ソーサリエ〜アガサとアガタと火の精霊

第4章
 チェンジリング


(2)


 フレイは死なない。
 だから、もういいじゃない。アガサ。
 諦めて楽になっちゃおうよ……。

 うーん……と、アガサは首を振った。
 ハードな練習のせいで疲れ果てているのか、嫌な夢を見る。
 誰かが耳元で囁いているような……。

 ねぇ、もう学校は諦めて、マダムにお願いして、お金持ちのお嬢様にでも姫君にでもしてもらっちゃおうよ。
 美味しいお菓子に囲まれてさぁ、きっととても素敵な生活が待っているわよ。

「うーん……。だよねー」
 アガサは、ふがふが言いながら、思いっきり寝返りを打った。
 そのとたん。

 ぶちゃ!

「え? ぶちゃ?」
 慌てて跳ね起きた。
 手元に冷たいものを感じて、ぞっとした。
「これって……水っぽいんですけれど……まさか?」
 真っ赤になって、アガサはそーっと手元を見た。
 おねしょ……なんて、ないわよね?
 さすがにそれはなかった。
 アガサの手元には、何やら透き通った羽をばたつかせる精霊の姿があった。
 隣のベッドのイミコも飛び起き、カエンがロウソクに火をつけた。
「んまー! この子は! ファビアンの精霊のレインではありませんか!」
 素っ頓狂な声で、カエンが叫んだ。
 水の精霊との対立で、カエンはメラメラと大きくなってゆく。イミコが必死で抑えていたので爆発はしなかったが、いつもの三倍にはなっていた。
「うっふん! 失礼ね! 急にたたき落とすなんて」
 レインは、アガサの手の中で長い髪を手で払って気取っている。
「それよりも、レイン。あなたのほうがずっと失礼です。アガタさんに何の用事があるというのです?」
 こけしのような顔のカエンだが、三倍も大きな顔になっていれば、どことなく迫力がある。
「だいたい、火の精霊がたくさんいるこの寮に一人で飛んでくるなんて……」
 イミコが必死にカエンの力を抑えながら、やっと口を聞いた。
「……! いいえ! そんなはずない! 精霊がソーサリエの命令無しで動くなんて!」
 アガサはあわてて窓を開けた。
 案の定……。
 窓の外に、ふわりと浮かんだファビアンがいた。

 月の光に照らされて、プラチナの髪が青白く輝いた。
 その中に、アガサの手を離れたレインが、すすす……っと潜り込む。
 アガサに見つかって、苦笑いなのか、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
 ファビアンは、そっと会釈をすると、そのまま飛んで行った。

「待って! ちょっと! 何なのよ! 逃がさないわ!」
 アガサはあわてて窓に足を掛けた。
 エレベーターの魔法も使えないアガサである。ファビアンのように飛んでどこにでも行けるわけではない。
 当然、見ていたイミコは驚いてしまった。
「きゃー! アガタ! 危ない! 落ちるわ!」
 だが、イミコのやることは、いつも逆効果を生むことが多い。
 いきなり大声。しかも背中にどん! と、ぶち当たられて、アガサは窓辺でバランスを崩した。
 全然飛び降りるつもりなんかなかった。ただ、ファビアンを問いつめたかっただけだ。
「ぎゃあああ! あれれれれーーー!」
 ぐるぐる腕を回したが、まったく意味がなかった。
「あ、アガターーー!」
 イミコが驚いて腰を抜かす中、アガサは真っ逆さまに窓から落ちた。
「ぎゃーーーー! フレイ! フレイーーーー!」
 だが、助けてくれたのはフレイではない。
 イミコの悲鳴で、ファビアンが戻ってきて、ぎりぎりのところ、アガサの右足首を掴んだのである。
 かわいそうなアガサは、パジャマ姿で左足をばたつかせたまま、おへそを出した状態で、ゆっくりと芝生に着陸した。

 股関節が外れそうだったが、それよりもまた、ファビアンにかっこ悪いところを見せてしまった。いや、それよりも……。
「助けてくれてありがとうだけど、どういうことだか聞かせてよね!」
 今度は、ファビアンの右手首を捕まえたまま、アガサが叫ぶ番だった。
 ファビアンは、すこしだけ困った……という表情を見せた。
「……ただ、無駄な努力をしている君が、かわいそうだったから……」
「耳元で、『あなたは諦める、あなたは諦める、あなたは諦める……』って、囁いて……。それで私が諦めるとでも思っているの!」
「ああ」
 きれいな顔であっけなく肯定されると、どっと疲れてしまう。
 しかも、夜露で芝生は冷たい。この騒ぎで、モエバーが起きてしまうかも知れない。
「ちょっと。ここでは何だから、私の部屋へ行きましょうよ」
 アガサの提案に、手首を掴まれたままのファビアンは、いたずらっぽく微笑んだ。
「こんな夜中に、男の子を連れ込むなんて大胆だね?」
「バカ!」
 アガサはかんかんになって怒った。
 部屋の窓からは、イミコが心配そうに覗いていた。


