(3)
――この子は誰の子なんだ?
家族の中で、たった一人だけ毛色が違う……。
夫婦喧嘩なんて、ごくありきたりに日常茶飯事なのかも知れない。どの家庭にもあることだろう。
でも、幼いアガサは傷ついた。自分が、喧嘩の原因になっているような気がして。
――なぜ、この子の髪は赤いんだ?
そう、アガサ以外、家族はみんな、青い目で金髪だった。
屋根裏部屋で泣きながら、目の前を飛び回る精霊に話しかけた。
『ねえ、あなたは何なの? 私は何なの……? どうしてここにいるの?』
幼い日々……。
でも、今のアガサは。
「よしてよ、今更悪い冗談は! 私、アガサ・ブラウンは、こんなんじゃない!」
……という訴えも、おそらく『アガタ』になっているのだろう。金髪を振り回しながら、アガサは叫んでいた。
ファビアンは、おかしそうに微笑んだ。
こうなれば、いかに憧れの王子様といえど、許しがたい気持ちになる。
「つまり、あなたはマダム・フルールの回し者なのね! よってたかってフレイの間違いを指摘して、私を追い返すつもりなんだわ!」
「心外だな」
ファビアンは、笑うのをやめ、髪をかきあげた。
顔に掛かりそうなプラチナの髪を、そっとかきあげるのは、彼の癖らしい。やや気障な感じだが、顔立ちがきれいだと様になる。
「僕は、君の長年の疑問に答えてあげただけなのに……」
確かに、アガサの長年の疑問だった。だが、何でファビアンがそんなことまで知っているんだろう? まるで、何でもお見通しではないか?
何だか、ものすごく腹が立つ。
「あなたが教えたいことって、そんな事だったんだ!」
「違うよ、もっと大事なことだ。おいで」
そう言うと、ファビアンは再び歩き出した。
アガサは……何だか納得できないような気分だが、彼を後をついてゆくしかない。
――おいで、なーんて言われて、何で私がのこのこついていかなきゃならないのよ!
しかも……顔がニマニマしてくるなんて。
ふっとファビアンが振り向いた。
アガサは慌てて顔を引き締め、むくれてみせた。
が、視線が外れると、また、顔がにまぁーっと緩んでしまう。
にま、むっつり、にま、むっつり……を5回ほど繰り返した後。どうやら目的の場所に着いたらしい。
ファビアンは扉を開けた。
「おぼえている? この場所は」
「おぼえているですって! 私、ここになんか来たことが……あるわ」
鼻をくすぐる甘い香り。目の前に並ぶガラスケース。マカロンの山。
忘れもしない。食堂である。
アガサの憧れの場所であり、憎い場所でもある。
しかも、忍び込んだ夜とは違い、明るい日差しが差し込む喫茶室があった。そこに多くの生徒たちが、ティータイムをとっていた。
読書する者、黙々と食事する者、友達と談笑する者。中には、マントの裏地の色が違う者同士、議論している者もいた。
多くのソーサリエたちにとって、ここは至福の場所にちがいない。だが、あがさには、苦い思い出がある。
そう、御用となった苦しい思い出が。
「わ、私が甘い物の誘惑に負けて、ニコニコするとでも思っているの!」
「うん」
あっけなくファビアンは答えた。
「……うっ」
マカロンの屈辱をアガサは忘れない。
だが、その美味しそうな姿も忘れられないのだ。
言葉を無くしたアガサに、ファビアンは笑っていた。そして、まるで友達のような親しさで。
「アガサは席を取っておいて。僕はケーキを買ってくる。モンブランでいい?」
「……うっ、うん……」
いけない。完全に、読まれている。
アガサは真っ赤になりながら、あいたばかりの窓辺の席を確保した。
回りの人たちは、よほどアガサが珍しいのか、ちらり、ちらり……と視線を送る。だが、話しかけてくる人はいなかった。
(な、なんか、すごーく嫌な感じじゃない? 私の顔に何かついている?)
