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研修視察「第五福竜丸展示館・他」

東金市在住  みよちゃん
2007年3月1日

2007年2月3日(土)@第五福竜丸展示館A船の科学館B東京大空襲・戦災資料センターの3ヶ所の研修視察に、私も友人(Hさん・Mさん)と一緒に参加しました。
東金ユネスコ協会と東金市現職・退職校長会の合同主催による“戦争の惨禍を、次代に語り継ぎ、平和を学び、希求する”というテーマの元、主催者役員を含めて30名のバスツアーでした。
冷え込んだ快晴で、車中から真っ白い富士山がクッキリ見えました。

◆第五福竜丸展示館
第五福竜丸展示館「第五福竜丸」は、1947年(昭和22年)に和歌山県で建造された。
長さ30m・幅6m・高さ15m・総トン数140tの「第七事代丸(だいななことしろまる)」という船名の、1本釣りのカツオ漁船でした。敗戦直後の食糧難時代、特に不足している蛋白源を魚で補うために沢山の船が作られました。
当時はアメリカの占領下でGHQの規制があり、100t以上の船は造る事が許されず、3t以下の木造船ならば申請書一枚で作れました。
海上にもマッカーサーラインが引かれていて、自由に太平洋に漁に出ることが出来なかったのです。

1952年サンフランシスコ講和条約が調印されて、日本の船もようやく自由に太平洋に漁に出られるようになりました。
第七事代丸は1953年5月にマグロ漁船に改造され、船名も「第五福竜丸」と改め遠洋漁業に出たそうです。
1〜4回目の航海では、メバチマグロ・キハダマグロ・ビンチョウマグロなど、大きさ150p・30〜45sものマグロが大漁でした。

そして1954年(昭和29年)1月22日の事です。
若者23名を乗せた「第五福竜丸」は、ミッドウェイ海域に出漁しましたが、全長50qのはえ縄の半分以上を流されて失ってしまいました。
最後の漁をマーシャル諸島ビキニ環礁の東160qで操業を行います。
夜中からはえ縄を流しはじめた船が、3月1日午前6時45分に作業を終了したまさにその時、西の空が赤やオレンジ、黄色に異様に光りました。
「西から太陽が上がったのか」と乗組員は思ったそうです。

その7分後、海底から船を突き上げるような爆発音に異常を察知した乗組員は、すぐにエンジンをスタンバイしてはえ縄を上げはじめました。
しばらくして、西の方に湧いてきた入道雲が空全体を覆い、真っ黒な雨が降ってきました。その雨と一緒に落ちてきた白い粉が、払っても払っても体中に貼りつき、やがて甲板に足跡が残るほど積もりました。
乗組員のお一人は袋に、もう一人はお茶の缶に、この白い粉を入れて後で調べてもらおうと枕元において寝たそうです。

するとその夜のうちに、頭痛、吐き気、食欲不振になり、白い粉がついた皮膚は火ぶくれになりました。
3日ぐらいすると、歯ぐきから血が出て髪の毛に手をやるとバサッと抜け落ちるようになってしまいました。死の灰を浴びたとも知らず、乗組員23名は航路4,000kmを苦しみに耐えながら必死で焼津港(静岡県)にたどり着きました。2週間後のことでした。

その日、1954年3月1日アメリカはマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行ったのでした。
直径2q・深さ70mにもわたって海底のさんご礁がすべてえぐりとられて、雲と一緒に30,000mの上空に打ち上げられ、やがて死の白い粉となって降りそそぎました。 その時の水爆は、広島・長崎の原爆の1,000倍以上の威力を持っていたそうです。

展示館内(一部)
展示館内(一部)
死の灰
死の灰
第五福竜丸
第五福竜丸
第五福竜丸の船内(一部)
第五福竜丸の船内(一部)

焼津港に着いた乗組員23名はすぐ病院で診察を受けました。
医師は広島・長崎の被害者と同じ「原爆症」ではないかと疑いました。
東京の病院に入院した23名のうち、久保山愛吉さんは半年後の9月23日に亡くなられました。40歳でした。
病名は全員「急性放射能症」で、他の11名の方は2003年までに亡くなられたそうですが、多くの方が肝硬変や肝臓がんだったと聞いております。他の11名の方々は存命ですが、やはり肝硬変、肝臓がんなどで今も苦しみ続けておられるそうです。

当時ビキニ環礁付近で操業していた船は856隻あり、廃棄されたマグロは485tにも及びました。しかし、日本政府はそれらの船に対し何も調査せず、今に至るまで一切の保障もしていないとの事です。
焼津の人達は、恐ろしいから第五福竜丸を始末してほしいと言い、アメリカも焼却せよとせまり、日本政府はそのつもりとなりました。

しかし、科学者としての勇気を失わなかった日本の科学者の「すべて残すべきだ」という意見がようやく認められ、危うく処分を免れた第五福竜丸は東京へ運ばれ、約2年残留放射能の検査の後、船の放射能が人体に影響がない事を確認されると、東京水産大学の練習船に改造される事になりました。

船は「はやぶさ丸」と改名して10年間使われましたが、老朽化によりついに1967年(昭和42年)3月廃棄処分となり、解体業者に払い下げられ、金目のものはすべて売られ、250馬力のディーゼルエンジンは貨物船の「第三千代川丸」に移し変えられた上、第五福竜丸の船体は東京の夢の島のゴミの中に捨てられました。
その「第三千代川丸」も昭和68年7月航行中、三重県紀伊半島御浜町沖で濃霧のため座礁して、船体はバラバラになり、エンジンは海底に沈んだとのこと。