 緑茶を三人でずずず……と飲む。
 カエンがレインににらみを利かせたままである。
 スコン! と同時に茶碗を置いて、三人もじーっと見つめあった。
「あなたの企みを今日こそ暴くわ!」
「別に企みなんて……。僕は、ただ、早く君が諦めたほうがいいと思って……」
 火花が散りそうなアガサの視線と、それを消火するファビアンの瞳。その中にあって、イミコだけがしんみりしていた。
「でも……ファビアン。あなたがわざわざそんなことをしなくても、このままだったら、明後日の試験は不合格なの。アガタは火をつけられないし、フレイはどこかに消えちゃっているし。あなたは、何もしなくてもいいはずなのに、どうして?」
 アガサは、たらりと汗をかいた。
「イ、イミコ。私はまだ、まったく諦めていないんだけど」
「明後日の試験が終わったら、諦めていなくても諦めます」
 カエンが、目を白黒させているイミコのかわりに言葉を続けた。
「あ、諦めないわよ! 私!」
 アガサは叫んだ。
「でもね、アガタ。ジャンジャンも、諦めたほうがいいんじゃないかって……」
「な、何ですってえええ!」

 どうやら諦めモードに入っていないのは、アガサ一人だけらしい。
 フレイを先頭にみんな揃って諦めなのだ。

「だって……。ジャンジャンの話だと、フレイの本当のソーサリエの子がいるって話だもの」
 イミコは、今日聞いた話を恐る恐るしてみた。
「だから、フレイは、自分は封印を受けて、その子には新しい精霊がつくようにしたいんだって」
「がーん!」
 アガサはショックを受けた。
 それでフレイは、何度アガサが呼びかけても答えなかったのだ。
「フレイは、千年蘇らないつもりなんだって……」
 イミコの言葉に、アガサはすっかりしょげてしまった。

 そのすきに、ファビアンがそっと窓へと近寄っていくのを、カエンは見ていた。
「レインは、ロウソク風呂にでもお入りなさい」
 突然、水の精霊をふんずかまえると、あっという間にロウソクに突っ込んだ。
「あれー!」
 か細い声で叫んだかと思うと、レインはあっという間に蝋人形になってしまった。
 完全に羽も動かせず、精霊としての力を発することはできない。
「さて、これでファビアンも空を飛んでは帰れないわけです」
 アガサとイミコが気がつかないうちに、ファビアンは窓に足を掛けていた。が、ピクリ……と眉をしかめると、再び足を下ろした。
 アガサは思い出した。
「ファビアン。たしか、あなた……フレイを引き取るっていったわね?」
「そうだったかな?」
「そうよ! だから、フレイは死なない。だから、諦めなさいって」
「言ったかな……」
「言ったわよ!」
 何だか陰謀の香りがする。アガサは鼻をひくひくさせた。
「フレイ! 聞いた? 私が試験に落ちたって、あなた、消えないのよ? このファビアンの精霊になるだけなんだから! あなたの本当のソーサリエを助けることになんかならないんだから!」
 アガサは、部屋の至る所に向かって叫んだ。
「こんなヤツの言いなりになっていいわけ? 私と離れてもいいわけ? 一緒に試験に受かろうよ! そして、本当のソーサリエを探そうよ! フレイ!」
「こんなヤツって……僕は!」
「いいからあなたは黙っていて!」
 アガサにすごまれて、思わずファビアンはうなずいていた。
「おーい! フレイ! 聞いているの? 聞いているのかよ!」
 アガサはイライラと叫ぶ。
 その横で、イミコも固まっていた。
「……アガタって……あんなに口が悪かったかしら?」
「ソーサリエは、ついている精霊に影響を受けるから……」

「ど、どーゆーことだよ、てめぇ………」
 かすかな声が、空中に響いた。
 消えるか消えないかの、ゆらゆらしたフレイの姿が、アガサの鼻先に浮かんだ。だが、話しかけた相手は、ファビアンだった。