ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第4章
 チェンジリング


(5)


 翌日、アガサはすっかり落ち込んでいた。
 ショックがすぎて、ベッドから起き上がれないでいる。
 そりゃそうである。大好きなファビアンに、あんなことを言われて……。
「私とつきあうよりも、階段232段のほうがいいなんて……」
 しかも、ものすごく軽蔑されたと思う。
 レインを人質にしたことを、彼はものすごく怒っている。
 しかも、テストは明日なのだ。
 だが、必死の努力のかいもなく、火をつけられない。さらに、フレイも行方不明のままだ。
 イミコが、ベッドまで朝食を運んでくれた。
「ねぇ、アガタ。元気を出して。ここまでがんばったんだもの。私、アガタと分かれるのは辛いけれど、もう覚悟ができているわ。フレイだって、きっと喜んで封印されてくれるわよ」
 アガサは、サンドイッチに手を伸ばしたが、げんなり食欲がなくなった。
 最近、やっとイミコとカエンが似た者同士であることに気がついた。
(かわいい顔して……意外ときついんだよね。イミコって)
 お腹がすいているけれど、食べる気がしない。
「……アガタが食べないなんて。私まで悲しくなっちゃうわ。それに、レインも弱ってきちゃったし」
「え?」
 アガサはあわてて飛び起きた。

 水の精霊レインは、ロウソク漬けのままである。
 融かしてしまったら、カエンや消えかかっているフレイと反応して爆発する危険性がある。
 それに、ロウの封印を解いてしまったら、さっさとファビアンの元に帰ってしまうだろう。
 アガサが目を凝らしてみると、確かにレインは前日より縮んでいて、わずかにロウとの間に隙間ができている。しかも青白い顔をしていた。
「……ううん……。ファビアン、助けて……」
 かすかにレインの声が聞こえた。
「何だか弱った時のフレイに似ていて、かわいそう……」
「ねえ、アガタ。このままだと、本当にレインは飢え死にしてしまうわ。ファビアンは、それでいいつもりなのかしら?」
「……」
 そういえば。
 精霊はソーサリエの頭を食って生きていると、フレイは言っていた。
 だから、ソーサリエと長く離れているのは、とても危険なことだと。飢えて死んでしまう事もあると。
 アガサは切なくなって、レインを見つめた。
「ファビアンって、本当に冷たい人ね。自分の精霊の命を何とも思っていないのかしら? それとも、もうレインの替わりがいるのかしら? 無のソーサリエを目指していて、他の精霊をつけているとか?」
「それにしたって……物心ついた時から一緒にいる精霊だよ? 見捨てるはずないじゃない」

 そう、物心ついた時から一緒にいる。
 だから、私だって、フレイを捨てられない。

「……だから、アイツはつめてーヤツなんだって言っているだろ? おいら、アイツの精霊になるのだけは嫌だぜ」

 突然、アガサの耳元で声がした。
「フレイ?」
「アガタ? どうしたの?」
 声をかけてきたのはイミコだった。フレイの姿はどこにもない。
 アガサは、あたりをきょろきょろした。
 フレイは現れない。きっと近くにいるのだと思うのだけど……。
 諦めてそっとため息をついた。
「レインを逃がそう。もう、かわいそうで見ていられないわ」

 窓を開け、ぱくっとロウを割った。
 すると、レインはぷるぷるっと薄い羽を振るわせた。ロウの欠片が飛び散った。
「もう行ってもいいわよ」
 アガサの言葉に、レインはプイとそっぽを向き、飛び立った。
 だが、すぐには飛んでいかず、アガサの頭上を三度ほど回ってぺこりと頭を下げた。最後に、きれいな笑顔を見せて。
 次の瞬間には、あっという間もなく、姿が見えなくなっていた。

