みのかんの銀塩カメラ研究室PoorFinger>ひとり言
ブログとはちょっと違う独り言です。新しい順に上に表示されます。気楽な独り言。ただし不定期です。気がむかないと更新されません。まったく無責任の独り言とお許しを。退屈しのぎに読んでください。

2006年11月17日  ちょっと沈んだ気分で

 ある時期にある曲を練習していたりすると、10年後くらいにその曲をきき、とても懐かしく感じることがある。その時代を思い出すからである。ましてや高校生の頃に聞いた歌を今聞くと、あの頃の複雑な思いや気持ちまでよみがえってくる。そして自分の歩いてきた道のりを計る。ずいぶん遠くまで来たなぁと思う。ひとつひとつはもちろん自分の歴史なのだが、そのひとつひとつにかかわってきた人と人とのつながりを思わずにはいられない。仏教ではこれを縁というらしい。

 昔の自分を振り返るとき、あの時のあいつは今何をしているだろうかとか、あいつは死んだんだとかを思い出す。ここにきて知っている若い人が二人亡くなった。年寄りが死ぬのは順番だから仕方がないが、順番を間違えて死ぬのはどうもやりきれない思いである。

 妙に最近沈んでいるが、最近飼ったチロという猫が僕を慰めてくれる。小さな命だがとても温かい命である。チロを見ていると、これまた今まで飼っていた猫を次から次へと思い出す。チンタという今年の春に亡くなった猫のとことを思うと、胸がキュンと痛む。僕の人生の半分ちかくを一緒にすごしてきたシャム猫である。彼は僕の最大の伴侶だった。

 高校3年生の頃、毎日クラプトンのレイラを聞いていた。あのアルバムを聴くとあの頃がよみがえってくる。音楽クラブの部長をやっていた僕は一級下の歌の非常にうまい女の子と付き合っていた。とうぜん一緒にバンドを組んだ。
 ある日、風邪をひいた彼女を見舞いに初めて彼女の家にいった。家の人は彼女の部屋に案内してくれた。彼女は熱が出ていて寝ていたので、僕は彼女の机の上のコンパクトプレイヤ−で買ってきたばかりのクラプトンのライブ「was Here」を一人で聴いていた。ひととおり聴き終わる頃彼女は目を覚ました。そして、この曲がやりたいといいレコ-ドをかけた。中島みゆきである。当時中島みゆきはセカンドアルバム「私の声がきこえますか」を出したばかりの頃で、この中に「冬待つ季節」という歌があった。この歌をよく二人でやったものである。先日久しぶりに友達から借りてこの曲を聴いたら、なんとありありとあの頃がよみがえってきた。彼女の部屋の匂いまで思い出すのだからびっくりしてしまった。

 今クラプトンのclassical gasばかりを練習しているが、たぶん10年後くらいにこの曲を聴くと、今の自分を思い出すのだろう。あの頃は若かったなどと言って。

 

2006年11月10日 青春という時代

 青い三角定規というグル−プが作った「太陽がくれた季節」という歌を聴いている。この歌は僕が中学一年のときである。青春という言葉がトレンディな時代で、TVドラマでも8時からのゴ−ルディンタイムにシリ−ズで放映された。それ以前青春シリ−ズはあったが、いわゆるスポ−ツ根性ドラマである。後半は、中村雅俊のシリ−ズで幕を閉じた。
 以前、知り合いの娘さんである中学生に、青春時代という言葉を使ったら「ダサイ」と言われたことがある。そのあとに「夕日に向って走れ・・なんていわないでね」と念を押された。それ以来あまり青春という言葉を使わなくなった。
 拓郎の歌に「青春の詩」というのがあるが、その一番の歌詞に「喫茶店に彼女と二人で入ってコ−ヒ−を注文すること、あ〜それが青春」となっている。まさに当時の青春のイメ−ジを象徴していると思う。都会ではまだ喫茶店はたくさん存在するが、田舎では少なくなった。若者が喫茶店などに行かないのだろう。のんびりとコ−ヒ−を飲む時代ではなくなっているのかもしれない。
 それじゃ今の若い人たちって何をしているのと質問がきそうだが、たぶんパソコンのインタ−ネットと携帯のメ−ルであろう。これがすべてで、後のことは関係ないという時代なのではないだろうか。お金もそちらのほうにつぎ込んで、喫茶店でコ−ヒ−を飲むようなオカネと時間がないのだろう。変な時代である。
 僕は高校3年生のときに新聞委員長をやっていた。校内新聞を編集して、ちゃんと地元新聞の活字を使わせてもらう立派なものである。この発行日の3日くらい前に校正という作業がある。活字の間違い探しであり、逆に言えば印刷会社の責任逃れともいえるのだが(笑)。
 その日は2時間くらい授業を受けて、新聞委員は印刷会社に出かける。これが実に楽しかった。女の子達はおかしを沢山持ってきて食べながら、印刷の終るのを待つ。もちろんお昼もそこで食べる。校正の時間は実質30分くらいではないだろうか。ところが終っても学校にはもう行かない。全員で近くの喫茶店にしけこむ。正々堂々と学校がサボれるので、普段さぼっていいる新聞委員も、この日だけはほとんど出てくる。ただせし一年生は除外であったが。
 副新聞委員長が同級生の女の子なのだが、この女の子が実にかわいくて、ちょっと「ほ」の字であった。だから喫茶店ではいつも向かい合わせに座った。回りも委員長と副委員長なので、別格の扱いである。しかし、僕には付き合っている彼女がいたわけで、それも有名になっていたから、それ以上に発展することはなかった。
 このあたりの思い出を書き並べてみると、まさに僕も青春をしていたわけである。ギタ−ばっかり弾いて歌っていたばかりではないのだ。新聞委員長、音楽クラブ部長、文芸クラブ部長と3つもやっていたのだから、とうぜんすべてにおいていい加減だったが(笑)。
 さてどの当たりで青春という言葉が使えなくなるのかはそれぞれ事情により違うと思うが、僕の場合は23才くらいまでだろう。本気で将来のことを考え始めたときに青春が終わったと思う。地元で音楽団体を作り、市民文化団体に登録して、年に2回くらいコンサ−トを開いた。当時はまだ人の集まる時代で、一番多いときには200人以上の人たちが聴きにきてくれた。その団体名は「雪割草」といって、一時期地元では有名だった。ただ、あの時代から後は、コンサ−ト=赤字という時代がやってくる。僕らがやっていた頃は赤字にはならなかったのだが。チケットは300円から500円くらいだったと思う。市民文化団体に登録しているので、ホ−ルの会場費は無料、もうかつたといえばもうかった。ほとんどはコンサ−ト終了後の出演者とスタッフの打ち上げに消えたが(笑)。
 青春の終わりを感じたのは、出演者の一バンドが、コンサ−トの利益をポケットに入れているのではないかと不満を言い始めたときである。もちろんそんなことはしていないのだが。このときに、この団体も終わりだなと感じ、同時に青春が終ったと思った。
 青春、社会からいろいろなことが許される時期でもあり、若いからと片付けられる時期でもある。でも確実に青春には終わりがあり、その生ぬるい温床から抜け出さなくてはいけない。最近の時代はフリ−タ−とかニ−トとか言う言葉が正々堂々と使われているが、そんなことが許される時代はいつまでも続かないだろう。もし続くとしたら、日本も終わりである(笑)。生涯青春などという言葉は精神面を言っているので、いつまでも本当の青春でいられる筈がないのだ。