その後NHKが、はやぶさ丸は第五福竜丸だという事を取り上げた事がきっかけで、第五福竜丸の永久保存の運動が広がり、「第五福竜丸展示館」の建設が始まり、ついに1976年に開館の運びとなりました。
エンジンもボランティアによって海中から引き上げられ、1999年「第五福竜丸展示館」前に展示されました。
「久保山愛吉記念碑」も建てられております。館内には、死の灰・航海日誌・手紙・手帳・マグロ漁の模型・乗組員の生活用品などが懇切資料とともに展示されており、中で見学に訪れたほうぼうの学校の生徒さんの手紙や千羽鶴が一隅に飾られ、ひと際目を引きました。

第五福竜丸のエンジン
第五福竜丸のエンジン

◆船の科学館
次に「船の科学館」を見学しました。年代別に世界の船が展示されており、中には華麗な船が何隻も目に付きました。見上げるようなタービンも展示されていて、こういうタービンを積んだ船の大きさは想像できません。
3階には南極で置き去りにされて1年間生き抜いた樺太犬「ジロ」の剥製が展示されています。思いのほか優しそうな目をした大型犬でした。
外には初代南極観測船「宗谷」の雄姿が展示されています。
バスに乗る前に宗谷の前で全員で記念撮影をしました。

江戸時代の弁才船
江戸時代の弁才船

イギリスの「モレタニア」
イギリスの「モレタニア」

タービン
タービン

初代南極観測船「宗谷」
初代南極観測船「宗谷」

◆東京大空襲・戦災資料センター
最後に「東京大空襲・戦災資料センター」を見学しました。
東京大空襲は昭和20年3月10日午前0時8分に、約300機のアメリカ爆撃機B29の無差別爆撃が、隅田川を中心に、荒川放水路から東京湾に至るすべてを焼き尽くし、わずか2時間半で10万人以上の非戦闘員(一般庶民)の尊い命を奪い、100万人を超える罹災者を出しました。
この事は世界の戦争史上でもまれにみる爆撃でした。

東京は、昭和19年11月24日〜昭和20年8月15日の終戦までに100回以上も火の雨にさらされました。
日本全土を焼土にすることがアメリカの目的でした。10万人もの遺体の処理は「緊急土葬」といって、お寺の敷地・公園・空き地に埋められました。
今日の参加者の中のひとりに遺体処理を体験した方から、悪臭がなくて殆んど炭のような遺体を運んだと聞きました。

しかし、このままでは人ひとりの命があまりにも惨いということで、終戦から3年後に全部掘りかえし、再び3年かけて火葬し、昭和26年に「東京慰霊堂」に納骨したそうです。
その遺骨は105,400体にのぼったそうです。

B29は、全長30m・翼の端から端まで43m・高さ8.5m、搭乗員は8人〜11人、最小の乗員で出来るだけ多くの爆弾と燃料を積んで航続距離をのばしました。
出撃前、アメリカはソルトレイクシティの砂漠に日本の家屋を建てて、家々がどうしたら良く燃えるか実験を繰り返して3月10日に臨んだそうです。
B29の模型が頭上に展示されていますが、これは3月10日に地上から見上げた大きさがこのくらいだったという大きさだそうです。

集束焼夷弾が展示されているのが目を引きました。外側は模型ですが、本体そのものは本物とのことです。一つの焼夷弾は六角形で、長さ50p・重さ2.7sあります。それが19本ずつ2段に積まれて一つのケースに38本入っていて集束焼夷弾となって落下するわけです。
超低空飛行のB29に38本入りの集束焼夷弾が40発積まれて高度700〜300mに達すると、自動的にベルトがはずれ、38本が1本1本バラバラになり、リボンがたらされて水平を保ちながら火の雨のように地上に落下します。中身はナパーム剤といって、やし油・ナフタネート・ナマリなどの燃えやすいものが、どろどろのゼリー状になっていて、身体につくや離れる事なく燃え上がるのだそうです。

資料センター正面の母子像「戦火の中で」
資料センター正面の母子像「戦火の中で」
東京大空襲(3月10日)パネル
東京大空襲(3月10日)パネル
資料センター内
資料センター内

地上から見上げた大きさのB29の模型
地上から見上げた大きさのB29の模型

原寸大の集束焼夷弾
原寸大の集束焼夷弾
爆死した親子
爆死した親子

ここにある空襲・戦災の文献や物品の資料は、1970年代に「東京空襲を記録する会」により、集められたものです。
1999年東京都は、財政難を理由に青写真まで出来ていた「平和祈念館」の構想を凍結し、会の代表の早乙女さんの所にダンボール40箱もの資料を差し戻しました。
早乙女さんらは、やむにやまれぬ思いで募金活動と資料収集を呼びかけ、多くの人々の力でようやく、2002年3月9日戦禍の最も大きかった地に「東京大空襲・戦災資料センター」を完成させたそうです。

私達は、戦争という多くの犠牲の上に、今日の平和があることをしっかりと受け止めて、平和の大切さを次の世代に語り継いでいく必要があると思いました。

 

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