(2)
フレイは死なない。
だから、もういいじゃない。アガサ。
諦めて楽になっちゃおうよ……。
うーん……と、アガサは首を振った。
ハードな練習のせいで疲れ果てているのか、嫌な夢を見る。
誰かが耳元で囁いているような……。
ねぇ、もう学校は諦めて、マダムにお願いして、お金持ちのお嬢様にでも姫君にでもしてもらっちゃおうよ。
美味しいお菓子に囲まれてさぁ、きっととても素敵な生活が待っているわよ。
「うーん……。だよねー」
アガサは、ふがふが言いながら、思いっきり寝返りを打った。
そのとたん。
ぶちゃ!
「え? ぶちゃ?」
慌てて跳ね起きた。
手元に冷たいものを感じて、ぞっとした。
「これって……水っぽいんですけれど……まさか?」
真っ赤になって、アガサはそーっと手元を見た。
おねしょ……なんて、ないわよね?
さすがにそれはなかった。
アガサの手元には、何やら透き通った羽をばたつかせる精霊の姿があった。
隣のベッドのイミコも飛び起き、カエンがロウソクに火をつけた。
「んまー! この子は! ファビアンの精霊のレインではありませんか!」
素っ頓狂な声で、カエンが叫んだ。
水の精霊との対立で、カエンはメラメラと大きくなってゆく。イミコが必死で抑えていたので爆発はしなかったが、いつもの三倍にはなっていた。
「うっふん! 失礼ね! 急にたたき落とすなんて」
レインは、アガサの手の中で長い髪を手で払って気取っている。
「それよりも、レイン。あなたのほうがずっと失礼です。アガタさんに何の用事があるというのです?」
こけしのような顔のカエンだが、三倍も大きな顔になっていれば、どことなく迫力がある。
「だいたい、火の精霊がたくさんいるこの寮に一人で飛んでくるなんて……」
イミコが必死にカエンの力を抑えながら、やっと口を聞いた。
「……! いいえ! そんなはずない! 精霊がソーサリエの命令無しで動くなんて!」
アガサはあわてて窓を開けた。
案の定……。
窓の外に、ふわりと浮かんだファビアンがいた。
月の光に照らされて、プラチナの髪が青白く輝いた。
その中に、アガサの手を離れたレインが、すすす……っと潜り込む。
アガサに見つかって、苦笑いなのか、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
ファビアンは、そっと会釈をすると、そのまま飛んで行った。
「待って! ちょっと! 何なのよ! 逃がさないわ!」
アガサはあわてて窓に足を掛けた。
エレベーターの魔法も使えないアガサである。ファビアンのように飛んでどこにでも行けるわけではない。
当然、見ていたイミコは驚いてしまった。
「きゃー! アガタ! 危ない! 落ちるわ!」
だが、イミコのやることは、いつも逆効果を生むことが多い。
いきなり大声。しかも背中にどん! と、ぶち当たられて、アガサは窓辺でバランスを崩した。
全然飛び降りるつもりなんかなかった。ただ、ファビアンを問いつめたかっただけだ。
「ぎゃあああ! あれれれれーーー!」
ぐるぐる腕を回したが、まったく意味がなかった。
「あ、アガターーー!」
イミコが驚いて腰を抜かす中、アガサは真っ逆さまに窓から落ちた。
「ぎゃーーーー! フレイ! フレイーーーー!」
だが、助けてくれたのはフレイではない。
イミコの悲鳴で、ファビアンが戻ってきて、ぎりぎりのところ、アガサの右足首を掴んだのである。
かわいそうなアガサは、パジャマ姿で左足をばたつかせたまま、おへそを出した状態で、ゆっくりと芝生に着陸した。
股関節が外れそうだったが、それよりもまた、ファビアンにかっこ悪いところを見せてしまった。いや、それよりも……。
「助けてくれてありがとうだけど、どういうことだか聞かせてよね!」
今度は、ファビアンの右手首を捕まえたまま、アガサが叫ぶ番だった。
ファビアンは、すこしだけ困った……という表情を見せた。
「……ただ、無駄な努力をしている君が、かわいそうだったから……」
「耳元で、『あなたは諦める、あなたは諦める、あなたは諦める……』って、囁いて……。それで私が諦めるとでも思っているの!」
「ああ」
きれいな顔であっけなく肯定されると、どっと疲れてしまう。