 明日のテストに、何の方策もないまま……。
 アガサは、ふっとため息をついて、窓を閉めた。



 待ち合わせの時間は過ぎている。ジャン‐ルイは、時計を確認した。
「珍しいなぁ、ファビのヤツが遅れるなんて」
 中央食堂で待ち合わせして、お昼を一緒にとることは、ジャン‐ルイとファビアンの間で珍しいことではない。だが、常に5分前行動のファビアンが、ジャン‐ルイよりもあとに顔を出すことなど、今までなかったことだ。
 多くの人々でざわつく食堂の中を、縫うようにしてブロンドが踊った。
「やぁ、待たせたね」
 ファビアンは、やや慌ただしく現れた。多少息が上がっているようにも思える。
 だが、それ以上にジャン‐ルイがおかしな顔をした理由。
「おい? レインはどうしたんだ?」
 精霊を連れていないソーサリエなど、普通はいない。
 何か、命令を与えて離れることがあったとしても、少しは余韻があるはずなのだが、ファビアンにはその気配もない。
「今、戻ってくるさ」
 ファビアンは、にこりと笑った。
「なら、いいけれど……」
「それより、話って何だい?」
 フレンチフライとチキン、ニース風サラダを並べながら、ファビアンが聞いてきた。
「しつこいと思われるかも知れないが……アガタのことさ。明日がいよいよ本番だから」
「受かるはずがない」
「だから、どうにかできないか、最後の相談だよ」
 ファビアンは、じっとジャン‐ルイの顔を見た。
「君は、もう諦めたのかと思っていたよ」
「諦めているさ。でも、アガタは諦めていない。だから、どうにか、最後のあがきさ」
 オレンジジュースを飲みながら、ジャン‐ルイは言った。
「あの子の願いを叶えてやりたい」
「ふーん。でも、あの子は君の妹じゃない」
 ファビアンが椅子の背にもたれた時、どこからともなくレインが飛んで来て、ファビアンの髪に潜り込んだ。
 一瞬、ファビアンの顔に安堵の色が浮かんだ。
「妹の代わりなんて思っていないさ!」
「じゃあ、君の思い人?」
「そんなんじゃない」
 ジャン‐ルイは、かすかに頬を染めた。
「ただ……。一生懸命やっている姿を見ていると、報われてもいいんじゃないかと……」
「この学校が火事になってもいいとか? 大爆発してもいいとか? アガサがフレイを抑えきれない限り、報われるべきじゃないよ」
 チキンを上手にナイフで切りながら、ファビアンが言った。
 まさに、それは正論だった。
 ジャン‐ルイは、サラダの卵をフォークで突き刺し、小さなため息をついた。
「他に方法はないのか……」
 レインがファビアンの髪の毛の中を、もぞもぞと動き回っている。それを全く気にしていないのか、ファビアンは微笑んだ。
「他に方法……ね……」
 レインがふわっと元気よく飛び立った。


 ジャン‐ルイが、昨夜の事件を知ったのは、ファビアンと別れてからである。
 テスト前日のアガサの様子を見ようと、部屋に立ち寄った時だった。
 アガサはすっかり元気をなくして寝込んでいるし、イミコも元気なくしょぼくれていた。
「……それで、アガタはレインを逃がしてしまったの」
 イミコの説明に、ジャン‐ルイは顔をしかめた。本当は、出してくれた緑茶が苦すぎたのだ。
「だから、ファビのヤツ、レインを連れていなかったのか」
 ジャン‐ルイは、うーんと唸った。
 ファビアンの遅刻の原因は、階段232段にあるのだろう。いつもは精霊の力を使っている彼のこと、かなりいい運動になったに違いない。
「ジャンジャンのお友達にこんなことを言うのは悪いけれど……まさか、自分の精霊を見殺しにするなんて、信じられないわ」
 イミコは思わず涙ぐんでいた。
「違うよ、いくらアイツが優れたソーサリエであっても、精霊なしでは何もできない。レインを見殺しになんかしない」
「でも! あの時は確かに……」
 イミコは、ファビアンの冷たい言葉と態度を思い出して、ぶるりと震えた。だが、ジャン‐ルイは、逆にくすっと笑ってみせた。
「ファビのヤツ、アガタがレインを逃がすって知っていたんだ。弱って死にそうな精霊を放っておくような子じゃないって、見越してのことだよ」
 イミコは、涙目を丸くした。
「え? それじゃあ……」
「ファビアンのほうが、一枚上手ってこと」
 イミコは、ちらり……とベッドルームのほうに目をやった。
「それにしてもひどいです。だって、アガタは必死だったんですもの。それが、精霊を殺してもアガタとつきあいたくないなんて、言われちゃって……。さすがのアガタもすっかり落ち込んでしまって……」
 ジャン‐ルイは、腕組みをして、うーんと唸った。
「……確かに名案だよ。アガタとファビアンがペアを組むっていうのは。ファビなら爆発しそうなフレイを抑えられるし、もしもファビがそこまでして火の精霊を研究したいなら、アガタが側にいたほうが、自分でフレイを持つよりも負担が少なくてすむ。アガタは、頭がいいね」
「どんないいアイデアでも、お断りされてしまっては……」
「確かにね。でも、どうしてファビのヤツは断ったのかな? ヤツにとってもいいことなのに」
 イミコは、情けなさそうな顔をした。
「……それだけアガタのことが嫌いなのかしら?」
 その質問に、ジャン‐ルイは、うーんうーんと首を傾げるだけで、答えなかった。


 丸一日、アガサは落ち込んで寝込んでいた。
 ……といっても、お昼にはイミコが運んでくれたサンドイッチを食べ、夜にはジャン‐ルイが差し入れたモンブランも食べ、ついでにマカロンも食べ尽くしたのだが。
 モンブランを食べている時、アガサはファビアンとのデートを思い出していた。
 あの時、都合でも何でも、恋人のように言ってくれたことが、とてもうれしかった。それに、額にだけど、キスしてくれた。
 昨夜だって、フレイが爆発すると思った時、ファビアンはアガサをかばってくれたのだ。
 とっさに掛けられたマント。そして……。
 その彼が、冷たいはずはない。
「そこまで……嫌われちゃったのかな?」
 ふっとアガサはため息をついた。涙が出てきそうである。

 ――何だか、精霊と共に恋まで失った気分。

「元気なんか、出るはずないじゃない……」
 と言いつつ、マカロンをくわえているアガサであった。