2006年11月9日 兄とギブソンハミングバ−ドのこと

 家にあるギタ−の本数を数えてみる。なんとエレキを含めて15本。なんでこんなにあるんだと考えてみた。ジャンクでよそ様からいただいたものが多いのでお金はほとんどかけていない。というより貧乏なのでお金をかけられないのが本音。しかもこの本数になったのは今年の春からである。急激に増えたことに自分でもびっくりしている。
 ギタ−は僕の思春期の頃には、そうそうあるものではなく、あれば非常に珍しかった。僕の場合、兄と姉がいたので、比較的条件がよかったほうだろう。特に兄が僕の面倒をよく見てくれた。中学の時にお下がりのキャンダのハミングバ−ドモデルをくれたし、高校に進学すると新品のグレコのテレキャスタ−のエレキを買ってくれた。今思えば兄もそれほど収入があったわけではないのに、僕のことまでいつも考えていてくれた事にとても感謝している。そして高校生の頃に兄がギブソンのハミングバ−ドカスタムを僕にくれた。これは本当にうれしかった。
 形あるものは必ず壊れる。そのハミングバ−ドもネックが折れてから20年間もそのままになっていた。修理に出すお金がなかったからだ。それと修理業者を信用していなかったのも事実である。二十歳の頃、一度ブリッジが割れて修理に出した。そのときとんでもなく弦高が高く設定されて戻ってきた。非常に弾きにくく、まるで別のギタ−となって戻ってきたことがある。この時の修理代金が5万円だったと思う。それからネックが折れて、そのときもザグリの補修などしていなくてボンドでくっつけてあるだけというもので、しばらくしてまた同じところがはがれた。この時も5万円くらいかかっている。それ以来修理にに出すのが恐くなった。
 今回自分で修理に踏み切ったのは、修理業者より自分でやったほうが納得がいくと思ったからである。つまり2回の業者修理への依頼が失敗したことが僕の心のトラウマになっている。田舎にいると直接修理業者に持ち込むことが出来ないために、どうしても楽器店を通すことになる。そのために自分の意思が伝わりにくい。今でこそ車で一時間半も走ればリペアの業者がある時代になったのだが、少なくとも30年前には持ち込みの距離にリペア業者はなかったと思う。
 このギブソン、ハミングバ−ドカスタムを弾くと、思い出すのはやはり兄のことである。今高崎に住んでいて年に一回くらいは実家に遊びに来るが、いつも心の中でありがとうと言っている。この兄がいたから今の自分があると言っても過言ではない。
 この年齢になり、頭も白髪が目立つようになると、人はいつも誰かに助けられていると自覚することが多い。若いときにはいつも自分が中心だった。だから回りから助けられていることに気がつかないのだろう。とうぜん生意気である。兄に対してもそうだった。でも今は違う。助けられていること、そして誰かを助けていることがよく分かる。
 ボロボロのハミングバ−ドは、兄と弟との歴史である。たぶんこのギタ−は今度は息子が使うことになるだろう。そして使い続けていくことで、兄が苦労して買った30万円のギタ−の価値が本物になっていくような気がする。