の庭の梅の木に刺さっている事もあった。

小田原駅周辺の家は、関東大震災後ほとんどトタン屋根で出来ていたため、その音はすさまじかったです。
とにかく田んぼ道を家のある所まで夢中で走って帰る恐怖心が頭をよぎって、部落別に並ぶことが本当に恐かったです。
あの日の先生のお話は、憲法九条の事だったのです。この戦争体験から、憲法九条はどうしても守らなければならないと思っています。

憲法第九条
 戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認
@ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
   これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

東金市在住  S・Nさん
◆親を恨んだ戦争の傷あと
私は福島県から昭和34年に東京の江戸川区に嫁いで来ました。
近所にお豆腐やさんがあり、夕方になると「とうふ〜とうふ〜」とラッパを吹きながら、豆腐・がんもどき・油揚げなどをいっぱい入れた木箱を自転車の荷台に積んで売り歩いていました。
" 残り物はここの母ちゃんが買ってくれる"そういう思いがあって私の家に寄るのはいつも最後でした。私の家で全部買って箱がカラッポになると、ほ〜っとした顔で家にあがって私の手料理を美味しい!美味しい!と言って食べて、いつも主人と飲みながら良く話をしていました。

その時に必ずお豆腐屋さんの話に出てくるのが戦争(東京大空襲)の話でした。昭和20年3月10日の未明、いきなり空襲になり、激しい爆撃の音が聞こえてきました。当時お豆腐屋さんは2歳ぐらいだったそうです。
お母さんは赤ちゃんだった弟をおんぶして綿入れのねんねんこを着て、2歳の息子(お豆腐屋さん)には、はぐれた時のことを思って少々の食料を持たせ身支度をして、荒川と中川の真ん中の広い土手を目指して、火の海の中を逃げたそうです。
赤ん坊が火がつくように泣いていて、2歳の息子に背中の赤ん坊が燃えていると言われてましたが、ただ前に進むしかなかったといいます。

火傷をした弟は、家にある油らしきもので素人治療をするしかなかった。
終戦になった時、医者に行っても薬も何も無くて治療らしい治療はしてもらえなかった。
結果的には焦げた右手と右足を切断した。この弟は大人になってから「お兄ちゃんは何でもないのに、僕だけかたわになるような火傷をさせられて」と、親を恨んだそうです。
戦争中はお父さんも兵隊に取られて終戦後間もなく帰ってきました。

父親は、親戚から集められる材料を使って、かろうじて豆腐を作って生活を支えたそうです。二人の子供は成績が優秀で、兄は家庭の貧しさや弟の事があって、大学に行く事をためらっていましたが、挑戦したくて東京大学を受験したものの落ちて豆腐屋を継ぎました。

弟にはどうしても大学に行かせて自分の道を作れるようにと、家族で応援しました。大学卒業後は一級設計士になって成功したものの、心は閉ざしたままでした。
義足や義手は、しょっちゅう作り直すのに大金がかかり、その費用は兄が豆腐屋で稼いだお金を全部つぎ込んだ。
それでも弟は親や兄弟を恨み続けて生きてきました。

父親が病に倒れて死ぬ間際に、火傷をした息子に息も絶え絶えに「可哀想だった。悪かった。ご免な・ご免な」と謝ったそうです。
弟はその言葉を聞いて「死ぬまで俺は親を苦しめていた」と、親の死をもって親の恩をしり、間もなく社内結婚をして幸せになり、家族の絆が一層深まったそうです。
体験した人でなければ分からない苦しみだったと思いました。

 

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