小江戸の名所
 江戸の勉強をして江戸歩きをしているうちに、もっと近くにも興味深い古い町があることに気づきました。
いままで何度も歩いたことのある川越を、みなさんにご紹介することで記憶に残しておこうと思います。
まずご報告。平成25年度の「小江戸川越検定試験3級に合格しました。
試験日は2月17日試験場は東京国際大学キャンパス
これが合格証です。
合格率は65.5%でした
東上線霞ヶ関駅徒歩3分 いいお天気! 3級なら簡単なはず?
では川越駅前から紹介します。
JR・東上線の川越駅と直結しているショッピングビル「atre」の入り口にあるからくり時計。定時には川越祭りの山車や人形が現れて、賑やかなお囃子が始まります。
これから少しずつ、川越の紹介をしていきます。
 妖怪ナイトツアー   2014年8月 「喜多院の伝説 ・七不思議謎解きの旅」というイベントに参加しました
       
   出だしはあいにくの雨。赤い服の方が今回のガイド、シルバーボランティアの佐藤さんです。6時ごろから歩き始めました。ここは最初のポイント、孝顕寺の小蛇の話  孝顕寺の寺男は働き者で、遊ぶこともせずお金を貯め続けて亡くなりました。そのうち小蛇が寺に出るようになり、庭を掘ったところ、小判が現れました。その後小蛇は姿を消しました  ここは南院跡。もともと無量寿寺には北・中・南院があり、その内の北院が現在の喜多院。中院は南院の南部に移転して存続していますが、南院は現在ありません。
         
   仙波東照宮の随身門。家康公は駿府で亡くなり、遺言で日光に葬られましたがその途中、天海僧正のいるここ喜多院で4日間の法要が行われ、仙波東照宮が建てられました。東照宮は久能山と川越と日光に三つあるのです。  ガイドさんによれば「あんたがたどこさ」の仙波山は川越の仙波なんだそうです。仙波東照宮に入るとその証拠に狸さんが出現。一緒に「川越仙波さ♪」と歌いました。 ある日喜多院に美しい娘が現れ「百日の間鐘を鳴らさないで」。住職は99日間鐘を撞かずにいましたが100日目に別の美女に鐘を撞くよう頼まれ、約束を破ったところ、女は龍に姿を変えて飛び去ったとか。今でも喜多院は山内禁鈴です。喜多院の鈴には玉が無いそうです。
   
     
 
   これは喜多院のオバケイチョウ。見る方向によって1本に見えたり2本に見えたり3本に見えたりするのです。イチョウは水を多く含むので火を防ぐといわれます。明治26年の川越大火の時鐘楼門↓が残ったのもこのイチョウのおかげなのではないかと言われています。   喜多院には11匹の龍がいますが、その一匹がこのイチョウにいます。
龍の顔に見えますか?
     
  川越一帯は数千年前までは海でした。ここに仙芳上人という方がお寺を作るため海の主龍神さまに衣の大きさだけの土地をねだりました。龍神さまが承知して上人が衣を広げるとなんと衣は数十里四方に広がり、龍神さまは「これでは私の住むところがない」というので、池を作り、龍神様の住処となったのが弁天池です。そしてこの弁天池と地下で繋がっているといわれているのが次に紹介する日枝神社の「底なし井戸」
   
   喜多院の鐘楼門内側には鷹が彫られています。リアルな彫刻は伝左甚五郎か?  表側には龍の彫刻。喜多院の龍はここに2匹、本殿に2匹、山門に2匹、客殿玄関に2匹・・・。
     これが底なし井戸    
   ここ日枝神社は近江の日吉(昔はヒエと読んだ)神社から分祀して作られました。太田道灌が江戸城を作ったとき、川越城の日枝神社を分祀して江戸の日枝神社が作られました。従ってここは赤坂の日枝神社の本社なのです。  喜多院の五百羅漢。闇夜に羅漢さまの頭をなでていくと、温かみを感じる羅漢様がある。その羅漢様に自分の上衣をかけ、次の朝に行ってみると自分の会いたい人の顔をしているのだそうです。  江戸時代、喜多院は幕府のご朱印地で川越藩の管轄外。この橋から一人の泥棒が逃げ込んだが、住職に諭され元三大師に帰依して真人間になり、許されて商家勤めをしたそうです。それでこの橋の名は「どろぼう橋」
       土砂降りの雨の中でしたが、一昨年。昨年と人気のこのツアー、雨天決行となりました。途中ですっかり雨も止み、おかげで涼しい中二時間ほどのツアーを楽しみました。
 これは川越シルバーボランティアセンター観光グループの方達の企画。蛇や小判や人形を予めセット、そして狸や泥棒に扮して参加者を楽しませてくれたのも、シルバーボランティアセンターの皆さんです。なかなかの演技力でしたよ。
 
   昔、3人の子供がお寺で働きたいとやってきました。3人は良く働き修行を積みました。ある日、慈恵大師が神通力で空を飛んでいくのを見て3人の小坊主も真似をして木の上から飛び降り、死んでしまいました。その姿は3匹の子狐でした。彼らを憐れんで作られたのが境内の「三位稲荷」です  喜多院はとても格式の高いお寺。そこへ某藩の侍が駕籠のまま玄関に乗りつけたので時の住職が「無礼であろう」と叱責しました。侍は藩の恥になると考え、駕籠の中で切腹してしまいました。その武士を供養するために作られたのがこの亀石だそうです。
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