(1)
学長室を出たファビアンは、風が舞う芝生の上を歩いていた。
普段は水の寮まで一飛びだったが、さすがにマダム・フルールとのやり取りで疲れてしまい、何となく歩きたい気分だったのだ。
これから起きることは、ファビアンにとっても大事な賭けとなる。
なんせ、下手をすれば、マダム・フルールを敵に回すことになるわけで。もう引き返せないところまで来てしまった。
青空と緑。気持ちがいい。
だが、中庭の中央になぜか赤い点。燃え盛る炎のような少女を見つけて、足を止めた。
「やあ」
最初に声を掛けたのは、ファビアンのほうだった。
アガサのほうは、仁王立ちになり、腕を組み、髪の毛を風がもてあそぶままに舞い上げていた。
だが、ファビアンの声を聞いたとたん、急に芝生に跪き、ぺこりと頭を下げた。
「お願い! 私を見捨てないで! どうにか、練習につきあってください!」
その姿は、土下座というものである。ファビアンは、さすがに驚いた。
「それよりも、君。どうやってここまで来たの?」
「歩いてです」
ファビアンの髪からレインが出てきて、アガサの頭の上に止まった。どうやら、フレイはいないようである。
ファビアンは、風に乱れた髪をかきあげながら、なるほどね……と、言った。
「ホール・パスのゲートをすべて避けてきたうえに、精霊を置いてきた。となれば、君でもここまで来ることができるわけで……」
ソーサリエでない女の子。だからこそ、考えついたのだろう。
ただし、かなりの距離だ。入学の時に一度許されて通っているとはいえ、よく道に迷わなかったものだ。
アガサは土下座したまま、大声でお願いした。
「お願い! 火のつけ方を教えてください!」
ジャン‐ルイとイミコ、イシャム、それにアリ。さらに精霊たちが加わって、迫り来る試験の日の対策を練っていた。
その対策といえば、ほとんどフレイの力をそぎ落とすことばかりに集中していて、フレイはご機嫌斜めだった。彼は燃え盛る火のように興奮していた。
その間を、アガサは抜き足・差し足……で抜け出して、この中庭まで来たのだった。
水のソーサリエの寮まで飛び込むつもりだったが、その前にファビアンを見つけることができた。
――この人、冷たいけれど、優しいと思う。
それが惚れた弱み……ではなく、アガサの確信だった。
できることをできる、できないことをできないと言ってくれること。それは、ある意味では優しいこと。能力の限界に逃げ道を残してくれるから。
でも、アガサはそれでもフレイとともに、この学校に残りたい。そのためになら、何でもしようと思ったのだ。
「爆発でも何でも、火をつけられるということは、きっと制御もできるはずだわ!」
ファビアンは、素っ気なく答えた。
「それは、ソーサリエじゃないから無理……」
「ソーサリエじゃないなら、ソーサリエじゃない方法を見つければいいんだわ!」
ファビアンは、髪をかきあげる手を止めた。
何やら、考え込んでいるようだが、アガサはその間もずっとおでこを芝生につけていた。
やがて、やや感心したような声で、ファビアンが言った。
「君って……。なかなか頭がいいね」
「はあ?」
思わず頭を上げてしまった。
アガサ・ブラウン12歳。頭脳を褒められたのは、生まれて初めてのことである。
それどころではない。目と鼻の先に、ファビアンの手が差し出されていた。
「さあ、立って。あまり時間がないけれど、面白いことを教えてあげる」
ドキドキしながら、アガサがファビアンの手をとると……。
「きゃああああああ!」
と言う間に、アガサとファビアンの体は、空中に浮かんでいた。
その頃。
「ダメだ! これじゃあ埒があかない! アガタ、君が決断を下すべきだよ……」
ジャン‐ルイが進まない話に結論をつけようとした時。
「あ、あら? アガタがいないわ」
「アガタ姫?」
「アガタお嬢ちゃん?」
「ねーさん?」
やっと、話し合い中のメンバーが、アガサがいないことに気がついた。
ハタハタとカエンが飛び回りながら、フレイを挑発した。
「なぜ、主殿がいなくなったのに、気がつかないのですか? フレイは」
「悪いか? おいら、近頃、切ったり張られたり、水に浸されたり、爆発したり……で、ものすごく疲れているんだ。しかも、ストレスたんまり。ナーヴァスで苛々、正気でいられるほうがおかしいってんだ!」
フレイはふくれていた。
「精霊にストレス? ナーヴァス? 苛々? 疲れ?」
面白そうにカエンが言った。
「それよりも、アガタったらどこへ行ったのかしら?」
イミコが不安そうに言った。
「学校内で行けるところなら、フレイがいない分、心配はないと思うけれど……」
とジャン‐ルイ。
「絨毯で飛んで捜してきましょうか?」
「それよりも、フレイがわかるだよーん。精霊はソーサリエに付いていてなんぼ……ってんだから、磁石が引き合うように離れてはいられないもーん」
イシャムがヒゲを引っ張りながら言った。
「それよりも、あまり長い時間、命令でもないのにソーサリエから離れているのはよくないわ。フレイ、お腹がすいて死んじゃうかも?」
珍しくバーンが意見した。
「……」
「フーリも同じ意見です」
ジンが伝言した。
フレイは、くるくるダンスしながら、机の上に舞い降りた。
「しょーがねーな、ねーさんは……。じゃあ、おいら、飛んでゆくから、アリ、後をついてきて。もー、へんなところにいたら、学校爆発だぜ?」
「僕とイシャムも追いかけるよ。何かあったら、アリだけじゃ押えきれないし、アガタだって、無事じゃすまないから」
「あいよー!」
そうして、準備が整った。
あとは、フレイが飛ぶのを待つだけである。
じーっと待つこと……。待つこと。待つこと。
「ちょいと長過ぎませんか?」
アリが飛び上がるポーズのまま、我慢できなくなってフレイを見た。
フレイのほうは、100メートルダッシュでもしそうなポーズのまま、固まっている。
「待てよってば! まだ、アガタの気配がわかんねーんだよ!」
イライラしながら、フレイが言った。
さらに待つこと……。じっと待つこと。もっと待つこと。
「もしかしてフレイ。お腹をすかせて死んだのではないですか?」
カエンが言った。
「バカヤロー! おいらを勝手に殺すな!」
そう言いつつも、フレイは飛び上がる気配がない。
ついに、ジャン‐ルイがイシャムの絨毯から降りた。
「フレイを火に入れたほうがいい。バーン、フレイを補助してあげて」
「いったいどうしたんです? フレイは?」
イミコが不安そうにおろおろした。
バーンとカエンが、ダッシュ・ポーズのまま固まっているフレイをロウソク風呂の中に突っ込んだ。
こちんこちんのフレイは、やっとふにゃり……と溶け出した。
だが、同時に目から炎を吹き出した。実は、泣いているのだった。
「た、た、大変だ! アガタが消えちまった!」
「えーーーーー!」
そこにいた全員の声が揃った。