いたたまれなくなってくる。
まるで異邦人を見るような目。確かに、今のアガサは、自分でも自分に戸惑う状態なのだ。
「ねぇ、何でこうなるのよ?」
ふと話しかけて、気がついた。
答えてくれる相棒は、そこにいなかった。
――そういえば……。フレイを置いてきちゃったんだわ。
答えがあってもなくても、アガサの回りには常に火の精霊がいた。そして、アガサは赤い髪をしていたのに。
手に絡まる金色の髪は、子供時代に憧れたものであっても、今のアガサには似合わない。
ファビアンの言葉が頭の中にリフレインしてゆく。
「本来の私? そうなのかしら?」
「そう。君はソーサリエじゃない」
いきなり、本当のファビアンの声。
ぼんやり髪を撫でながら座っていたアガサの前に、モンブランとマカロン、それにチョコレート・ケーキが現れた。
つい、アガサの目は、モンブランの高々とした白い山に釘付けになってしまった。
ファビアンは、にこっと微笑むと、今度は紅茶のポットとカップ・アンド・ソーサーを運んできた。
上品な手が、優雅に紅茶を入れるのを、アガサはぼんやりと見つめた。ほのかな香りが漂ってきた。
その向こう、向かい合ってファビアンが座った。
「どうぞ。僕のおごり」
「え? ええ? 何で私におごってくれるわけ?」
状況が飲み込めなくて、アガサはむすっとした。だが、右手はしっかりとケーキ・フォークを握っている。
「デートのつもりだけど?」
「ぶほっ!」
アガサは思わず紅茶を吹き出してしまった。
「なななななな……なんですってー!」
「だって、そう言えば誰も僕たちの邪魔はしないだろ?」
ファビアンは、すっとポケットから絹のハンカチを取り出し、手にかざした。すると、レインがそのハンカチを受け取って、アガサが吹き出した紅茶をきれいに掃除した。
アガサは、吹き出した紅茶が恥ずかしいやら、デートで想像したことが照れるやらで、真っ赤になっていた。
だいたい、モテモテの王子様の彼女宣言なんてしたら、あとが恐いかもしれない。
「それはないよ」
「ど、どういうことよ?」
「女の子の噂では、僕には地上にソーサリエじゃない恋人がいるってことになっている。ソーサリエの学校では、普通の子に危害を加えると退学になってしまう。もっとも連れてくるだけでも学生牢行きだけどね」
アガサは青い目をぱちくりした。
「だから、僕が『恋人』だと言ったら、誰も君に危害を加えない。僕を学生牢に入れたいヤツ以外は、僕たちをそっとしておいてくれるよ」
平然とした顔で、ファビアンは紅茶を飲んでいる。
アガサのほうは、働かない頭を必死に働かせて、今の話を理解しようとした。
「つまり……ソーサリエじゃない私って、あなたの『恋人』なの?」
そう聞いて、心臓が飛び出そうなくらいドキドキした。
もしも、そう――なんて言われたら、鼻血が出てしまいそう。
チョコレート・ケーキも食べちゃったし……。
となれば、またファビアンは絹のハンカチを取り出して、レインに掃除をさせるのだろうか? などと、空想が広がるアガサであった。が。
ファビアンは、あまりに素っ気なく。
「まさか」
とだけ、答えた。
思わずぐったりしてしまったアガサ。
「……あ、あのね……。ちょっとは取りつく島ってものがないの?」
「それよりも、見てごらん」
水色のガラス玉のような目を、ファビアンは回りに注いだ。
見渡すと、今まで何一つ変わらない。ソーサリエたちが、それぞれの属性のマントを翻しながら、歩いたり、座ったり、食事をしたりしているだけだ。
どうやら話をそらされたらしい。
「違う。よく見てごらん。皆、それぞれ精霊を連れている。連れていないのは君だけ」
そう言われれば……。
ソーサリエたちの回りには、常に精霊がついている。そして、ここの生徒たちは、皆、精霊の力を制御していて、火と水がすれ違おうが、風と土が手を繋ごうが、何も起きないのだ。
「つ、連れていないって……ちょっと置いてきただけだもん!」
ファビアンは、穴が開きそうなくらいアガサをじっと見つめた。
「ソーサリエと精霊は、お互いに共存関係にある。だから、ちょっと置いてくるなんてできない。それこそ閉じ込めたり、何らかの命令をしていないと、呼び合ってしまうものなんだ」
少なくても、アガサとフレイは呼び合っている気配はない。ここにいるどのソーサリエとも、アガサは異質の存在だった。
「そ、そんなこと!」
やけくそになって、アガサはフォークをモンブランの頂上に突き刺すと、そのまま口に運んだ。ぱくっと……と一気に口に放り込んだ。
ファビアンのほうは、それがおかしかったのか、くすくすと笑っている。
「デートにケーキの一気とは」
「……もぐ! もごもごもぐぅー!」
――何よ! もう!