しかも、夜露で芝生は冷たい。この騒ぎで、モエバーが起きてしまうかも知れない。
「ちょっと。ここでは何だから、私の部屋へ行きましょうよ」
アガサの提案に、手首を掴まれたままのファビアンは、いたずらっぽく微笑んだ。
「こんな夜中に、男の子を連れ込むなんて大胆だね?」
「バカ!」
アガサはかんかんになって怒った。
部屋の窓からは、イミコが心配そうに覗いていた。
緑茶を三人でずずず……と飲む。
カエンがレインににらみを利かせたままである。
スコン! と同時に茶碗を置いて、三人もじーっと見つめあった。
「あなたの企みを今日こそ暴くわ!」
「別に企みなんて……。僕は、ただ、早く君が諦めたほうがいいと思って……」
火花が散りそうなアガサの視線と、それを消火するファビアンの瞳。その中にあって、イミコだけがしんみりしていた。
「でも……ファビアン。あなたがわざわざそんなことをしなくても、このままだったら、明後日の試験は不合格なの。アガタは火をつけられないし、フレイはどこかに消えちゃっているし。あなたは、何もしなくてもいいはずなのに、どうして?」
アガサは、たらりと汗をかいた。
「イ、イミコ。私はまだ、まったく諦めていないんだけど」
「明後日の試験が終わったら、諦めていなくても諦めます」
カエンが、目を白黒させているイミコのかわりに言葉を続けた。
「あ、諦めないわよ! 私!」
アガサは叫んだ。
「でもね、アガタ。ジャンジャンも、諦めたほうがいいんじゃないかって……」
「な、何ですってえええ!」
どうやら諦めモードに入っていないのは、アガサ一人だけらしい。
フレイを先頭にみんな揃って諦めなのだ。
「だって……。ジャンジャンの話だと、フレイの本当のソーサリエの子がいるって話だもの」
イミコは、今日聞いた話を恐る恐るしてみた。
「だから、フレイは、自分は封印を受けて、その子には新しい精霊がつくようにしたいんだって」
「がーん!」
アガサはショックを受けた。
それでフレイは、何度アガサが呼びかけても答えなかったのだ。
「フレイは、千年蘇らないつもりなんだって……」
イミコの言葉に、アガサはすっかりしょげてしまった。
そのすきに、ファビアンがそっと窓へと近寄っていくのを、カエンは見ていた。
「レインは、ロウソク風呂にでもお入りなさい」
突然、水の精霊をふんずかまえると、あっという間にロウソクに突っ込んだ。
「あれー!」
か細い声で叫んだかと思うと、レインはあっという間に蝋人形になってしまった。
完全に羽も動かせず、精霊としての力を発することはできない。
「さて、これでファビアンも空を飛んでは帰れないわけです」
アガサとイミコが気がつかないうちに、ファビアンは窓に足を掛けていた。が、ピクリ……と眉をしかめると、再び足を下ろした。
アガサは思い出した。
「ファビアン。たしか、あなた……フレイを引き取るっていったわね?」
「そうだったかな?」
「そうよ! だから、フレイは死なない。だから、諦めなさいって」
「言ったかな……」
「言ったわよ!」
何だか陰謀の香りがする。アガサは鼻をひくひくさせた。
「フレイ! 聞いた? 私が試験に落ちたって、あなた、消えないのよ? このファビアンの精霊になるだけなんだから! あなたの本当のソーサリエを助けることになんかならないんだから!」
アガサは、部屋の至る所に向かって叫んだ。
「こんなヤツの言いなりになっていいわけ? 私と離れてもいいわけ? 一緒に試験に受かろうよ! そして、本当のソーサリエを探そうよ! フレイ!」
「こんなヤツって……僕は!」
「いいからあなたは黙っていて!」
アガサにすごまれて、思わずファビアンはうなずいていた。
「おーい! フレイ! 聞いているの? 聞いているのかよ!」
アガサはイライラと叫ぶ。
その横で、イミコも固まっていた。
「……アガタって……あんなに口が悪かったかしら?」
「ソーサリエは、ついている精霊に影響を受けるから……」
「ど、どーゆーことだよ、てめぇ………」
かすかな声が、空中に響いた。
消えるか消えないかの、ゆらゆらしたフレイの姿が、アガサの鼻先に浮かんだ。だが、話しかけた相手は、ファビアンだった。