私の気持ちを知っていてからかっているのかしら?
前言撤回! 失礼なヤツなんだわ!
……とはいえ、紅茶を注いでくれる手が優しげで。
「ここのケーキはね、マダム・フルールがパリで修行したパティシエを雇い入れて作らせているんだ。ここで食べなければ、パリまで行かないと食べられないよ」
確かに美味しすぎた。
だが、どうもファビアンの貴族的な態度が、一般庶民アガサには鼻についた。
「そ、それは、ご親切なのね。じゃあ、あなたは私が退学になって、金髪のアガサになる前に、一流のケーキをごちそうしてくれたわけね?」
どうせ、アガサの家では、誕生日にでさえも形の崩れた安物ケーキしか当たらない。それを、アガサは毎年楽しみにしているのだ。
「いや、君は……退学になったら、おそらくフランス人になる。豊かな貴族の一人娘として、これからは生きることになる。マダム・フルールの魔法によってね」
「はぁ?」
「そうなったら、フォーションでもラデュレでも、好きなだけお菓子が食べられるよ」
一瞬、アガサの顔が、ぱっと明るくなった。が……必死に誘惑に耐え、厳しい顔をファビアンに向けた。
「ソーサリエじゃない君へのお詫びも込めて、マダムはそうする。それに、フレイだって、恩赦を受けられるよ。僕が責任を持って、預かることにしたから」
アガサの厳しい顔が、一瞬、再び緩んだ。
「……フレイも死なないの?」
「僕は、火の魔法を習得し、無のソーサリエになりたい。そうなったあかつきには、フレイは僕の火の精霊となる。だから、死なないよ」
アガサは、働きの悪い頭を必死に動かした。
――私がソーサリエじゃなくて。
――フレイが死なないのであれば……。
別に……がんばって学校にいる必要ない?
ファビアンが、これ以上ないほどの優しい笑顔を、紅茶の湯気越しに見せた。
「アガサは、ソーサリエじゃなくても幸せになれるよ」
未来は前途揚々。
フレイは死なずに済む。
自分の世界に戻ったアガサは、フランス貴族の姫君。
贅沢な暮らしと一流のお菓子。
「……でも……今までの私はどうなるの?」
「君は、アガサ・ブラウンではなくなる。彼女は、焼け死んだことになっているから」
ファビアンの言葉が、甘いものでマヒしたアガサの頭に染み渡った。
「地上に降りたら、君は本来の金髪と青い目の女の子になって、新しい名前で呼ばれるよ。アガタってね」
――アガタ……。
金髪碧眼の、お金持ちのお嬢様。
不良の兄と性格の悪い姉、悪知恵が働く妹はいない。夫婦仲最低の両親もいない。
崩れた誕生日ケーキもなければ、クマさんの縫いぐるみで喧嘩しなくてもいい。
赤毛に染まった兄のうるさいパンクを聞かなくてもいいし、学校の先生に怒られなくても済む。
――この子はいったい誰の子なんだ?
「それ……。本当の私じゃない」
思わずかじりかけのマカロンを、皿の上に戻した。
ファビアンの微笑みが、不思議そうな表情に変化した。
「……?」
まるで覗き込むように、ファビアンが見つめている。これじゃあ、心の中まで覗かれてしまいそうだった。
でも、アガサはそれでもいいと思った。いや、わかってほしいと思ったのだ。
青い目のまま、アガサもファビアンを見つめた。
「ファビアン、それ、本当の私じゃないよ。だって、私は『アガサ』で、赤毛で、赤茶の瞳で、ずっといたんだもの。今更、『アガタ』にはなれない」
おそらく『アガサ』は『アガタ』に変換されている。
でも、四大精霊語をマスターしているファビアンには、ちゃんとアガサと聞こえたのだろう。完全に、ファビアンの微笑みが消えた。
「君はただ、精霊に間違って付かれて、変化していただけだ。今こそ、精霊との繋がりを捨て、本来の自分に戻るべき時だと思うけれど?」
「違うわ。私には、物心ついた時から、フレイがいたんだもの! 確かに生まれたままの姿なら、そうかも知れない。でも、フレイとともに成長して、変化してきた私こそ、本当の私なのよ!」
ぴくり……と、ファビアンの眉が動いた。